南風原智樹の告発

 南風原は早足で廊下を抜けながら訊ねた。


「なぜ私を? なにかあったんですか? まだ保護者の皆さんが――」

「なにがあったか聞きたいのはこっちですよ!」


 肩越しに振り向き、教務主任が声を尖らた。


「もちろん終わるのを待つつもりでしたよ。ですが、待ってても終わりそうにないし、また怒鳴り声がするし――おかしいと思っていたんです。一昨日おとついみたいな騒ぎはここ何年もなかったんだ」


 妙な言い回しに思えた。教員を束ねる立場から非難されるのも、受け止めなければならないのも理解している。けれど、


「待ってください。たしかに赤西さんのお母さんへの対応は間違っていたかもしれませんけど――私は顔を叩かれたんですよ?」


 表現を選びはしたが、殴られたが近い。頬にはくっきりと青い指の痕がつき、目の近くに爪による蚯蚓脹みみずばれも浮いている。ほんの数ミリもズレていれば失明する恐れまであったというのに。


「まるで全面的に僕が悪いみたいな言い方じゃないですか」


 南風原がそう訴えると、職員室を目前にして急に教務主任が足を止め、危うくぶつかりそうになった。


「南風原先生」


 教務主任がゆっくりと振り向いた。罪人を見るような厳しい目をしていた。


「まさに、あなたのせいではないかと疑われているんですよ」

「――は?」


 たしかめる時間すらもらえない。教務主任が職員室の戸を開いた。喧騒というべきか、混乱というべきか、部屋から漏れる暖気に奇妙な気配が乗っている。促されて入ると、異物を見るような視線が飛んできた。


 奥の、南風原の机の斜向かいで、生田真里が口元を隠し狼狽していた。その正面では隣席の年配教員が哀れむような目をしている。他方には蔑むような瞳があり、また別に疑いの目が、怒りが、同情が――半数ほどの教職員がそれぞれ色の違う眼差しで南風原を見ていた。


「……なにが、あったんですか?」

「これですよ」


 と、年輩教師が原稿用紙を掲げた。A四縦使いの、白地に薄青い罫線の、真っ赤な文字列が並ぶ原稿用紙だ。


 ――まさか……!?


 南風原は息を飲んだ。自身のデスクに駆け寄って、一番下の、鍵付きの抽斗ひきだしを引いた。ガン! と激しく音を立て止まった。鍵はかかっている。しかし、その音は水面に投げられた石礫いしつぶてのように、沈黙の波紋を広げた。


「その様子だと、本当だったようですね」


 年輩教師が深く、深くため息をついた。


「え?」


 南風原は肌が粟立つのを感じた。膝が震え、腹どころか心臓まで痛みだした。顔を上げて見ると、年輩教師がつまみもっていた原稿用紙を突き出した。


『ハエバルトモキヲ告発スル』


 使


 ――馬鹿な! どこの誰が!?


 内心に思い、南風原は口を開いた――が、声が出てこない。言葉がない。頭の中に混沌の嵐が吹き荒れ何も言えずに手を伸ばした。スイと原稿用紙が遠ざかった。


「こう書いてありました」


 年輩教師が稿をひっくり返し、問い詰めるような口調で読んだ。


『ハエバルトモキヲ告発スル

  ――中学 三年二組 担任 ハエバル ハ 

  生ト ノ 告発文ヲ 隠シ 

    内ヨう ヲ 外部ニ ロウエイ シタ 

   マタ ソノ事実 ヲ 利用シ 

  生ト ニ 良カラヌ 要求ヲ ス

   聖ショク ニ  そグワズ 

 職ム ヲ 果タサズ 

   だラク シタ ハエバル ヲ 

担任カラ 外 サレル よウ』


「……保護者会を終えて戻ってきたら、提出された原稿の間に挟んでありました」

「だ、誰かの、悪戯では……?」

「そう思いたいところですが、一昨日のことがありますからね。赤西さんは娘を陥れようとしている人間がいると仰っていました。それに、その引き出し、いつも原稿を入れていらっしゃいましたよね? 開けて、見せて頂けますか?」

「い、いえ、ここには――」

「南風原先生!」


 年輩教師に代わり、教務主任の声が南風原の背に叩きつけられた。

 南風原は激しく痛む胸を押さえながら鍵を出し、引き出しを開けた。教務主任が押しのけるようにして覗き込み、ポケットに入るよう四つ折りにした赤西鈴璃を告発する文章を手に取った。


「……なるほど。これで」


 教務主任が年輩教師に視線を送ると、彼は諭すように言った。


「南風原先生。それを使って、何をしようとされていたんですか。正直に答えてください」

「何って……僕は告発者を探そうとしていただけで――」

「嘘をつくなよ!!」


 年輩教師が唾を飛ばして言った。すぐに声を低めて、真里のほうに顎を振った。


「……さきほど、生田先生に確認を取りました。先週末、二駅も離れたところで生徒と会っていたようですね。しかも一人は他校の生徒だとか」


 驚き、南風原が真里を見やると、彼女は血の気の失せた顔を伏した。


「正直に答えてください。何をなさっていたんですか」

「……ち、違います」


 言った瞬間、年輩教師が歯を軋ませて、大声で言った。


「何が違うのか言ってみろ!!」

 

 その恫喝が南風原にもたらしたのは、怯えや痛みではなかった。


 ――なんで俺がこんな目に?


 疑問。足りない頭で最善を尽くしただけだ。もし表沙汰になれば当該生徒の受験に響きかねないし、告発した生徒までも傷つきかねない。そんな事例は自身が中学生の頃にも嫌というほど見た。


 可能な限り穏便に済ませようと秘密裏に確認を取り、すでに終わった事件であると調べ、できれば告発者を見つけだし無益であると伝えようとしていたのに。

 

 学校のためにも、生徒のためにも、すべて胸の内と暗闇のなかで解決しようと考えていたのに。そして、それが正当といえる告発だと言うのに。


 ――なんで俺が罪を被らなくちゃいけないんだ!


 それは怒りだった。今の、まわりに敵しかいない境遇が、あまりにも過去の自分と酷似していて、南風原の思考は怒りで真っ赤に染め上げられた。


「私がこの告発について話したのは当事者だけです。赤西鈴璃と、当時の被害者である松本依。あえてつけくわえるなら、顧問をしているの生徒に、事実を隠したまま助言を求めたくらいです」

「文学部……!? 話してるじゃないですか! 南風原先生!!」


 教務主任が怒鳴りながら肩を掴むと、


「詳細は伏せてるに決まってるでしょうが!!」


 南風原は。彼が声を荒らげるのは初めてのことだ。誰もが言葉を失った職員室で、苛立ちを隠そうともせずネクタイを緩めた。


「嘘だとお考えなら、たしかめに参りましょう。 


 彼女らは、今日も学校のどこかで活動していますよ」


 言って、二通の告発文を奪い取り、足早に職員室を出た。年輩教師と教務主任、生田真里が後を追った。

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