情動伝染の宴

そうざ

A Party of Behavioral Contagion

「ジョードーデンセンって、知ってっか?」

 目の周りを紅色に隈取くまどった課長が私の肩に馴れ馴れしく手を掛けたまま怪しい呂律を発した途端、その場の空気に細波が起きた。

 この『知ってっか?』は宣戦布告の合図である。

「ほら、欠伸あくびが伝染る事があんだろう? 自然と相手と同じ動きをしちゃうっ、それが情動伝染っ、分っかるぅ?」

 この『分っかるぅ?』はいよいよ総力戦が始まった証拠である。

 課長が老眼を理由にこれでもかと顔を接近させ、酒と加齢臭と自己顕示欲とが入り混じった汚臭を私の鼻先に散布する。毒ガスの使用を禁止する条約が存在しても、約束事は往々にして破られるものだ。

 眉唾な心理テストから始まった課長の独擅場が佳境に入ると見るや、同僚達はさっさと小グループに分かれ、時折り不憫そうな視線を向けるだけである。この場に集団的自衛権は適用されないらしい。

「脳内のミラーニューロンが関係してんだ。ストレスだって伝染するんだぞぉ、お前よ〜っ」

 この『お前よ〜っ』は私へのピンポイント民族浄化作戦が決行された事を意味する。

 こうなったら最後の手段、玉砕覚悟の特攻しかない。それが唯一私に残された個別的自衛権の行使だ。

 私は心の絞弁把柄スロットルレバーを引き、気付け薬宜しく芋焼酎をぐいぐいと呷った。


「ジョウ……ドュオォウドッ、デェンシェンしゃーすいヒロはぁ、キョウ……キャン、シェイぎゃぁ、たっっきゃい!」

 情動伝染し易い人は共感性が高い――酔いどれ課長の言葉をしっかり翻訳出来てしまう自分自身が恨めしい。酔っ払い同士は意思の疏通さえ情動伝染するものなのだろうか。

「デンシェン、デンシェン、デンシェンに雀は何羽ぁ留まってますきゃ〜?」

「お前ぇよ〜、ほんろにぃ、ジョウドゥ……デェンシェン、知ってっきゃ〜っ?」

「かっちょ〜っ、しゃっききゃら同じ事ばっきゃ言っれまふお~っ」

「分っかるぅ~、分っか、分っか、ぐふぉ……おげっ、おげおげっおげろげぐっふぉ~っ!!」

「うぎゃ~っ、きゃちょぉったら、ぐぶっ……おげっ、おげおげっおげろげぐっふぉ~っ!!」

 同僚達が慌てふためく中、私の吐瀉物を顔面に噴射された課長は舌舐めずりをしながら高笑い、先に課長の吐瀉物をお見舞いされていた私も笑いが止まらなくなってしまった。


 斯くして、互いに正義の名の下に繰り広げた局地的酒宴戦争は、泥酔化の一途を辿った挙げ句、両者の前後不覚協定を以て終結となった。

 尚、当事者である私達に戦時の記憶はなく、遺されたのは痛ましい後遺症ふつかよいのみであった。詰まる所、この戦時記録の一切合切は、逸早く永世中立を決め込んだ日和見主義者どうりょうの密かな語り草から類推、再現したものに過ぎない。

 私は、二度と再び斯様な惨禍に見舞われぬよう切に願う。しかしながら、過ちを繰り返すのが人の世、人のさがである事を鑑みれば、新たな厄災の火種は常に準備されていると言わざるを得ない。それは、あたかも情動伝染の如く負の悪循環を生み出し、またしても酔狂な悲喜劇へと我々をいざなう事だろう。

「だって、酒って何だんだ理由を付けて飲んじゃうじゃないですかぁ」

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