第8話 ミユウの恋は…(3)
ミユウはミナト送り出した後、ミナト先生の言いつけ通りにすぐに玄関の鍵を閉めた。
母と娘、二人はダイニングに戻り、ミユウはミナトの飲んだコーヒーを片付けた。
カップを流しに運び、スポンジに洗剤を乗せてカップを洗っていると母さん声を掛けて来た。
「先にお風呂に入ってもいい?」
「ええよ、洗い物かたずけとくし~」
どうやら残業で疲れた体にミナト先生の指導は堪えたようだ。
それでも母は娘の様子を気にかける。
「あ、ミユウ、ご飯は?バイト先で食べれた?」
「うん、賄食べて来たけど、お母さんまだなん?」
「あはは、さっきのイケメン君のダメ出しで空腹感、引っ込んだけどなぁ…」
ミユウは先ほど聞いたばかりの、ミナト先生のパワーワードを思い出した。
「おかっぱ眼鏡オカン!」
「おかっぱ眼鏡!」
母も思い出したらしい。
二人で言い合うと、母と娘は二人で声を立てて笑い出した。
*****
ミユウがお風呂から上がると、母は冷凍のピザとビールでよろしくやっていた。
ミユウは冷蔵庫からリンゴジュースを出してグラスに注ぎ入れる。
ミユウが勢いよく喉を潤していると、母はスマホを閉じて声を掛けて来た。
「ミユウ、ちょっといい?」
「ええよ」
ミユウはいつも座る自分の席について、ジュースを飲み進めた。
ジュースの入ったグラスが半分になった頃、母がグラスにジュースを足してきた。
「何?」
「さっきのミユウの話やねんけど…」
少し言いにくそうに切り出した母の様子に、ミユウは真剣な話が始まるのだと身構えた。
「さっき、『ミナトさんなら大丈夫』って言ったやろ?あれ、何?」
母の真剣な眼差しに、誤魔化して答えてはいけないとミユウは感じた。
だから、言葉がきちんと纏まっていなくても、よく考えて選ばないといけないと思った。
「えっと、あんまりうまく言われへんけど、思った事を言いながら話ても良い?」
「ええよ」
母は肯定の言葉を告げると、ビールグラスに口を付け、1口だけ飲んだ。
「えっと、あの事件の日…前も言ったと思うねんけど、最初に助けてくれたんは、ミナトさんやねん」
「うん」
「多分な、私呆然としててん。そん時にずっと慰めてくれたんもミナトさんやねん。
多分やけど、お兄ちゃんが居ったらあんな感じやと思うねん」
「うん」
ミユウはミナトの行動力の裏にあるものを、どんな言葉に当てはめれば良いか分からず、悩みながらも話を続けた。
「だからミナトさんに抱き寄せられた時、ほんまは、めっちゃびっくりしたけど」
そう。
あの日は確かに驚いた。だけど…。
「なんか小さい頃の事を思い出して。
それでちょっと…ううん、めっちゃ安心出来たのも、ほんまやねん」
思い出したのは遠い昔の、父親がまだ家に居て優しかったころの記憶。
「その後すぐにカナデさんが来て、そこからカナデさんもミナトさんと同じ様にしてくれたから。だから多分たけど、ミナトさんが変な感じとかそんなんじゃ無かってん」
「うん」
こうして振り返れば、色々と思い出す事がある。
どうしてミナトは、自分も苦しいような痛いような顔をしたのだろうと。
「今日はな、たまたまバイトの帰りにミナトさんとカナデさんと、ソウタさんと一緒になってん。だからミナトさんが家まで送ってくれてん。
こうやって、送ってくれる時もあるけど、ミナトさんとはほんまに何にも喋べらんし、ほんまに何にも無いねん」
そう。ミナトはいつも傍に居てくれるだけ。
だけどそれがミユウにとっては一番安心が出来る状態でもあるのだ。
「だけどな、今日は初めて名前で呼んでええよって、言ってくれてん」
「…」
「最初、言われた時はビックリして、私が、ちょっと立ち止まってたみたい。
だけどミナトさんは、同じ様に立ち止まって、『いこか』って私に言ってくれてん」
「そっか」
だけど、今日は、もっと傍に来ても良いよと。
そんな風にミナトは言ってくれたような気がしたのだ。
「そしたら、何か急に『ミナトさんなら大丈夫』って感じがしてん」
だからミユウは近くに行って、もう少し頼っても良いのだと思ったのだ。
「だからどれが?とか、なんで?とか、良く分からんけど。
ミナトさんは多分、そういう言葉じゃなくて、ちゃんと私を見てるような気がするねん…」
ミユウの傍に居てくれる。近くでミユウの事をちゃんと見てくれる。
だけど間違いは間違いだと教えてくれる。
ミナトはミユウにとってそんな人なのだ。
ミユウの言葉に母は、「ふ~」と鼻から息を吐いた。
そして「なるほどなぁ」と言ってまた何かを考えだした。
やがて考えが纏まったのか、母は話を切り出した。
「ミユ…あ~、うん。う~ん。確かにな~見た目以上に中身がな~。ってかむしろ中身の方がカッコいいんか~」
「?」
テーブルの上で肩ひじをついて、母は語り続ける。
「あ、中身がイケメンやから、外身がイケメンなんか?」
「?」
「あ、いやごめん、ごめん」
「うん、大丈夫やで」
「う~ん」と唸りながら母は再び考える。
そして意を決してミユウに告げる。
「ミユウ、ミナトさんの事好きやねんな?」
ミユウは母の言葉に絶句する。
「え?」
「え?」
母と娘はお互いに目を丸くして驚き、固まる。
「えっと…?好きなんやろ?」
「えっ⁉これが好きって事?」
男女の機微が分からないミユウは混乱する。
ちょっと待って欲しい。ミナトに対するこの気持ちが恋愛の好きと同じになるのかミユウには分からない。
「他に何があんの」
母は呆れた声でミユウの訝し気な目で見つめる。
そうか。これがそうなのかと、ミユウは少しずつ自分の気持ちを確かめる。
「ミユウの初恋か、お赤飯やな」
「なんでぇ!」
なぜ赤飯なのか。
ミユウが突っ込みを入れると、母は急にため息を吐いて、少し肩を落とした。
「でも、あれやな…あれはアカンな」
「なにがアカンの」
「何って、おかっぱ眼鏡!やんか」
そう言えば。
ミナト先生は最後にそんな事を言っていた。
まさかとは思うが、ミナトのミユウに対するイメージとか、ニックネームなのだろうか。
少しだけガッカリもするけれど、目の前母を見れば、なるほど言い得て妙だとミユウは納得がいった。
「あはは、言ってたな」
「ちょ!『あはは、言ってたな』ちゃうで!
アカン!取りあえず、ミユウは脱おかっぱ眼鏡や!まずはコンタクトや、明日早速、眼科に行くで!」
何故だかミナト先生のパワーワードに母は火が付いたようだ。
「え、明日⁉」
「何言うてんの!『命短し恋せよ乙女』や!!」
火のついた母は早速娘を連れて大型のショッピングモールへやって来た。
ミユウはそんなこんなで、眼鏡からコンタクトレンズに変えて、髪型も変えていく事にした。
コンタクトレンズにして学校へ行けば、友達の反応は良かった。
そしてミユウが気になるままに質問をすれば、彼女達は色々と教えてくれた。
ヘアアレンジに興味があると言えば、みんなでスマホ片手に髪の毛で遊んだ。
どんな服が流行ってるかと聞けば、みんなでショッピングモールへ出かけた。
ミユウの周りはBLとかコミックの話が多かったけれど、別にそう言うのも沢山ある話題の一つに過ぎなかった。
自分の見ている場所が、今までちょっと狭かっただけなのかも知れない。
本当は、もっと色々なモノが見えていたのに、気が付かなかっただけなのだ。
ミユウはミナトと関わるにつれ、自分の中でも色々な変化が起きている事に気がついて行った。
ミユウが「脱おかっぱ眼鏡」を目指している中、ミナトと出かけるチャンスがやって来た。カナデがミユウを映画に誘ったのである。
聞けばカナデの好きなアニメが映画化されて、入場特典が目当だと言った。
入場特典は何種類かあるから、ミナトに頼んだけど二人のデートの邪魔は嫌だと断られたと。
ならばと、四人ならどうだという感じでミユウに声を掛けたと言った。
ミユウは即答で「行きます」と答えた。
そして心の中で、お母さん、命短し恋せよ乙女がやって来ましたと報告していた。
*****
約束の当日、ミユウが待ち合わせの場所に行くと、既にカナデ達は付いていたようで、既に待っていた。
だからミユウは少しだけ駆け足で近づいて行った。
「あ、ミユウちゃん!こっち!」
「すみません、遅くなりました」
「まだ時間ちゃうから大丈夫よ~」
少しだけ髪を整えながらカナデに話しかけるミユウ。
そんなミユウにソウタが声を掛ける。
「バイトの時と雰囲気ちゃうね」
「はい、頑張っておしゃれしました」
ソウタに褒められたと思ったミユウは、少し得意になって答えた。
そしてそんなソウタもバイトの時とは違って、大人っぽくてカッコよく見えた。
カナデと並ぶと、物凄くいい雰囲気の二人のように思える。
羨ましいなぁとミユウは素直に憧れた。
そんな二人の関係に憧れたミユウは意を決してミナトに声をかける。
自分もおしゃれをしたのだと、少しは見栄えが良くなったのだと、彼女なりのアピールのつもりだった。
「ミナトさんどうですか?」
ミユウは内心は冷や汗でドキドキとしながらも期待を込めて聞いたのだ。
四人の間に妙な緊張感が漂う。
ところが、ミナトは三人が思った方向とは違う言葉を口にした。
「いつも顔を覆ってる髪の毛無くて、耳が見えて、メガネがない」
違う、そうじゃない。
カナデとソウタは脳内で突っ込み、ミユウはおっしゃる通りですと脳内で項垂れた。
(そうか、ミナトさんから見たらそんな風にしか見えないのか…)
ミユウはガッカリもしたけれど、それでも変化に気付いてくれたのは素直に嬉しいと思った。
さすが、恋する乙女。
ミユウはこんな些細な事でも嬉しいのだな、なんて、少し自分の気持ちを客観的に分析もしてみた。
そして喜び半分、恋の充実感半分のミユウの耳にミナトの言葉が届いた。
でもそれは期待をした言葉では無くて、ミユウに止めを刺すような言葉だった。
「ふ、普通」
カナデの喉がヒュっと鳴り、ソウタが天井を見上げる。
そしてミユウがいたたまれなさを突き抜けて、氷のように固まった。
(そっか~、普通か~)
ちょっと泣きそうだと、ミユウは落ち込んだ。
けれどそんなミユウを恋の神様は見捨てなかった。どうやら応援なのか、喝が入ったらしい。
「え?普通に可愛いけど、何?」
ミナトの悪びれもない言葉に希望が差して、ミユウはミナトの顔を見たくなってしまった。けれど、それは恋愛漫画のようなミユウが期待したものでは無かった。
見上げたミナトの横顔は、少し難しい顔でカナデを睨んでいる。
あれ?何故そんな顔をしているのか?
そして、不意にミナトはミユウの方へチラッと目を向けた。
ミユウとミナトの目と目があった瞬間、ミユウの身に衝撃が起きた。
「んっっ!」
グッと息を飲みこむくらいに、ミユウの心臓が横にぎゅんってズレたのだ。
だからミユウの体が一瞬動かなくなった。
初めて起こる、心臓を掴まれたような不思議な感覚にミユウは驚くと同時に固まったのだ。
やがて訪れた大きな心臓の鼓動。
ミユウは少しギクシャクしながらも、言われるままにシアタールームへ入り、指定席へと向かった。
こうして座った座席の並びは、ミユウの両脇にカナデとミナト。カナデの奥にソウタが座る。二人は早速パンフレットを見ながら楽しそうにしている。
そんな二人に目を向けるのは、理由がある。
何となくだけど、ミユウはミナトの顔を見辛くなったのだ。
映画の予告が流れる中、チラっと盗み見するようにミナトの横顔を覗くミユウ。
少しだけスクリーンを見上げるミナトの横顔は、いつもと違って、長めの前髪が耳の方へ流れているように見える。
センターパートだからだろう、今日はおでこの様子が良く見える。
そこからスッキリと筋の通った鼻。顎先に向かう輪郭もシャープで、少し太い喉には女性とは違ってゴツゴツとしている。
そしてスクリーンを見つめる目は、涼し気で冷たい印象もあるけれど…。
(あれ?
ミナトさんって、こんな顔だったっけ?)
見慣れないミナトの横顔に戸惑いつつも、ミユウは思考を押しのけて楽しむ事にした。売店でミナトに買ってもらったキャラメルポップコーンを口に放り込む。
うん。美味しい。
そう言えばと、ミユウはミナトに声をかける。
「ミナトさんも一緒に食べますか?」
「ありがとう」
ひょいっとつまんで口に放り込むミナト。
良かった、今はいつも通りの顔だとミユウは安堵する。
そして気が付いた。どうやら甘いのは苦手らしい。
ミユウが謝るとミナトは次は塩味が良いと言った。
そんな何気ない一言に次がある事を期待してしまう。
ミユウは嬉しさのあまり、大きな声でハイと返事をした。
そんなミユウの言動に、ミナトはいつも通りの雰囲気のまま、少し微笑んでいた。
無事に映画も終わり3人はシアタールームを出た。
少し明るくなったロービに出ると、カナデは手に入れた入場特典を扇状に並べてはしゃいでいるた。
「3種類もあるぅ~」
カナデのはしゃぎ様でミユウは気が付いた。
自分の貰ったものと、カナデの手にしているものが全く違う事を。
だからミユウは自分のものを差し出した。
「私のも良ければ…」
「え、そんなん悪いわ、ええよ、今日の記念に持って帰り!」
けれどミユウは首を横に振った。
(私、知ってます。私の持っているこれで4種類、コンプリートです)
だからドヤっとばかりにもう一度差し出した。
「推しだったら、絶対に欲しいのわかりますので!」
けれどカナデはなかなか受け取らない。
ミユウとカナデの良く分からない押し問答の攻防を止めたのはミナトだ。
「分かった、分かった。それカナデにあげたって?俺がパンフレット買ってやるから、付いてきて」
「あ、はい!」
ミユウは自分の要望が通った事に安堵し、ミナトに連れられながらも、カナデのミッションコンプリートを祝うのだった。
やって来たグッズコーナーを見ると、思っていたよりも多くの種類が置いてあるようだ。
ミユウはふと目にしたキーホルダー手に取った。
「これ可愛いなぁ」
「なら、パンフレットやめてそれにする?」
ミユウはミナトの声に心臓が飛び出るかと思った。
それはミナトが急に話しかけて来たからではない。
ミユウの手にしたキャラクターの雰囲気がミナトに似ているからだ。
けれど、ミナトはそんな事には一切気が付かないようで、ミユウの驚きにただ笑っていた。
「じゃ、ここで待っといて。レジに行って来る」
選んだキーホルダーを託して、ミユウはその場で待つ事にした。
そして買ってもらう予定と同じキーホルダーを手にしてもう一度眺めてみる。
良く見れば先ほど見た映画とは異なるアニメ映画のキャラクターだった。
キャラクターなので、実際の人物と髪の毛の色も、デフォルメされた造形も人間とは違う。
でもなぜかミナトに似ている…。
そんな不思議なキーホルダーを眺めていたら不意に自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「あれ?、タカダミユウ?」
振り向けば、中学の時の同級生が二人。
確か3年生の時に同じクラスだった男子生徒の二人だ。
「うわ、まじでタカダや」
「懐っつ~!」
「わわわ、ほんまや、久しぶりや!相変わらず元気そうやなぁ」
「そうそう、中3ぶり!タカダ、めっちゃ変わったなな~!」
「コンタクトか?」
久しぶりの再会。
ミユウは同級生のテンションに驚きつつも、男子はこういう所があるなと思っていた。やがて二人は盛り上がり、ミユウが商業高校に行っている事から、女友達を紹介して欲しいと頼みだした。
少し強引な言い分にミユウは乾いた笑みが漏れる。
悪い子では無いけど、この二人は押しが強すぎる…。
どうやって断ろうかと悩んでいたら、急に目の前にミナトが現れた。
「俺の連れに何か用?」
「え!イケメンきた」
「っつ!」
後ろ手でミユウを隠しながらだから、背後のミユウから様子はあまり見えないが、雰囲気から同級生の前でやや凄んでいるようにも思える。
もしかして自分が絡まれているのかと思ったのかと、合点のいったミユウはミナトを止めるべく、大きな声で説明をした。
「ど、同級生です!!」
「は?」
「中学校の、同級生です!」
ミユウは祟り神様にお願いするような気持ちで「鎮まって下さい~」と心で唱えながら、ミナトのシャツをぐいぐいと一生懸命に引っ引っ張った。
やがて願いが通じたのか、程なくミナトさんのテンションが冷めていく。
「そっか、ごめんな、わりぃ」
「…いえ」
大学生のイケメンに謝られた同級生は、気まずさからか、小さな声返事をした。
同級生がしおらしくなると、ミナトはスッとミユウの横へ行った。
そしてミユウの私の手を繋いで歩き出した。
ミユウは同級生に見られた恥ずしさもあったけど、ミナトの強い引きに素直について行く事にした。
無事に四人が合流すると、映画館を後にして、カフェでお茶を飲む事になった。
今日はこれで解散という事で話がまとまる。
カナデとソウタは引き続きデートの続きをすると言って、帰る予定のミユウをミナトが送り届ける事になった。
いつもの帰り道と同じ。特に会話は無い。
今日くらい、映画の感想でも言えばいいのだろうとは思うけど、ミユウはカフェでカナデと映画の話題をしつくして、特に言いたい事も聞きたい事も無かった。
けれどお土産のお礼くらいは、きちんと伝えないといけない。
「お土産ありがとうございました」
「良いのあって良かったな」
「一生大事にします」
それは思わず口にした、ミユウの内緒話だった。
自分の気持ちが重いと知れたら、ミナトは引くだろうか。
そんな不安から見上げるようにミナトの様子を伺うと、特に気にもしてないように見えた。
「大げさやなぁ」
笑って応えるミナト。
ミユウは、逆にちゃんとミナトに言えて良かったとも思った。
だから…という訳じゃないけれど、ミユウはミナトに気になっている事を尋ねた。
「ミナトさんて彼女は居ないんですか?」
「おらんけど…ま、隠す事ちゃうから言ってもええけど、今まで誰かの事好きになったことないねん。そう言うのわからんねん」
何となくそんな気はしていた。
ミナトの言葉がミユウの胸に沈みこむより先に、次のミナトのセリフが耳に入って来る。
「だからな…カナデとソウタが羨ましい」
羨ましい。
ミナトは確かにそう言った。
ミユウは気が付いてしまった。ミユウの「好き」の気持ちを伝えた所で、きっとミナトには通じない…と。
きっとミナトの言った「羨ましい」言葉の意味は、普通の人が言う恋人が居る羨ましさとか、憧れの羨ましさとは違うのだろう。
本当に言葉の通りの意味だとしたら…。
だとしたら、ミナトは自分が言った通りに、そういった状態がどういう意味をもたらすのかが分からないかも知れない。
だからそういった状態が分かった上での恋人同士という形のカナデとソウタの二人が羨ましいのだとしたら。
でも…とミユウは思う。
ミナトがそれを言うのなら、多分私も本当は分からないのだ、と。
「…わかります、私も羨ましいです」
ミユウも自分で気が付いていた。
きっと自分がミナトを好きだと思う気持ちも、他の人が言う好きとは違う。
安心感だとか、尊敬だとか、細分化された言葉の意味は分かるのに、大きく括られた、男女の恋愛感情が何を表すかは自分でも分からない。
「な~」
ミナトは凄くいい顔で笑って答えた。
だからミユウも「はい」と、いい顔で笑って答える事が出来た。
同じような言葉を交わしながらも、ミユウはミナトと自分は決して交わらないと確信していた。
きっと本当のミナトの近くには、誰も超えられない大きな深い溝があるのだ。
だけどミユウは、そんなどうしようもない自分の気持ちと、行先の無さをミナトも持っているかのように思えて、声を出して笑い合えるのだと思った。
形に成れず、行先も分からないミナトへの思い。
こんな自分の事を、普通の人は「失恋をした」と言うのだろう。
そしてミナトにこんな恋愛話は通じない。
ミユウの母は揶揄って『命短し恋せよ乙女』と言った。
だけどミユウの思いは恋になる前に、行くあての無いままで終わりを迎えてしまったのだ。
*****
ミユウの思いが届かないものであっても、それを捨てる事は出来なかった。
だってそれはミユウの心で、感情なのだから。
そんな日々を過ごしているある日の事。
その日のミユウはバイトの先で、BL仲間のノンちゃんと盛り上がってた。
と言っても勝手に盛り上がってるノンちゃんをミユウが宥めるような関係性だ。
ミユウは少ないながらもそれなりに恋愛漫画や、少女漫画も嗜んで来た。
BL漫画にある恋愛は切ないものが多い。それでもきっと性差は無いのだと考えて、二人が強くお互いを望む激情のようなものを恋愛だと思っていた。
だけどミユウは映画を見に行った日の後のミナトとの会話で、漫画の中にある恋愛の好きだとか、友人の言うそう言った類の話が分からなくなってしまった。
それでもミユウは比較的前向きに考えて、今は失恋の痛みで考えたくないのだと思う事にした。
「私はソウミナがたまらん、ミユウは?」
「その組み合わせは…」
「じゃ誰よ」
「最近、ちょっと分かんくて」
「はぁ~まぁええか。ヤスコさんの本また借りていい?」
ノンちゃんは、ミユウの母の持っている古い時代のBL本がお気に入りらしい。
それでたまに家に遊びにきては、ミユウの母と盛り上がる。
「ソウミナ?」
不意に現れたミナトに、ミユウとノンちゃんは固まった。
何故なら二人は「ソウミナ」と言ったミナトの声に、この世の終わりが見えた気がしたのだ。
行く末の恐ろしさのあまり、二人はミナトの顔を見る事が出来ない。
「あ、ごめん?驚かした?」
二人はその言葉に一筋の光明を見つけた。
そしてなりふり構わず、一目散にその場から逃げだした。
人間はあまりの衝撃が起きると、無口になるらしい。
ミユウとノンちゃんは、そこから一切口を開くことなく、会った事も無い他人のように変な距離感で仕事をこなした。
それでも無事にバイトの終了時刻となった。
先に上がったノンちゃんはさっさと家に帰ったらしい。
ミユウは一人で家に帰る事にした。
店から出るたミユウは、やっと自由を手に入れた脱獄囚のような気持ちだった。
だから気が抜けたのだろう。それとも今日の出来事の罰が当たったのだろうか。
目の中にゴミが入り、コンタクトレンズから襲撃を受けた。
「あたたたたっ、いっ痛~~っ!!」
ミユウは異物の反乱に、その場でかがみ、急いでカバンの中を漁る。
カバンから鏡と目薬を見つけて、どぼどぼと目薬をたらし、異物を排除するべくぱちぱちと瞬きをする。
鏡を開けて覗くと、どうやら異物は自分のまつげだったようで、それをつまんで取り除いた。
ハンカチで目を押さえながら、コンタクトの動きを確認する。
うん。痛くない…のかな?
「っ~!!」
まだ痛いと思ったのも束の間、聞きなれた声が聞こえて来た。
「大丈夫か!」
ハンカチの隙間から除くと、いつか見たような光景が過る。
ミナトさんだ!
まずい、早く誤解を解かないと!
ミユウは慌てて弁明の言葉を伝える。
「ご、ごめんなさい!大丈夫です!コンタクトです!コンタクトがズレたんです!」
「は?」
「コ、コンタクトです!コンタクトレンズです!っつたたた!」
「あ、わりぃ」
謝りながらぱっと手を離すミナト。
その時ミユウは自分の肩をミナトが掴んでいた事に気が付いた。
「すみません、肩じゃないです、目です、すみません…もう大丈夫です」
「いや、ごめん」
鼻水と涙でグズグズになりながらも説明を続けるミユウ。
あぁ、やっぱり罰が当たったか…とミユウは落ち込んだ。
すると少し強めの口調で、ミユウとミナトの間に入る人物が現れた。
「何してるんですか?」
「あぁ、コンタクトがズレたらしくて…」
言葉のつまるミユウに変わり、ミナトが説明をする。
ミユウが目を上げると、そこに居たのは、つい先日入って来た新しくバイトの女の子だった。
何か誤解をさせてしまったのかも知れない。
ミユウが釈明の言葉を口にしようとした時、その子は急にミナトに強い口調で切り出した。
「ミナトさんってミユウに優しいですよね、でもミユウ、ミナトさんの事好きじゃないですよ?」
「は?」
「ミユウって腐女子なんで、男性の事好きじゃないんです」
その強い口調では何が言いたいのか分からない。
だからミナトは怒ったのだとミユウは思った。
だけどミユウは彼女の言い分が分かってしまった。
つまり、ミユウのミナトへの思いは恋愛感情では無いのだと、そう言いたいのだ。
「はあ?」
そんな勝手な物言いにミナトはキレたのか一段と低い声で返した。
いつもより強い否定の剣幕にミユウの肩が揺れる。
「…っつだから、ミナトさんは恋愛対象外ですって!」
ミユウは彼女の言い分の正しさにショックを受けた。
そしてやはりそうなのだと思った。
ここに来て理解したのだ。
みんなの思い描く好きは、自分のミナトへの思いと同じ事なのだと知ったのだ。
恋愛対象外と言った彼女。
そしてそんな彼女の言葉に、咄嗟に浮かんだのは「そうじゃ無い」と彼女の言葉を否定する言葉だった。
でもそれが一番のショックでは無かった。
一番のショックは私の好意を否定された事では無い。
彼女は恋愛が分からないといった、羨ましいと言ったミナトを知らずに、その言葉を言い放ったのだ。
恋愛感情が分からないミナト。
恋愛対象外だと言われたミナト。
だけどカナデとソウタの二人を羨ましいと言ったミナト。
それを聞いたミナト本人がどう思うかなんて、どう思って来たのかなんて、本当は誰にも想像が出来ない。
そんなミナトの辛さを思い出せば、悔しさがこみ上げる。
そしてそんなミナトの辛さの片鱗を知ったミユウの好意の、ミユウのミナトへの恋の中に、ミナトは入らないと彼女は言い切ったのだ。
「っ!」
でも…やっぱり、どうして良いか分からない。
だってミユウの好きがみんなの好きと同じでも、違うくても、ミナトの「羨ましい」の正体が本当は何なのかミユウには分からない。
そしてそれはミナト本人にも分からない事かも知れない。
誰にも分からないなら、どうしたら良いのかなんて、ミユウには分からない。
だからミユウは逃げた。
ミユウは自分から逃げたのだ。
「あっ、おい!」
だから自分を呼ぶ声も無視して、ミユウはミナトから逃げた。
悲しくて、悔しくて、どうしようもなくて、ミユウは逃げ出した。
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