告発者の椅子

 南風原が職員室に戻ると、教員たちもほぼ全員が帰ってきていた。誰ともなくお疲れ様ですと口にし、ほとんど無意識に同じ呪文を唱える。時刻は午後五時半。二度目の始業時間だ。これから午後九、十時あたりまでが、趣味で働く時間になっている。南風原は何から手をつけるべきか考え、顎を上げた。


「お疲れですね、南風原先生」


 隣席の年配教員に声をかけられ、南風原は愛想笑いで答えつつ上着を脱いだ。手帳を開いて黒々としたカレンダーを確認する。来週の授業の準備は土日ですませるとして、優先すべきは三者面談の資料作りだ。高校受験は生徒の一生涯を変えてしまいかねない。では、告発文を出した生徒はいつ見つければいいのか。


「……しんど」


 油断していた。南風原がため息とともにそう呟くと、教員たちが誰ともなく苦笑していた。斜向かいを見やると真里と目があった。唇ががんばってと動いた。

 

 ――がんばってるようじゃ三年生の担任はもちそうにないですけどね。


 南風原は口の中で呟いた。

 働き方改革により、公立学校の教職員は月四十五時間しか残業できなくなった。それ以上の作業はすべて趣味に分類される。教員が勝手にやっているだけだ。もちろん残業手当はない。代わりに、月給与の四%が支払われると法に定められている。


 しかし南風原は、もし残業手当が正当に支払われていたなら、自分はとうに辞めていただろうとも思う。教員としての自尊心や、使命感や、聖職たるもの清貧たるべきというある種の悲劇的ヒロイズムに値段をつけられてしまったら、仕事の価値に疑問を抱いてしまうに違いない。それらは、やりがい搾取などという陳腐な言葉では表しきれないのだ。

 

 南風原は書類仕事にひとまずのケリをつけ、脳裏に三年二組の教室を思い描く。教卓の正面右側の列の、後ろから二番目の席――そこに赤西鈴璃が座っている。帰りの会――ホームルームで連絡事項を伝え、卒業文集用の原稿ができている人はと訊ねる。


 日常のことなので記憶は朧気おぼろげ。名簿を取りだし、舌打ちをこらえた。今日までに誰から回収したかは記録されていても、。スマートフォンに届いていたの助言を確認し、再び薄靄のかかったような記憶に挑む。

 

 ――なぜ名簿を持っていかなかった。なぜその場で確認しなかった。


 微かな後悔が小さな頭痛を呼んだ。だが、すぐに首を振ってやり過ごす。部活の最後にホノミンが言っていたように、現行犯で手首を掴んだのならともかく集め終わった時点で気づいたとしても意味はない。いにしえの小学校ではあるまいし全員に伏せさせて犯人の挙手を願うわけにはいかないのだから。


 本当にこのなかに告発者がいるのだろうか……と、南風原は提出者の名簿と頭の中の席順をつきあわせて考えた。提出が済んでいる生徒とは限らないのではないか。原稿用紙は二枚配っている。告発文だけを持ってきて提出することもできたのではないだろうか。バカな。原稿は表向きに回収したはず――本当にそうだろうか。確信は持てない。


 スマートフォンの画面を睨み、南風原は記憶を呼び覚ます。いきなり犯人をあてる必要はない。まず容疑をかけられそうな人間を絞ればいいのだ。その点で、提出者はすべて容疑者となる。そして、もう一つ。鈴璃の前に提出した生徒が怪しい。原稿を提出する際、告発文を原稿の下に重ねて出せばいいのだ。


 南風原は抽斗の鍵を開け、原稿の束を取り出した。鈴璃の原稿を確認して一つ前の原稿に戻す。出てきた名前に目を見開いた。


『ムダにしないために  斎藤 正人』

 

 男子だ。身長は百七十センチと少しで痩せ型だが、サッカー部では目立った存在だった。夏前におこなった三者面談では最後の大会の結果次第でスポーツ推薦を利用するつもりだと話していた。


 結果、大会は一回戦で敗退したが、五点差のついた試合で唯一の得点を決めたのは斎藤だったと聞いている。そのことも影響したのか秋の面談ではスポーツ推薦と一般の両方で同じ学校を目指したいと言っていた。


 ――あの斎藤が……なぜ?


 胸のうちに呟き、一拍の間をおいて慌てて顔をあげた。違う。容疑者だ。まだ犯人と確定したわけではない。たまたま鈴璃の原稿と告発文の前に出してしまっただけかもしれない。

 

 だが。


 その場合、容疑者の特定は困難になる。誰かが鈴璃から原稿を受け取り自身の書いた告発文の上あるいは下に重ねる。その後に別の生徒からも回収し告発文を隠してしまう。そうするだけで、容疑者は提出していない人間にまで拡大する。すなわち、三年二組の全員が疑わしい。


「――先生。南風原先生」

「え!? あ、はい!」


 隣席から伸びてきた手が肩に触れ、南風原は思わず大声で答えていた。周囲の席の教員たちが、みな、目を丸くしていた。


「あー……す、すいません。大きな声出して」

「大丈夫ですか? すごい難しい顔をしていましたよ?」


 隣席の年輩教師に呼応するかのように、斜向かいで生田真里が言った。


「部活に行く前も同じ顔してましたよ。初担の洗礼なんですかね?」

「真里先生」年配教師が言った。「三年生の担任は大変なんですから、茶化さない」

「はいはい、先生」

「はいは一回」


 南風原の机も並ぶの空気が弛緩する。


「はーい」

「伸ばさない」


 緩んだ空気が失笑とともに弾けた。

 真里が席を立ち、島の皆に言った。


「コーヒー入れますけど、飲まれる方は?」


 南風原は小さく手を挙げながら「お願いします」と言った。

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