生田真里

「え、っと……?」

 

 南風原は頭の中で人相帳を広げる。短な金髪に、レンズを下から支えて耳まで連なる赤いフレームの眼鏡の女。知り合いではない。


「……え!? いや、私ですよ!」

 

 女は眼鏡を下にずらした。一拍遅れで南風原の脳が人物を認識する。


「え、あ、生田先生!?」

「ちょっ――声が大きいですよっ」

 

 言われ、慌てて南風原は口を閉じる。

 生田真里は赤いアンダーリムの眼鏡を押し上げ、苦笑した。


「まさか、この距離でバレないとは思いませんでしたよ。それはそれでちょっと酷くないですか?」

「いや、えと……すいません。だって……でも、その髪、眼鏡も。どうしちゃったんですか?」

「髪の毛はウィッグですけど眼鏡は――実は地です。普段はコンタクトなので」

「あー……なる、ほ、や、なんでそんな」

「変装に決まってるじゃないですか。ここらへんウチの生徒や親御さんもけっこう来てるみたいですからね。顔あわせたくないじゃないですか」


 当然のように言われても、南風原にその発想はなかった。真里は眼鏡の奥で悪い目をして言った。


「それにしてもぉ……いいんですかぁ? 休日にショッピングモールで『女子』生徒と遊んでるとか、バレたら大問題ですよぉ? 懲戒まであるのではぁ?」

「い、いや、ちょっと……」


 なにがちょっとだ。南風原は両手を振って否定した。


「誤解ですよ、生田先生……! 赤西たちと会ったのは完全に偶然で……!」


 まったくの嘘だ。動揺する南風原に、真里はクスクスと肩を揺らした。


「あんまり慌てると本当にそれっぽく見えちゃいますよ?」

「いやだって……え?」

「大丈夫ですよ、密告なんてしませんから」

「……本当に勘違いしてませんよね?」

「どうでしょう? 不安だったら、口止め料の代わりに少し買い物に付き合っていただけませんか?」

「……は?」

「実は私、自転車で来ちゃいまして。しかも手ぶらで」

「あー……荷物持ち、ですか」

「お願いします」


 ポン、と遠慮がちに肩を叩かれ、南風原は首を縦に振った。

 そして。


「いやホント、助かりましたよ」

 

 真里がホクホク顔で自転車を押している。


「まあ、口止め料としては安いもんです」


 そう冗談めかしていう南風原の両手は、コートの入った紙袋と、ここぞとばかりに買い込まれた重たい食材の詰まるビニール袋で塞がっている。


「ところであの、生田先生のご自宅は本当にお近くなんですよね?」

「ですです。もうすぐそこですよ」

「それさっきもそう仰ってた気が……」

「いえホント。今度は本当に本当ですって。ほら、そこです」


 言って、真里が角の先を指さした。真新しい五階建てのマンションだ。敷地の入り口ちかくにささやかな緑があり、白い外壁が夕日に染まっている。自転車置き場は駐車場の奥にあるらしい。


「……なんか、高そうな……」

「そうでもないですよ? 人のいるエントランスとオートロック、それに豊富な監視カメラ。別に治安が悪いわけじゃないですけどね」

「男の一人暮らしとは違いますからね」

「です。それじゃ自転車を置いてくるので――」

「生田先生が良ければ部屋の前まで持っていきますよ。これ、重いですし」


 言って、南風原は二つの袋を揺らした。


「ホントですか? ――それじゃあ、お願いします。すぐ置いてきますので!」


 ほどなくして戻ってきた真里とエントランスを抜け、最上階の部屋の前につくと、彼女は鍵を開けて振り向いた。

 南風原はもってきた荷物を差し出す。


「はいどうぞ。……本当に黙っててくださいよ?」

「だから冗談です――って、重っ」

 

 荷物を受け取った真里がよろめき、咄嗟に南風原が肩を支えた。


「だから言ったじゃないですか、重いって」

「いやほんと、助かりました」へらりと笑い、真里は恐る恐る言った。「えっと、それで……良かったらコーヒーでもどうです? すぐ! すぐ片付けますので!」

「あ、いや、俺は――」

 

 帰りますと答えるより早く、真里が部屋に駆け込んだ。扉がパタンと締り、鍵がかかった。オートロックだ。ごく微かに足音が聞こえた。転けたらしい。ふぎゃっと悲鳴がした気がした。廊下の手すり越しに空を見ると、もう暗くなろうとしていた。


 どう断ろうかと思っていると扉が開き、ウィッグを外し黒髪に戻った真里が引きつった笑みを浮かべていた。


「えっと、なんか、思ったより時間がかかりそうで……」


 南風原は小さく吹き出す。


「別にいいですよ、本当に。もう遅いですから――」

「あの! 代わりに!」

「……はい?」

「代わりに、もう一箇所、付き合ってもらえません? 私が出しますので!」

「……えぇと……今度はどちらに?」

「……近くに、なんかずっと気になってる焼き鳥屋さんがあるんです、けど……」


 言いつつも、真里の目があらぬ方向に逸れていった。南風原は肩を揺らしながら言った。


「女性の一人暮らしだと、なにかと気苦労も多いですもんね」

「……ほんと、助かります」


 今日やる予定だった授業の準備は間に合うだろうか。一抹の不安を覚えつつ、南風原は真里が着替えて出てくるのを待った。

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