三者面談:二日目 赤西家

 盗聴――と言うべきなのだろうか、初日の隠しりは上手くいったが、南風原が受けた心的疲労は想像を遥かに超えていた。頭が重い、躰が重い、脚がうまく動かないうえに胃がキリキリと痛み食事を受け付けようとしない。

 

 俺はこんなに小心者だっただろうか、と一向に匙が動かない給食トレイを見つめ、ため息混じりに教室に呼びかけた。


「誰か食べられる人ー?」


 すぐに何人かが手をあげて、南風原の机からトレイが消えた。食べないと午後もたないですよと生徒の一人が言った。パンは食べたと返すのが精一杯だった。職員室に戻る前、なんとはなしに渡り廊下の黒板を見ると、今日もすでにの予定が書き込まれていた。


『図書準備室 がんばれトモキン!』


 知らず、笑みが零れた。

 資料の準備をして、回収した提出物をチェックして、引き出しの封印を解き原稿を入れる。隣の席の年配教諭に「マジメだねえ。大事だよね。僕のトコの鍵も直さないとダメだな」と微苦笑まじりに言われ、帰りのホームルームで再提出もありうるから早めに出すようにと促した。回収率はおよそ七十パーセント。内容の精査は終わっていないが、新たな告発はなかった。脅迫も。


 ガランとなった教室で、ポケットのなかのボイスレコーダーをたしかめ、生徒と保護者の到着を待つ。ノックがあって、立ち上がり、どうぞと促す。手を抜いたつもりはないが、頭の片隅には、今日のなかほどに入れ込まれていた赤西家の予定が常に居座っていた。


 直前の生徒は五分もかからずに終わった。予定――いや予想通りと言うべきなのだろう。通っている学習塾との連携が密で、担任に求められていたのは成績や受験日程の確認くらい。だからといって関係が悪いわけではない。がんばって。お世話になります。こちらこそ。そう言って引き戸を滑らせると、廊下の椅子に待っていた。


「もうよろしいんですか?」


 赤西の母はそう言って腰を上げた。書道教室で墨を使うからだろう、紅消鼠べにけしねずみ色の着物に柴染ふしぞめの羽織を纏っていた。前回は洋装だったのもあり南風原が面食らっていると、鈴璃が若干、強張った顔で言った。


「すいません、少し早く着いてしまって――」

 

 鈴璃の言葉を受けて、保護者同士が会釈し合った。


「大丈夫ですよ、もうウチは終わりましたし」

「ごめんなさいね、急かしてしまったみたいで」


 スッと南風原のほうに向き直り、赤西の母が小さく頭を下げた。


「よろしくお願いしますね、先生」

「あー……はい。こちらこそ。お忙しいところありがとうございます」

「ええ、本当に――あら?」


 ふいに、赤西の母が南風原のジャケットに手を伸ばした。

 

「ポケットが――」

「えっ、ああ、失礼しました」


 南風原は咄嗟にフラップを押し込むと同時にボイスレコーダーを寝かせた。


「ありがとうございます」

「いえいえ、お気をつけになさってくださいね」


 心臓が早鐘のように打っていた。ヒヤリとしたからだろうか、冬の冷たい光線のせいだろうか、親子を案内するとき後ろに続く鈴璃の顔が青白く見えた。椅子を引いて座るように促し、南風原はボールペンを探すふりをしつつ、手を机の影に隠しボイスレコーダーを立てた。あとは祈るだけだ。資料を開き最優先の話から始めた。


「ではまず――第一志望の学校推薦について、これは確認なのですが、赤西さんの成績ならもう少し上を検討することも――」

「いえ。鈴璃はもう意志を固めていますので」


 南風原が言い切るよりも早く、赤西の母がさも当然とばかりに言った。


「ええと、お嬢さんの、」


 南風原は鈴璃に顔を向けた。


「赤西さんはそれでいいのかな?」


 ハッと鈴璃が顔をあげ、口を開きかけるとすぐに、


「いいんです。もちろん。そうよね、鈴璃?」


 そう母に問われて、鈴璃は唇を曖昧に曲げた。違和感があった。南風原は、あの、と母親を止めるように手を伸ばし、言った。


「受験は今後にも影響することですし、推薦に通れば――もちろん推薦会議のあと入試に受かればという話ですが、当校としましても辞退は難しくなります。お嬢さんの意志も確認しないことには進められません」

「三者面談ですよね?」

「え?」

「娘にだけ聞く必要がありますか?」

「いえ、あの」

 

 肥大化した違和感が南風原の皮膚の下に冷や汗を流させた。彼がネクタイに指をかけてほんの僅かだけ緩めると、赤西の母が言った。


「鈴璃の成績はご存知ですよね?」

「は、はい! もちろん、こちらに」


 慌てて成績表の写しを抜いた。禁の字が判で押されており、使用後はシュレッダーにかけて破棄する決まりになっている。


「誰に似たんだか……こんな成績で上の学校を受けられるとお思いですか?」

「それは――」


 赤西母の詰問に圧され、南風原はつい口ごもった――が、縋るように自分をみる鈴璃に気づくと、彼は痛む腹に力を入れた。


「簡単ではないかもしれません。ですが主要三科目で評定『三』がついているのは数学だけです。これからの頑張り次第で――」

「これから?」

 

 キリ、と歯を軋ませるようにして赤西の母が唇の片端を吊った。


「もう十二月ですよ? 今からを目指して、第一志望に落ちたとしたら、南風原先生が責任を取ってくださるんですか?」

「いえ、それは」

「ではなぜいまさら鈴璃を惑わすようなことを仰るんです、先生は――」

 

 赤西の母の顔に怒気が滲み、頬にひびるように化粧がよれた。睨み、山のように尖る眉根は夜叉を思わせ、その額には角まで見えるようだ。


「鈴璃はいずれ書の道に入るんです。無用な口出しをしないでください」

「いえ、私は――」

「教務主任の方に聞けばよろしいんですか? それとも、教育委員会?」

「ですから! 私は――」

「お母さん!」

 

 南風原の声を遮るように、鈴璃が声をあげた。


「先生は心配してくれてるんだよ。その、――」


 驚き、南風原は鈴璃を見やった。彼女は目を真っ赤に充血させて言った。


「推薦で合格しても取り消されちゃうかもって」


 ぐりん、と赤西の母が南風原に顔を向けた。その目は憤怒に濡れていた。

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