第6話



 ◇ ◇ ◇ 二〇五二年 六月 二五日 午後五時 一二分


 キィちゃんから近場で安全な場所を問われ、俺は自宅をあげた。

 だが「行きましょう」の即断で来るとは……それだけ切迫しているのか。

 ならばと連れて行ったが、俺の家を前にしたキィちゃんの反応は芳しくない。

「何と言うか、苦労してるのね」

「住めば都さ。喧噪も慣れれば大した事はないよ」

 俺の自宅は隅田川下流に建つ、五階建てのおんぼろ集合住宅だ。

 古い建物じゃないが、スラムに近いだけあって治安も悪い。

 ガラスが割れた窓、壁に描かれたスプレーアート。廃墟寸前である。

 だが金を払えば入居に戸籍は必要ない、俺にはこんな家しか借りられなかった。

「あっ、フードはしておいてくれ」

 俺は階段を上る前に、彼女の顔立ちを思い出して忠告した。

 キィちゃんは突き刺さった硝子片を撫で、不思議そうに問い返す。

「別に良いけど……ここも危険なの?」

「いいや、治安の問題でね。変なのが絡んでくるかも」

 キィちゃんの顔が渋くなる。汚い自宅ですみません。

 アパートの階段を上がる途中、他の部屋から怒声や悲鳴が聞こえる。

 心配して振り返ると、彼女は治安の悪さに俯いていた。

 俺は居心地悪くなり、自宅の扉を開けて彼女をリビングへと案内する。

「さて俺の家に着いたけど……」

「とりあえず座って話さない?」

 部屋は壁紙のないフローリング丸出しの1LDKだ。家具も少ない。

 一人用の冷蔵庫に、二百年物であるレコードスピーカー。

 部屋の中央は斑模様のベットと、サイドテーブルが占領していた。

 押し入れに並ぶ仕事着や普段着を除けば、殺風景な部屋である。

「お客さんを考えてなくて。椅子はないんだ。ベットに腰掛けててくれ」

 キィちゃんも見知らぬ男のベットなんて、座りたくないだろうが。

 俺も他人を自室にあげる事を、想定していなかった。

「お金、大変なの?」

「結構前に仕事を失ってね。見ての通りさ」

 キィちゃんは意外にも、嫌悪感を表情にしなかった。

 代わりに悲しげな表情を浮かべる。

 俺は内心で首を傾げつつ、冷蔵庫から軟膏入れを取り出す。

 貴重で高価な薬だが、医術の心得がない以上仕方ない。

「まずは君の治療だ。相当無理してるだろ?」

「治療くらいは自分で……」

 キィちゃんはそう言いかけるが、血の跡は背中に広がっている。

 到底一人で軟膏を塗れる範囲ではない。

 彼女もすぐに気づいたのか、「お願いするわ」と俺に背中を向けてくれた。

 俺は軟膏入れを開け、彼女が服を脱ぐまで顔を逸らして待つ。

「時間が無いから、治療しながら話せるかい?」

 衣擦れの音が部屋に転がる中、俺は気まずくなって呟く。

 彼女は笑いながら、逸らした視線に割って入ってきた。

「助けてくれてありがとう。面倒事だって分かってるでしょう?」

「警察の特殊部隊が、バスを横転させる位にはね」

 俺の冗談にキィちゃんは笑うと、「その通りね」と頷いた。

 彼女はパーカーを脱ぎ、学校の制服じみた半袖Yシャツも脱ぎ去る。

 豊満かつ均整の取れた肢体に、半袖に滲む紅の跡が痛々しかった。

 俺は傷回りを見て、痛まないだろう場所から軟膏を塗っていく。

「奴らの狙いを聞いても?」

「言えないわ」

「君の素性は?」

「それも言えない」

「……相手の戦力がどれくらいかは分かる?」

「分からないわ」

「分からない事だらけなのは分かった」

 一通り聞きたかった事が、全滅してしまった。

 俺が見あげると、キィちゃんも困った顔をしている。

 その後も治療が続き、痛みに顔を歪める事が多くなっていく。

 俺は何度も消毒を施し、秘伝の薬を塗ると針で縫い合わせた。

「どうだい? 随分と良くなると思うけど」

 俺が聞くまでもなく、キィちゃんは気の抜けた息を吐く。

 艶やかな溜息は、痛みが減った喜びで間違いない。

「ふぅぅ。塗る鎮痛剤なのに、即効性が高いのね?」

「闇医者から貰った薬品を、俺が再調合した非合法品だけど」

 キィちゃんがぎょっとして、嫌そうな顔で傷口をさする。

 だが痛みは感じないのか、顔色も良い。

 俺はキィちゃんが着替えるのを、背中を向けて待った。

 背後で衣擦れの音が聞こえると、居心地が悪くて質問をしてしまう。

「話を戻そうか。君から話せる事は?」

「私と仲間達が追われてる事。ARMSに仲間が捕まった事だけ」

 キィちゃんは焦燥感と怒りを滲ませる声で被せ気味に返す。

 俺は内心で納得した。彼女は仲間が捕まったから急いでいるのか。

 下手に刺激すれば、キィちゃんがどう動くか分からない。

 俺は聞き役に徹して、彼女の事情を聞いた。

「仲間……君には仲間がいるのか?」

「二人居るの。でも生きてるかも分からないわ」

 対忍者部隊ARMSなら、確かに生きてるか分からない。

 忍者と疑われる一般人や関係者に、躊躇いなく武力を行使する暴力機関だ。

 更にパラノイア気味の組織でもある。魔女狩りならぬ忍者狩りと言うべきか。

「ねぇっ、アンタ。アイツらの科学装置から、良くバレなかったわね?」

「そこは間違いなくバレてないよ」

 漸く着替え終えたキィちゃんが、振り返りながら睨む。

 その目は疑っている訳ではなく、何かを試す色を帯びていた。

 俺が平然としていると、キィちゃんは上目使いで拳を握る。

「アイツらの装備がオーバーテクノロジーの塊でも?」

「うん。バス爆発事故もあって、俺達は死んだと思われたんじゃないかな」

 AMRSの装甲服は、音速超過の機動力と鋼鉄をひしゃげる怪力を持つ。

 まさに百年先の科学力が詰まった最強のパワードスーツだ。

 だが忍者の使う忍具ではない。対処方法は公安時代に周知されている。

 キィちゃんは話を聞くと、目を輝かせて縋りついた。

「どうやって、いやソレは良いの。アタシに協力してくれない!?」

「協力というと、捕まった仲間を助けろって?」

 「そうっ!」頷くキィちゃんの表情は明るく、救世主かの様だ。

 反対に俺は平然を装っているが、余り好ましい状況ではなかった。

 だがキィちゃんは無邪気にお願いを重ねがけしてくる。

「それとこの町にある、アジトまでの輸送!」

「うーん。正直に言うと気乗りしない」

 何か勘違いされたかもしれない。

 俺がキィちゃんを助けたのは、大した手間じゃないからだ。

 あの場で見捨てなかったのも、情報が欲しいだけ。人助けは趣味じゃない。

 キィちゃんは俺の返事に頷きつつ、飴を見せてきた。

「勿論タダとは言わないわ。報酬は支払うし、作戦もアタシが主動する」

「報酬って言われても、若い君が支払える額なんて……」

 所詮十数万だろう。金に困ってるとは言え、その金額でに命は張れない。

 キィちゃんは自信満々な表情で、俺が断わる前に両手を広げて遮ってくる。

 その瞳はまるで欲しい商品を落とす、オークション客の様だ。

「一〇〇〇万でどう?」

「いっせっ!?」

 俺の驚く顔を見て、キィちゃんはしたり顔をした。

 交渉の基本は相手の欲する物を高値で与える事だ。彼女は商人の才能がある。

 キィちゃんは俺が何か言う前に、更に畳みかけてきた。

「何なら先払いで、半分支払っても良いわ」

 冗談だろと言いたいが、彼女の目を見れば分かる。嘘を付いていない。

 本当に一〇〇〇万払えるし、払う準備に不安もない。払える額なのだ。

 ……こんなに気品ある子なら、企業の社長令嬢の可能性もありうる。

「少し待ってくれ、考えたい」

「分かったわ。でもすぐに決めてね?」

 俺に与えられた選択肢は少ない。

 キィちゃんが捕まれば、俺も芋づる式にバレる。

 ARMSは俺が無関係だと知って尚、付け狙うだろう。

 だからとキィちゃんをこの場で殺す程に冷淡でもない。むしろコレは好機だ!

「キィちゃん、話は受けよう」

「本当!? ならっ「但し条件がある」……条件?」

「話は受ける前提として、一つだけ条件を加えたい」

 俺が条件をキィちゃんに伝えると、彼女は目をパチクリとした後で大笑いした。

 痛みの所為か、気を張っていたのか。その笑顔は良く似合っていて……。

「貴方って、本当に馬鹿ね」

 曇天が腫れて夕日が差し込む光景をバックに、彼女は満面の笑みを浮かべた。


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