欺瞞の相談

 危うく早打つ胸を押さえるところだった。ジャケットの下、皮膚の内側で、臓腑が縮こまるのを感じる。


「推薦。学校推薦ならスケジュールちょっとキツくなるけど大丈夫か?」

「――ってことは、間に合うんですか?」


 動揺が顔に出ていないだろうか。南風原は努めて声を落ち着けた。

 

「今週末に推薦会議があるから本当にギリギリだけどね。必要なら今からでも進路指導室で話を聞くけど」

「あ、そこまでは。必要なのものは知ってるし、確認だけ」

「あー……そう」


 脅しのつもりだろうか。それにしては緩い。本当に確認に来ただけ? 何も知らない? ――分からない。南風原は頭を抱える代わりに無理に口角を引き上げた。


「もし分からないことあったら何でも聞いて。遠慮なく。もし俺――先生がいないとかあったら他の先生に聞いてもいいからね。たとえば教務主任の――」

「はい」

 

 千桜は言葉を遮るように言った。


「大丈夫です。確認したかっただけなんで。……ありがとうございます」


 ぎこちなく笑い、会釈するように浅く頭を下げて、千桜が背中を向けた。不安とも恐れともつかない重みを胃の奥に感じ、南風原は咄嗟に呼びかけた。


「藤原さん。本当、いつでも聞きに来ていいからね?」

「はーい」


 どこまで本気か分からない返答を受け止めきれず、南風原は思わず首を巡らす。赤西鈴璃がこちらを見ていた。つい、目を逸した。一年ちかくを過ごした教室が、急に言葉の通じない外国の街に変わったように思えた。

 

 どうすればいいのか。

 

 何をするのが正解なのか。

 

 手探りで進んできた三年生の担任という道は、終着点を前に霧に呑まれた。今さら慌てたところでどうにもなるまいと腹をくくれればどれだけ楽か。生徒の今後の人生を思えば達観も諦めも許されない。限界まで――いや、限界を超えてでも戦わなければならない。


 南風原は吐き気をこらえて給食の残りを胃に詰め込み休む間もなく席を立った。三者面談は明日から始まり、たったの三日で四十組を終える。金曜には任意参加の保護者会が入り、土日は推薦会議とそれに押し出された通常業務に追われる。言い換えれば、を訪ねるチャンスは、今日一日しかない。

 

 祈る思いで南風原は階段を降り、部活棟につながる渡り廊下に向かった。そこの中ほどに掛けられた黒板を見るために。空欄の目立つ部活動名の枠内に、左下から右上に跳ね飛ぶような癖字があった。


| 活動場所(内容):家庭科室 紅茶葉に倣い文海へ浸らん』


「……自由な奴らだなあ」


 誰に言うでもなく呟き、南風原は失笑した。吐息と一緒にほんの幽かに躰が楽になった気がした。ぐっと一度、背筋を伸ばし、午後に備えて職員室に急いだ。

 そして。


「……だなあ! ――の描きた……………ではないか!?」


 放課後、他の教員に捕まる前にそそくさと職員室を抜け出て来てみると、今朝の澄まし顔からは想像もつかないブチョーの声が家庭科室から漏れていた。南風原は扉を叩く前に一度、廊下の窓ガラスに姿を移す。ジャケットの襟を正し、知らず眉間に寄せていた皺を伸ばす。深呼吸。三度、扉をノックした。


「のわあ!?」


 ただ扉を叩いただけなのに猫を踏んだような声が返ってきた。


「ど、どなたかな!? 遠慮はいらん! 入りたまへ!」

「――なーにが入り給へだ、こんなとこで」


 言いつつ扉を開けると、家庭科室の調理台を挟むようにして座っていたブチョー、アマネル、ホノミンの女子三人衆が振り向いた。


「おっと! 我らが顧問殿ではないか」

「おっすー、トモキン」

「こんにちは? 先生?」


 三者三様の挨拶に南風原は普段どおり「はい、こんにちは」と答え、ブチョーに訊ねた。


「あれ、ショーはどうした? 休みか?」

「よい質問だぬ」


 ピッとブチョーが南風原を指差し、彼女に代わってホノミンが言った。


「ショーくん、土日で読みきれなかった? 今日は休むって連絡ありました?」


 声音が丸いからだろう、質問されているのか答えられているのか判然としないがおかげで南風原の肩の力は抜けていった。


「読みきれなかった? ――あー……例の?」


 アマネルが肩を揺らし、ホノミンの言葉を継ぐように言った。


「ホノミンみたいになってるよ、トモキン。お察しの通り、例の本だよ。なんかネタバレされたくないから一日欲しいんだってさ。そんなことしないのに」

「気を使われたってことか」

「そうかもしれません?」

 

 ホノミンが言葉を挟んだ。


「もしくは、お紅茶が苦手かも?」

「あるいは我ら文学部女子会のサバトに恐れを抱いたのやもしれんなあ」


 言って、ブチョーは優雅な手付きで家庭科室備え付けのティーポットを取り、厳しい湯呑に紅茶を注いだ。グイと南風原のほうに突き出し、加えていった。


「申し訳ない、トモキン。ちょうどよい器が見つからなんだ」

「あ、いや、お構いなく――」

 

 と、まるで他人ひとの家に来たように遠慮しながら、南風原はブチョーの隣の丸椅子に腰を下ろした。


「けど、参ったな」

「ん? どうしました? 先生?」


 自覚があるのかないのか、ホノミンがをつくって言った。


「ああ、うん。ちょっと……ショーがいたら相談しようかと思ってて」

「なんの相談? ですか?」


 アマネルがブチョーと顔を見合わせ口を開いた。


「決まってるじゃんね?」

「うむ。小説の相談であろ? 違うかな?」


 南風原は苦笑した。


「まあ、そうなんだけど」


 そう答える彼の脳内は、どう誤魔化して聞けばいいのか、フル回転していた。

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