保護者会

 深まる冬の寒気が頭を割ろうと抱きしめていた。朝一番に胃薬も頭痛薬も入れてみたが、変わらず薄い腹の肉の下ではらわたが痛む。頬の腫れは目の下のクマも相まってより一層ひどくなったように思える。

 

 職員室で真里と対面する前に顔を洗い、心配されながらまた化粧を頼んだ。彼女の見立てでは来週には消えているだろうという。免疫力が十分ならと軽口で返した。本日のハイライトは保護者会。昨日も言ったはずなのに、職員室を出るとき、隣の年輩教師の机の上には、精査中とみられる原稿が置きっぱなしになっていた。


 三者面談直後の保護者会はクラス単位で行われる。午後は授業一コマで終わり、参加希望者だけが教室に集まる。日程や時間帯の都合もあって参加率は毎回半数をやや下回る程度で、話し合いの内容も雑談に毛の生えたようなものがほとんどだ。


 ――いつも通りなら。


 廊下に生徒とは異なるざわめきが広がると、南風原は今すぐこの場からいなくなれないものかと思った。教員になってから逃げたいと考えたのは初めてだった。ポケットのなかのボイスレコーダーに触れ、息をつく。昨夜、帰宅と同時にジャケットを脱ぎ、同じものを着てきてしまったのだ。うっかりが役に立つこともある。


 カラリ、と教室の引き戸が滑り、学年主任が入ってきた。南風原が慌てて席を立つと、彼はそのままでと手のひらを向けた。無論、無視して腰を上げた。


「校長先生と話をしてきました、今日は同席させてもらってもいいですか?」

「もちろんです。ありがとうございます。少し不安だったので」

「やっぱり初めての担任で三年生は荷が重かったですよね」


 同情的な言葉と柔和な笑みの真意を『管理能力に疑問あり』と読むのは穿うがち過ぎだろうか。好意と受け取りたくても疲れのせいか上手くいかない。教卓前の椅子を譲ろうとしたが、学年主任は教員用の机の裏にあるパイプ椅子を入口側の隅に置いた。また引き戸が開き、保護者たちが入ってくる。


「本日はお忙しいなか――」

 

 散々くり返した言葉を今日も告げ、立ったまま迎え入れていく。一人、また一人、そして、昨日と同じく着物を纏った赤西母が入ってきた。どこまでも平然と、なんら気後れすることなく。


「先生、先日はどうも」


 そう言って、和やかに口元を緩めた。目はまったく笑っていない。南風原は躰がこわばるのを感じながら会釈で応じた。おおよそ半分ほど席が埋まったところで、学年主任に目配せで了解を取り、腰を上げた。


「――では、まだお越しになられていない方もおられるかもしれませんが、時間になりましたし始めましょうか」


 始めるといっても、重要な話題のほとんどは三者面談で済ませている。南風原のほうからは受験シーズンの流れや過ごし方、基本的な方針を述べるに留まり、あとは雑談や質問の時間となる。


 南風原は、このまま何事もなく終わってくれと願ったが、やはりというべきだろう赤西母が手を挙げて声を張った。時刻は保護者会の終了予定時間まであと数分という頃だった。


「皆さん、少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」


 物腰は柔らかいが、口調も声質ものこぎりの刃のように尖っていた。穏やかな雰囲気は一瞬にして切り刻まれ、混沌と緊張が残った。


「赤西の母でございます」


 一礼した。誰もが知っていた。面識がなくても書道教室を開いていると知っていれば気づいただろう。赤西の母はパタリパタリと来客用のスリッパで床を叩き、教卓につく南風原の傍らに立った。


「先日、こちらの南風原先生から、お聞きしました。私の娘――鈴璃を陥れようとしているのはどなたですか?」

 

 ざわりと動揺が広がる。咄嗟に南風原は口を開いた。


「あ、赤西さん! 待ってください! 私はそんなこと――」

「うるさいっ!!」


 雷鳴にも似た怒声が響き、保護者たちの口を封じた。


「お静かにお願いします。放っておけば、このクラスは立ち行かなくなりますよ?」


 どの口が言うのか。そう言ってやりたかった。南風原は代わりに赤西の躰越しに学年主任を見やった。目が合ったのも束の間すぐに顔を背けた。


 ――そんな。


 南風原は言葉を失った。じゃあ、なんのために来たのか。


「余所見をしない!」


 再びの雷声らいせいに顔を向けると、ほとんど同時に赤西の母が左手を大きく振り上げた。南風原は反射的に腕を上げ、顔を守ろうとした。フン、と鼻を鳴らす音が振ってきた。


「情けない」


 という呟きとともに手を下げると、赤西の母は南風原などはじめからそこにいなかったように教室に向き、言った。


「いますぐに名乗り出てください。あなた方がなさったことなのか、あなた方のお子さんがなさったことなのか、それはどちらでもいいのです。ですが私には娘を守る責任があります。あなた方も親を名乗るからにはお子さんは正しく躾けなくては」

「あ、あの、赤西さん……なにを仰っているのか、よく……」

 

 声を上げたのは、斎藤正人の母だった。震えを抑えているのであろう、手を握り合わせて、小柄な躰をさらに縮こませて言った。


「何かの、勘違いではないかと……」

「斎藤さん!」


 赤西母の声は矢のように飛び、斎藤の母を射竦めた。


「あなたのところお子さんじゃありませんか!? 躰を動かすことくらいしか取り柄がないようですし――」

「なっ……!」


 斎藤母は目を吊り上げて言葉を遮る。


「いきなりなんですか!? なにがあったのかは知りませんけどそれは――」

「知らないなら黙ってろ!!」


 そう吠えて、何者をも黙らせ、赤西の母は厳かに告げた。


「今日は、私の娘を陥れようとする犯人が分かるまで、皆さんをお返しするわけには参りません。――よろしいですね? 南風原先生?」


 殺意すら滲むような眼差しに、南風原は頭を抱えたくなった。

 しかし。

 同時に吹っ切れてもいた。


「いい加減にしてください、赤西さん」

「はい?」

 

 南風原は席を立った。彼は上背があるほうで、体格差の恐れか赤西の母が一歩、退いた。手を上げる気など毛頭ない。けれど、と理解しつつあった。


「告発者の名前を言えば気が済むと、そう仰っているんですね?」


 訊ね、保護者たちの視線を横顔に感じながら、南風原は言った――いや、言おうとした。そのとき、教室の後ろの引き戸が滑って教務主任が入室した。


「ご歓談中、申し訳ありません。南風原先生、ちょっと」


 教務主任は南風原を手招き、学年主任に「しばらくお願いします」と言った。

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