第6話 鳥かごのエレベーター
4月釧路の春はまだ遠い。太陽も霧に隠れて黄色く見える。桜が咲くのは5月の末、まだ1ヶ月も先だ。それでも末広町のネオンは、桜以上に咲き誇っている。
不夜城、ニュー東宝のステージでは、マヒナスターズの6人が、スチールギターに合わせ、切ない恋の歌を歌っている。昨日のステージでは、佐川満男が「今は幸せかい」を歌っていた。
「ねえウーさん来週はね、アイ・ジョージが来るのよ。ウーさんも来るでしょ」
「俺はアイ・ジョージなんて興味ないな、俺がここに来るのはお前がいるからだ」
「まあ上手いこと言うのね、でも私はダメよ。ウーさんのことは知ってるんだから」
「俺のことを知る訳がないだろ。俺は悪いことはしてないからな」
「しらを切ったって分かるんだからね、ウーさんが何人とやったかは誰でも知ってるわ」
「まあいいさ、そのうちにな、俺は焦らんから後はお前次第だ」
牛島は根室にある水産会社の2代目で、月の半分は、釧路のオリエンタルホテルで暮らしている。
何をしているかと聞かれても「女と何かをしていると」と答えるしかない。
つまり、そういう男である。
牛島は拘りを持たないと言うか、選ばないタイプである。はっきり言えば、誰でもいいのである。歳も容姿も関係なく、その日に当たったモノを頂く。
牛島は我慢と言うことを知らない。あれのためならなんでもする。根室では子どもにも手を出して、2度逮捕されている。
根室にいれなくなった牛島は、釧路に来た。
「いらっしゃいませ、ご指名はありますか?」
「君に任せるよ」
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
牛島はキャバレーニュー東宝の55番テーブルに案内された。ニュー東宝のステージは、出演者は鳥かごのような形のエレベーターに乗って、天井近くから降りて来る。今日の鳥かごの中に乗っているのは誰だろうと、牛島は目を凝らして見つめた。女性らしき影が鳥かごを出て、下から徐々にスポットライトが照らしていく。ハイヒール、脚、腰と上がり、胸のあたりまで来た時、牛島はビールをガブリと飲み、息を殺して、スポットライトが顔を照らすのを待った。わずか1~2秒が10分くらいに感じた。
真っ暗なステージに立つその人は、ムード歌謡の女王、美人歌手として、人気絶頂の松尾和子という人であった。
「はあーっ」と、牛島は声にならない息を吐いた。
松尾和子の唇が開き「逢えなくなって初めて…………」と、ヒット曲「再会」が流れると、牛島は我慢の限界を超えた。
「何をしているのですか」とホールマネージャーに言われた。
牛島のナニの先が、降ろしたファスナーの下から見えていた。
「ここはそういう店ではありません。お控え下さい」と言われ牛島はすごすごとキャバレーニュー東宝をあとにした。
釧路にはこういう人の欲望を満たす店は1軒もない。
歓楽街の規模はすすき野にも匹敵すると言われていたが、その点ではすすき野と大きく違った。
その日牛島は。オリエンタルホテルに泊まることはなかった。
牛島が泊まったのは、場所こそオリエンタルホテルに近いが、設備は全く異なる、黒金町の釧路警察署の中にある、留置所と言うところであった。
取り調べ調書には、器物損壊罪と書かれていた。
被害者の年齢は60歳。若い娘なら泣き寝入りしたに違いない。だが60歳の女性は勇気があった。彼女は警察に行き、ことの一切を話した。
「夜10時ころ、栄町公園の近くで犬の散歩をしていました。男が近づいてきて『可愛いワンちゃんですね』と言って、頭をなぜなぜしてくれました。
その後、公園の茂みに引っ張られて下着を取られ、ナニをされました。
「ワンちゃんはどうしたのですか」
「ポチは勇気がある子で『ワンワン』と吠えました。すると男は『うるさい』と言ってポチを蹴りました。可哀そうにポチは『キャン』と言って逃げて行きました。
「男が見つかったら告訴しますか、これは申告罪ですので」
「あの人はまだ若そうだったし、将来のことを考えると可哀そうです」
「じゃあ告訴はしないのですね」
「はい」
「病院で診てもらいますか」
「私はもうアレも上がっています。妊娠の心配はないと思います」
「そうですか、ワンちゃんは見つかったのですか」
「まだ戻ってきていません」
「じゃあ、ワンちゃんが帰ってきて、無事が確認されるまでは「器物損壊罪」としておきますが、よろしいでしょうか」
「はい、そうして下さい」
1時間後牛島は、栄町公園の回りを巡回中の警察官に職務質門された。
「そこで何をしているのですか」
「貰った名刺をこのあたりで落としてしまい、探していました」
「あ、ありました、キャバレーニュー東宝の汐未となっていますが、これでいいですか」
「それです、それです、あー良かった」
「そんなに大事な名刺なのですか」
「ええ、これがないと今日の続きが出来ないのです」
「きょうの続きですか?…一応署まで来てもらえますか」
翌日、釧路警察署から、ニュー東宝の汐未に問い合わせがあった。
「昨日、牛島という男がそちらに行ったと思いますが、あなたは名刺を渡しましたか。
「はい、渡しました」
「その時、牛島はあなたに何をしたのですか」
「ズボンのファスナーを降ろしてナニを見せました」
「それじゃあ、わいせつ物陳列罪が成立しますが告訴しますか」
「いいえ、見えたのは先っぽの方だけですし、見たのは私一人ですから、告訴はしなくてもいいと思います」
その日の午後、ポチは自力で帰ってきた。誰かが付けてくれたのだろうか、首には魔除けのお守りが付いていた。
牛島が根室に帰った日、第一牛島丸が北方四島近くでソ連の巡視艇に、領海
侵犯の疑いで拿捕された。船は没収され、1千万ルーブル(約1490万円)請求された。
翌日、第二牛島丸がホーツク海で、流氷と衝突して沈没した。その翌日、第三牛島丸が密漁容疑で逮捕された。いずれも過失責任とされ保険は出なかった。
妻には離婚を宣告され、外にできた子ども10人の養育費を、成人になるまで支払うこととなった。
北方四島から昇った太陽が、霧の釧路に向かって沈んでいった。
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