今と昔
南風原は怪文書に目を戻し、まためくり、赤西鈴璃の名を三度確認、指を挟んだまま束を戻した。
どういうことだろう。
赤西鈴璃を名指しした無記名の文書と、赤西鈴璃の名入の原稿。
同じ名前がふたつあるということは、まさか、本当に?
手のひらで目元を覆い、南風原は細くため息をついた。これまで上手くやってきたのに、という思いがどうしても湧いた。地方の公立中学校はどこも学級崩壊の影に怯えていると言うが、南風原のクラスでは兆候すらない。
無論、受験を控えた三年生ゆえに内申に響くのを恐れて大人しくしているというのもあるだろう。一学期の最初のホームルームで、南風原みずから初めての担任だから至らないところがあれば教えてほしいと頭を下げた効果もあるだろう。
しかし、それ以前に生徒たちは――少なくとも三年二組は――大人しかった。南風原が通っていた頃とは比べ物にならない。
南風原が同じ中学校に通っていたのは、ちょうど『いじめ対策推進法』という仰々しい名前の法律が交付されたばかりの頃で、逆説的に、学級崩壊が社会問題化するほど酷かった頃ということになる。
とりあえず、つづがなく授業は進行しているというだけで、教室は監獄のようだった。看守代わりの教師が消えると空気の淀みが浮き彫りになる。このまま地元の高校に進むとどうなるのだろうという恐れが、南風原を猛勉強に駆り立てたのだ。
それが、教員として戻ってみると、生徒たちは拍子抜けするほど大人しかった。面倒ごとのやり口が近代化、地下化したというのもあるのだろうが、初めての担任としては上々にやり遂げられそうだと思っていたのに。
――これか。
南風原は生田真里の視線を気にしてため息をこらえ、手元の原稿をめくる。無記名で綴られた、赤西鈴璃を糾弾する怪文書。おそらくフリーハンドだ。定規を使って差出人の身元を隠そうというのではなく、怒りから何度も筆圧をかけたのだろう。薄青の罫線を無視した内容は、赤西鈴璃のイジメを告発していた。
曰く、赤西鈴璃は小学校の五年生から卒業まで、同級の女子をいじめていたのだという。赤西鈴璃を中心とした複数人のグループに当該の生徒を引き込み、ことあるごとに無視し、排斥し、嘲笑し、ときには面倒事を押しつけて、逃げられそうになれば優しい言葉で引き戻す――陰湿といえば陰湿だ。当事者の親や、現場の教師としては許しがたい話だろう。
けれど一方で、自分が中学生の頃に教室で置きていたことと比べれば大したことないとも思ってしまう。もう三年目で、クラスを受け持つ立場だと言うのに、まだ学生気分が抜けないのだろうか、と南風原は内心に自嘲する。
彼は憂鬱な眼差しで怪文書を見つめ、そっと引き抜き、折りたたんだ。斜向かいで答案を睨む真里の様子を目の端で伺いながら、自然を装い、椅子の背もたれに掛けてある安物のジャケットにねじ込む。残りの原稿の氏名を確認し、名簿にチェックを入れていく。
表向きの原稿締め切りは十二月二十日で、本当のデッドラインは金曜日となる二十二日に設定されている。一日の回収で集まったのは半数を少し上回る程度だ。A四縦使いの原稿用紙は予備を含めて二枚ずつ配布してある。怪文書を提出した犯人は、このなかにいるのだろうか。
「――終わ……ったー……」
斜向かいで真里が両手を高く挙げ、背筋を伸ばした。南風原は思い出したように原稿の縦横を揃え始めた。
「赤西さん」
ふいに気にしていた名を呟かれ、南風原はギクリと顔をあげる。
「え? あ、赤西がどうかしましたか?」
「字が綺麗なのにもったいないですよね」
「と、いうと――?」
「すっごい綺麗な字であちこち間違ってると、残念だなーってなりません?」
真里が困ったように眉を寄せて笑っていた。
南風原は多少、強引に両頬を吊った。
「ああ、彼女、家が書道教室をやってますからね」
「あ、じゃあいいんですね」
「いい?」
「数学はあまりいらないのかな、と」
「そうかもしれませんね。以前の三者面談では――」
文系の高校に進学を希望していた、と言いかけて、南風原はきしりと背もたれを鳴らした。
「危ない。守秘義務、守秘義務」
ククッ、と真里が苦笑しながら席を立った。
「大変そうだなぁ、クラス持ち」マグカップを手に時計をみやり、あ、と言った。「南風原先生、いいんですか?」
「はい? 何がですか?」
「いえ、さっき部活を覗きに行くって――」
言われて時計を見ると、長い針が四時に差し掛かろうとしていた。
「うわ、いけなっ!」
南風原は慌てて立ち上がりジャケットを羽織った。冬の廊下は腹にくる。机の一番上の引き出しから用心の使い捨てカイロをポケットに押し込み、
「ありがとうございます、生田先生。ちょっと行ってきます」
慌てて職員室を飛び出した。
そして。
「あ!」
文集! 出しっぱなし! と、秒の間もなく戻った。音に驚いたのか真里が背筋を伸ばしていた。斜向かいの側から、南風原の机を覗いていたようだ。バツの悪そうな愛想笑いに苦笑で応じる。
「ダメですよー? 守秘義務、守秘義務……」
呟きながら、南風原は机の一番下、鍵付きの抽斗に原稿の束を収めた。
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