第4話 赤いベレット
「湯山さんには長い間、お世話になったわね。元気でいてね」
「なんもだよ、同じ町にいるんだからさ、いつだって会えるべさ、あんたこそ元気でな」
慎太郎の妻、富美は勤めていた佐藤木工場のパートを辞めることになった。
厚岸から釧路に来て以来5年間、富美は箱打ちのパートタイマーをしていた。
「箱打ち」と言うのは漁船から降ろした魚を詰めて、小売り店まで運ぶ木の箱を作ることを言う。
丸鋸でカットした板で、規格にそろえた板のセットを作り、パートタイマーの人たちが金槌で釘を打ち、13寸×18寸×5寸の箱にする。その後両端を針金で縛り、完成品となる。
佐藤木工場はこの箱を作る工場で、箱打ちをするパートタイマーは30人くらいいた。
パートタイマーが貰える工賃は、1箱1円であった。
打てる数は多い人でも1日200箱くらいで、1日200円。1か月フルに働いても5千円くらいである。
金槌を持つ手にはマメができ、釘を打ち損じれば指に血マメが出来る。
これを同じ姿勢で1日中続ける。過酷な仕事である。
釧路に来てから5年間、休まずに働いた。それでも夫の慎太郎はいろいろ言われる会社ではあるが、㋥佐々木に就職し、娘の敏江はホステスに、息子の健治はキャバレーのボーイとなり、二人ともアパートを借りて別に暮らしている。金もかからなくなった。もうパートタイマーを辞めても食えるようになっていた。
おもえば、いろいろあった。打った箱の数と製材した板の数が合わない時は、社長夫人に「あんた、板を持って帰ってストーブの燃料にしてるんでしょ」と、みんなが見ている前で罵られた。
「そんなことしていません」と言うと「他に誰がいるの、木を燃やしてるのはあんたんとこだけだよ、他の人はみんな、石炭だからね」と言われた。
貧乏をしていると、真面目に働いていても泥棒にされてしまうのだ。富美は世の中の不条理を、いやというほど味あわされた。誰も好んで貧乏になった訳ではない。
貧乏に育った者ほど、人より多く働いている。なのに貧乏から抜け出すのには人の倍以上の努力が必要だ。それでも抜け出せない人の方が圧倒的に多い。
当時日本は高度経済成長期であった。だが高度成長期は富める者はより多くを享受し、格差が一層広がった時代でもある。
まず教育を考えてみよう。教育にどれほどの金がかかるのか、1個1円の箱打ちには、大学はおろか、高校も無理なのだ。
義務教育を受けて世に出ても、受け入れてくれる会社は少ない。生まれた境遇が、努力も空しく一生続くのだ。
敏江も健治も中学を出て、水商売の世界に入った。受け入れてくれた水商売の世界は温かい世界だった。
少なくとも、真面目に働く者を泥棒呼ばわりはしない。
佐藤木工場に湯山静香と言う人がいた。彼女の夫は5年前、炭鉱の落盤事故で亡くなった。息子の甚弥はある事件に遭遇し、宮本町という釧路市内にありながら、出るに出れないところにいた。
富美とは事情は違えど、最も理解し合える仲だった。多分今も富美以上に苦労しているだろう。なにしろあの社長夫人のことだ。どんな扱いを受けているか、おおよその想像はつく。
佐藤夫人という人は、他人に厳しく、自分と自分の身内に甘い人だった。
長男はいつもふらふらと酒場をほっつき歩き、安い女を買って悪い病気をもらい、病院に通っていた。
娘はレズのヘキがあり、お嬢様学校といわれている星園学院高校を退学させられた。噂では釧路出身のカルーセル◯紀という人に弟子入りを頼んだが「あんた、逆じゃないの」と言われ、諦めたという。何が逆なのかは分からないが。
3日前、湯山さんから電話があり、息子の甚弥が3ヶ月後、晴れて塀の中からこっちへ来ることになったという。
甚弥は塀の向こうに行く前は、ある医薬品販売会社のを営業部にいた。
毎日軽4輪の後ろに薬を積み、病院をまわる。受け持ち地区は釧路支庁管内一帯である。面積は東京都の20倍以上ある。
とにかく滅茶苦茶広い。走るのが仕事と言ってもいいくらいだ。
釧路市内を回る時は、午後7時ごろには会社に戻れる。
だが阿寒湖温泉とか弟子屈町などの郡部に行くと、会社に戻るころには日が替わっている。
そんな時は会社に寄らず家に直帰することになっていた。
12月のある日、阿寒湖温泉の診療所を出るころ、雪が降りだした。時計をみると、午後9時を回っていた。
釧路市に近ずくと雪は釧路特有の粉雪に変わり、風も強くなってきた。
釧路地方は阿寒湖や摩周湖などの山沿いと、平地が広がる海側では雪質が全く異なる。山側はある程度積もるが、平地、特に釧路市内は雪はほとんど降らない。
片栗粉のような微粉末の雪が、年数回降るだけである。
だがこの雪はいつまでも残り、強風に乗って真横から、人の顔に突き刺さるように飛ぶ。アスファルトの上の微粉末は、氷と同じくらいに滑る。
甚弥が釧路市の旭陸橋と言う、跨線橋の上に差し掛かった時、跨線橋の上から下の線路を眺める人がいた。もしかして、と思った甚弥は車を止め、声を掛けた。
「大丈夫ですか、家はどこですか、おくりますよ」と言いその人を車に乗せた。
走りだそうとして、サイドブレーキを戻した。と、その時、猛スピードで走って来た真っ赤な「いすゞベレット」というスポーツカーが、甚弥の軽4輪に突っ込んできた。押し出された軽4輪とベレットは、クルクルと回転しながら旭陸橋を滑り、側道の木をなぎ倒し、商店のシャッターに激突した。
軽4輪の車輪が外れて飛び、歩いていた人を直撃した。
衝撃で意識が遠くなり、気が付くと病院のベッドにいた。腕がちよっと痛かったけど、翌日には帰ることができた。
看護婦に他の人はどうだったのかと聞くと、甚弥が乗せた人と、歩いていた人は亡くなっていた。
甚弥が乗せて亡くなった人は遺書を持っていた。
歩いていて亡くなったのは80歳の認知症を患う徘徊老人で、捜索願いが出されていた。
ベレットにはもう一人、女が乗っていたが、救急車が着く前にどこかへ消えてしまったという。
甚弥はベレットを運転していたのは、取り引きのある病院の院長で、釧路医師会の会長の娘だ」とすぐに分かった。
当時真っ赤ないすゞベレットは釧路には1台しかなかった。
三日後、退院した院長の娘、酒井紀子を交え、現場検証が行われた。
ここで酒井紀子は「車を運転していたのは友人で、滑りそうなのでゆっくり走っていたら、猛スピードで走ってきた甚弥の車に追突されました」と言った。
「嘘だ、それは逆だ」と言ったが、2台とも前後ともメチャメチャで、どっちが追突したか、されたのか、車を見た限りでは判断できなかった。
運転していた友人とは誰なのかと警官が尋ねると「昨日知り合ったばかりで名前も住所も知りません」と言った。
甚弥の会社は大得意先の院長の娘と言うこともあり、争おうとはしなかった。
警察も検察も、一貧乏人の倅より、医師会会長の娘の話を信用した。
結局甚弥は重過失致死罪で、懲役5年の刑を受けた。
院長の娘は性懲りもなく、院長にいすゞベレットをねだった。
娘に甘い院長はまた、真っ赤ないすゞベレットを買い与えた。
今度のベレットはシートが革張りになっていて、夏でも20度以上にならない釧路には必要がないクーラーまで付いていた。値段は50万円も高かった。
☆☆☆☆
宮本町の鉄の門が開き、一人の男が現れた。
待っていた母親の静香も驚いた。5年間の宮本町生活がそうさせたのだろうか、甚弥は彫りものを入れたら、㋥佐々木でも通用しそうな、立派な面構えになっていた。
そのころ水産業界では魚の運送に、木箱から断熱性のある発砲ポリエステルの箱に変わりつつあった。佐藤木工場の売る上げは落ち、資金不足に陥っていた。
おりしも、社長が脳梗塞で半身麻痺となり、社長夫人が指揮を執っていた。
慎太郎は㋥佐々木の社員となった甚弥を呼んだ。
「お前は佐藤木工場に行って、低金利で金を貸してこい、銀行より安くしたらあの女は絶対に飛びつく、いくらでも貸すと言ってやれ」
甚弥は聞いた「本当に銀行より安くていいんですか?」
「そうだ㋥佐々木が第一抵当権を設定したら、銀行は1円だって貸さない、早く行って貸して来い!」
佐藤木工場の社長夫人は㋥佐々木から2千万円借り、同業の小林製材と売却交渉に入った。
その時小林製材はすでに廃業を決めていた。土地と工場は不動産業者から、1千万円と言われていた。それを2千万円で買うというのだ。こんなうまい話はない。
売却交渉はスムースに進み、小林製材は佐藤木工場の物となった。
しかし、佐藤木工場は規模が大きくなっただけで、ますます経営が苦しくなった。
㋥佐々木の抵当権がある限り、どこの金融機関も相手にしない。
佐藤木工場と小林製材は2千万円で㋥佐々木のものとなった。
㋥佐々木は佐藤木工場の土地を、釧路医師会の会長で、病院々長の酒井に、2億円で売却した。
院長はここにマンションを建てる計画であった。
しかし、地元の住民の間から、マンション建設に反対の声が上がり、計画は暗礁に乗り上げた。
仕方なく院長は、1階を店舗とした低層住宅に計画を切り替え、1棟を完成させた。一階の店舗には喫茶店と、風俗店が入居した。
風俗店の出店に地元の町内会が再び騒ぎ出し、一部の人たちが暴徒となって風俗店を取り囲んだ。
2階に住んでいた二人の女が恐れを感じ、車で逃げだした。そこに騒ぎを聞いた警察官が、パトカー10台を連ねてやってきた。逃げた女の車も旭陸橋の上で止められて、職務質問を受けた。女は二人とも、腕に包帯が巻かれていた。
「その傷は暴徒に襲われたのですね、すぐに病院行きましょう」と言われ、女二人は救急車に乗せられた。搬送された病院は5年前、旭陸橋の上で事故が起き時、
治療を受けた病院であった。女には二人とも、その時の傷跡が残っていた。
一人は院長の娘で、もう一人は事故の現場から逃げた、佐藤木工場の娘であった。
院長の娘、酒井紀子は白状した。
「私たちは7年前から付き合っていました。レズの関係を知られるのを恐れ、車の中だけでデートをしていました。事故を起こした時、運転していたのは私です。今日、家の前を取り囲まれて、二人で死のうと思い、ナイフで腕を切りました。でも死にきれなくて、車で逃げました」
真っ赤ないすゞベレットが1台、霧にかすむ旭陸橋の上に残されていた。
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