聞き込みの準備

 十二月二日、午前六時五十八分。

 濃紺のトレンチコートの上から暖気を羽織り、南風原はバスステップを降りた。途端に、冬の始まりを告げる静謐な空気が剥きだしの手に突き刺さった。日が昇ったばかりだからだろう、あたりはまだ薄っすらと青みがかっている。朝練のある生徒はすでに学校に着いていて、日直を任された生徒はもう少し後になって登校する。


 駅へと向かうまばらな人影と逆行するように、南風原はアスファルトをぼうっと見つめながら歩きだす。アパートからバス停まで歩いて五分。バスに乗って十五分。降りてから十分。計三十分で、南風原智樹は南風原先生になる。

 

 昨日、学校を出る前に取った卒業文集の原稿のコピー――そのうちの、一部余計に取った斎藤正人と赤西鈴璃の原稿を脳裏に描く。複写の際に薄青の罫線は消える。しかし文字は罫線がつくる方眼を基準に書かれるため、ガイドの消えた文字列は無地のノートに書いたときより不規則に並ぶ。特に、書道など文字を書くトレーニングをしていない場合に。


『ムダにしないために  斎藤 正人』


 そう題された斎藤の原稿は、『僕が三年間を過ごしたサッカー部は弱かった』という、顧問が読んだら怒りそうですらある刺激的な一文から始まっていた。綺麗とは言い難い文字はしかし力強く、指でなぞれば真剣に書こうとしたのは伝わってくる。


 斎藤は入部当初から同学年では頭一つ抜けていて、三年生の引退に伴ってレギュラーを勝ち取った。それに伴いシステムが変わったとかで、少しは形ができるようになったという。二年の夏の大会で一つ勝ち、惜しくも二つ目に届かなかった。夢だけは大きく全国へと願ったものの、三年の夏はあっさり終わった。

 負けて気づいた。

 部員も、キャプテンも泣いていた。謝られた。自分だけが泣いていない。こんなものかと思っていた。でもそれは、やり切っていないからだと思った。最初から自分だけは強いと思っていたせいで、強くなれなかったサッカー部のなかで誰よりもやり切っていなかったのだと気付いた――だから。そう続く。


 パソコンやタブレット、スマホなど、下書きはデジタルでやり、手書きで引き写したのかもしれない。構成に大人の匂いを感じるのは親か誰かに見てもらったからだろう。けれど、書かれた文字と内容から、同じ人物があの赤い告発文を書き提出時に紛れ込ませるなどとは、南風原には想像できなかった。無条件に容疑者から外すという選択肢はないが、怪しさは一段落としてもいいだろう。


「おはようございます、南風原先生」


 声に顔をあげると、生田真里が校舎裏の駐輪場から出てきたところだった。


「おはようございます。生田先生。今日は早いですね」

「なんだか目が覚めちゃって。寒くなってきたからですかね」真里は赤いサイクルグローブを外しながら言った。「先生もそうですか?」

「え?」

「クマついてますよ」

 

 言って、真里は苦笑しながら目の下に指を滑らせた。南風原は顔をしかめて目元を押さえた。昨晩はよく眠れたはずだった。寝る前に原稿のコピーと告発文を読み返したせいかもしれない。


 職員室で挨拶を交わし、朝礼が始まる。南風原はなかば自動的に朝の準備をしながら頭の中にしまってある赤西鈴璃の原稿を読み返す。


『将来の夢  赤西 鈴璃』


 学校側から提示しているテーマの一つというのもあるが、癖がなく下手な大人よりも整った字であるために無機質な印象を受ける。内容のほうも家庭事情を知ってさえいれば想像のつく範囲だ。

 母親が書道教室を営んでおり、幼い頃から字を習ってきたこと。習字すなわち書写ではまず癖のない字を手に染み込ませることに始まり、基礎が固まれば字に個性や思いを込められるようになるだろうこと。

 そして、自分には個性を書き切る力がない気がする、と鈴璃は書く。

 個性とは積み重ねた基礎があるから乗せられるのであり、仕上がっていない基礎の上に個を乗せれば崩れてしまうのだろう、と。いまはまだ表すことができなくとも、いずれは母のように、習字を離れて書の域に踏み込みたいと思う――。

 

 ――まあ、個性的ではないな。


 褒められた考えではないと分かっていても、南風原はの面々と比較してしまった。彼女らは彼女らで個性的に過ぎる気がしないでもないが、鈴璃はあまりにも普通だった。


  問題行動は記憶にないし、クラスの活動に消極的というわけでもない。かといって率先して何かをするタイプでもない。一度だけ、高校受験の経験について質問されたことはある。たしか春から夏にかけてのどこかだ。


 不安だったのだろう。帰りのホームルームで、何もなければ終礼というとき、生徒の一人が冗談めかして南風原に出身高校を訊ねた。包み隠さず答えると、生徒たちは驚きの声をあげた。その後に続いて、珍しく鈴璃が手を挙げた。


『なんでその学校を受けようと思ったんですか?』


 南風原は答えた。


『それが未だに分からないんだよ』


 生徒たちが笑った。続けて言った。

 

『たぶん、別の社会を見たかったからじゃないかな』


 一転、生徒たちは静かになった。鈴璃は、どうだっただろうか。

 南風原は三者面談の日程表を確認した。赤西家の面談まで少し日があった。

 

 ――今のうちに聞いてみるべきだな。


 名簿を手に南風原は職員室を出た。

 赤西鈴璃はあまりにも目立たなすぎた。まるで自分を押し隠しているように。

 かつてイジメをおこなっていたのは事実なのか、それだけでも三者面談前に確認する意味があった。

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