スイッチ

若島和

 学校っていう建物は、なんでこう真っ昼間からフルマックスで電気をつけてるんだろうか。

 2年1組、昼休みも終盤の13時10分。私はカーテン越しに容赦なく照りつけてくる西日に照らされながら顔を顰める。目の前に座る友人、あおいもまた「うぅ~」と不快そうに呻いた。

「明る。必要なくね、電気」

 今まさに言おうとしたのと同義の言葉に、私は黙って頷きながら手元の紙にキモい笑顔の猫を描き込んだ。ふ、と僅かな笑い声と共に葵の鉛筆が滑って、キモい笑顔のコアラを描き加える。

 裏側──正確には表側──に古典の文法表が記されたB4のプリントは、すっかり落書き帳と化してしまっている。私がラッコを描き込むと、葵の鉛筆は二次元キャラクターの輪郭をサラサラと描き出し始める。特徴的な眼鏡が表れたのをきっかけに、私はその正体の判別に成功した。彼女の好きなマンガのキャラだ。

「コーネリア様だっけ? 次は『あ』でいいの」

「『ま』でもいいよ」

『あ』か『ま』がつくキャラクターなんてたくさんいるはずなのに、思い浮かばない。別にキャラじゃなくてもいいんだろうけど……。とんとんとシャーペンでプリントを叩きながら思案していると、コーネリア様に本格的に陰影をつけ始めた葵が切り出した。

「そういや、彩華あやかさ。文化祭の原稿、進んでる?」

「あ、うん」

 原稿、というのは私たちの所属する漫画研究部で頒布する部誌のことである。中高一貫校かつ高二の私たちにとっては最後の参加になるから、副部長の葵も部長の私も結構前から張り切っていた。私はコーネリア様の隣に至ってシンプルな『アリ』をぐりぐりと描き込みながら答える。

「話自体はできたよ」

「偉。今回も漫画?」

「うん。12ページになるかな」

「すげー」

 感嘆する葵はさして思案もせずに、また人間の輪郭を描き始めた。

「私、そんな長いの描けないよ」

 彼女の手元に姿を現していく縦ロールの美少女は確か、コーネリア様と同じ漫画の『リリアーナ』とか言ったっけ。『な』で始まるキャラクター……と虚空を見つめるうちに予鈴が鳴った。

 葵が「もうか。2組帰んなきゃ」と席を立つ。私は彼女を見送ってから、件の原稿作業のためにA4の用紙を取り出した。


     *


 いつから漫画を読んでいて、自分でも描き始めたのか正確には覚えていない。こうやって描いていることの目的が何で、自分が何を楽しんでいるのかも、正直よく分からない。

 鉛筆の先が原稿用紙に描く線はイマイチ的を射ない。一発で狙った線が描けたらどんなにいいのにって思うけど、それができるのは多分、プロに近い絵師様だけなんじゃないだろうか。

 時には消しゴムに持ち替えながら左手を往復させて、ちょっとずつ自分の描きたい顔に近づけていく。このキャラクターは完璧なイケメンじゃないけど、誠実な性格が伝わるように気合い入れなきゃ。この輪郭は違う。この鼻筋も微妙に違う。今度は目のラインがちょっとずれた。

 そうやって試行錯誤をしていると、突然びっくりするほど線がぴっしりキマる瞬間がある。意識せずとも唇が勝手ににやつく。やだかっこいい。

 私は数回その下書きを撫でて満足の息を吐きながら、名残惜しく次のコマに取りかかった。


     *


 漫画研究部の文化祭では、中庭に集客用の等身大直筆イラストパネルを二体設置する。これは代々部長と副部長が描くことになっていて、今私たちは部員のひしめく教室を離れ、廊下でその作業に取りかかっている。大きい絵っていうのはそれだけで描くのが大変だ。普通のコピー用紙に描いた女の子をシャーペンで模造紙に写しながら、私はぽつりと呟いた。

「文化祭終わったら私らも引退か」

「そだね~」

 葵が鉛筆での下書き作業を終えて、ペンケースから油性マジックを取り出した。遠目からも見るでかい絵だから、主線もぶっとく描かなければならないのだ。私も早く追いつかなきゃ。意気込んでシャーペンを握り直す私に、葵が軽く話しかけてきた。

「引退したらどうすんの。なんか自分で描いたり?」

「うーん。塾行かなきゃだしね」

「塾?」

「うん。そろそろ受験勉強しないとだから」

 視界の端に映っていた葵の左手がぴたりと止まる。数秒そのままだったから怪訝に思って顔を上げると、私を見つめていた彼女とばっちり目が合った。

「美大、行かんの」

「え。行かんよ」

 この世の終わりみたいな顔をしているが、こっちからしたら逆に行くと思われてたのが驚きだ。私は目線を模造紙に戻して、シャーペンを動かしながら笑った。

「何ショック受けてんの」

「ショック……ショック。ていうか。私はてっきり……」

 葵の声はふわふわと響いて捉えどころがない。その後に続いた謎の沈黙に、教室にいる部員たちの明るい喋り声が姦しく覆いかぶさった。

 模造紙の上を往復するシャーペンが空回るみたいで、謎だ。私は喉の詰まるような感覚を誤魔化すように声を上げた。

「描くの自体はやめないよ。だけど趣味で十分かなって……ほら、仕事にすると嫌いになっちゃうってよう言うじゃん」

 なんだか、少し早口になった。あらぬ方向に引いてしまった薄い線を消しゴムで丁寧に擦る。9割方消えた後もしばらく。

「……長めの漫画は、とりあえず今描いてるので最後にしようかな」

 答えは返ってこなかった。


     *


 インク壺にペンを浸して、瓶の縁で丁寧に扱く。最初は全然上手くいかなかったインク調整が難なくできる今が嬉しくて、なんかプロっぽくていつも高揚する。

 原稿用紙にペン先を下ろすのにもコツがいる。油断するとインクが垂れて悲惨なことになってしまうのだ。けど、もう大丈夫。何度も何度も繰り返してきたから。

 幾重にも重なった鉛筆の線から、これ! っていう一番いい線を選び取って、それをなぞる。息を吸って、止めて、線が描けたら吐いて。それを繰り返していたら乾いてしまった唇を、小さく舐めて湿らせた。

 吸って、止めて、吐いて。

 白い原稿用紙を私が染めていく。紙の上の宝物が、少しずつ少しずつ形を為していく。

 吸って、止めて……吐いて。

 いつの間にか日が沈んでいた。電気を点ける暇すら惜しい。


     *


 文化祭当日。我らが漫研の展示は例年通り大盛況だ。渾身の漫画を載せた部誌もとっくに捌けてしまった。展示教室の後ろ側に詰めた私含めた部員一同は、ひっきりなしに出入りしていくお客さんたちの姿をパーテーションの隙間から見守っていた。

 教室内のイラスト展示は部員ごとに陣地が分けられている。描いてる側としては否応なく自分のスペースが気になってしまうわけで。会話の輪から少し外れた私も、お客さんが絵を指さしながら笑顔で会話する様を思わずこっそり覗ってしまう。

「ねぇ!」

 急に私に向かってでかい声がかかってびっくりした。何かと思えば今まで他の部員とお喋りしていた葵である。彼女はペンだこのできた左手で、私の背中をばしばしと叩いてきた。

「彩華の絵めっちゃ褒められてんじゃん。去年よりすごいんじゃない?」

 葵は我がことのように頬を紅潮させつつ激しく揺さぶってくる。私は満更でもないながら、表面的には胡乱に手を払う仕草をした。

「ちょっと。今忙しい」

「リクエストめっちゃ来てるもんね! さすが~」

「分かってるならやめてくれ~」

 リクエストというのは、お客さんが部員を指名して生イラストを依頼できる漫研あるあるシステムのことである。勿論無料。葵にもかなり来ていたはずだが、ちゃんと捌けるのだろうかこの子は。

「立て看も超人集まってるし」

 彼女の声につられて見下ろした中庭では、他校の制服集団が私たちの看板を中心に輪を作っていた。

 いやあれ葵のも見てるじゃんと口答えをしようとした時、肩にかかった葵の手がきゅ、と緊張した感触がした。中庭に向いた彼女の瞳が教室の蛍光灯を反射して、僅かに煌めく。

「すごいなあ。彩華ってマジですごい」

「……そんなことないよ」

 目を逸らし、頬杖を突く右手で口元を覆い隠した。もう片手でスマホを操作し、リクエストの人気キャラを画像検索する。本当はもう、何も見なくても描けるけど。

「ほんとマジ……すっごい、すげえなあ」

 長めの前髪をかき上げるのは、自分の本心を晒す時の葵がよくやる癖だ。私の展示を眺める彼女の目に、感嘆以外の何かが見て取れるのは気のせいだろうか。

 そんなことないよと誤魔化すのは簡単だったけど、なんだか今は憚られた。


 この日をもって、私たちは漫画研究部を引退した。


     *


 スクリーントーンを貼る作業を経ると、画面が格段にプロっぽくなる。ここまで来たら作業も大詰めだ。

 薄いトーンを切る作業はとても繊細だ。普通に原稿用紙に乗っけてカッターでなぞるわけだから、少し力加減を間違えたら下の絵を傷つけてしまう。この調整が全然苦じゃなくなったのは本当にごく最近の話だ。最初のうちはよく原稿用紙を貫通して、机を傷つけたりもしてしまっていた。確か中学二年生の時か。

 あの時から、彩華は絵も漫画も私よりずっと上手で、プロっぽかった。プロっぽくするやり方は、全部彩華が教えてくれた。一緒に画材屋さんに行って、なけなしのお小遣いで道具を買うのを手伝ってくれた。インクとペンの扱い方も──この、トーンの切り方だって。

 デザインカッターを強く握り締める。つるつるの表面に、すう、と滑らかに傷をつけた。

 ずっと、彩華は私の前を歩いてくれるのだと思っていた。あんなにすごい彩華は私なんかと違って、望んだ道を進めるのだと信じていた。漫画みたいなサクセスストーリーを歩み、叶えてくれるのだと盲信していた。

 私が自分の底に押し込めた、他ならぬ私自身の夢を。

「────」

 呼吸を止める。トーンの不要な部分をカッターの先で引っ掻いて、丁寧に丁寧に剥がしていく。出来上がったラストのページは色はなくとも鮮やかに、カーテン越しの朝日を反射した。

 ううん、と大きく伸びをする。

「できた……」

 今日は久しぶりの登校日。私たちの卒業式だ。


     *


 卒業式日和、快晴。

 式でもクラスでもあんまり泣かなかった上、ファミレスやカラオケの誘いをすべて断った私は皆んなの目にはどう映っただろうか。そんなことをぼうっと考えながら一人訪れたのは、相変わらず明るい西向きの2年1組教室である。

 蛍光灯は煌々と輝いているわりに、教室内に人間がいる気配は全然ない。誰かが普通に電気を消し忘れたようだ。

 開けっぱなしの窓から入る風はまだ冷たい。翻ったカーテンが邪魔くさくて、とっ捕まえて窓の脇にまとめた。かつて昼休みを過ごしていた窓際の座席に座ってみる。外をぼんやりと眺めていると、廊下から静かな足音が聞こえた。それが教室の近くで止まったから、滲む予感を押し殺すようにゆっくりゆっくり振り向いた。そこにいた人物の名前を呼ぶ。

「葵……」

 廊下の彼女は照れくさそうに、相変わらず長い前髪をかき上げた。

「彩華」

「いつぶりよ」

「さあ」

 部活を引退してから、彼女とは驚くほど会っていなかった。お互いに連絡も取ろうとしていなかったし、その状況にあまり疑問も抱いていなかった。今だって、別に何か約束していたわけではない。

「ちょっとさ。見てほしいものがあって」

 葵が荷物でいっぱいの鞄に手を突っ込みながら教室に踏み入ってくる。私の席の前にたどり着くと同時、彼女が取り出したのはA4サイズが入りそうな分厚い茶封筒だ。目の前に差し出されたからぼんやり受け取り怪訝に見上げると、葵の悪戯っぽい笑顔が陽光に照らされた。

「私さ。マンガ描いたんだ」

 息を呑み、思わず彼女と茶封筒の間で視線を往復させる。無機質なクラフト紙の触感が急に指を捕まえるような気がした。唇の端を震わせながら、私はその厚みを確かめる。

「……こんなに?」

「うん。36ページ」

「すっご……私、こんな長いの描けないよ」

 語尾が震えてしまった気がする。今の自分が自然に笑えたか分からない。へへ、と照れくさそうにはにかんだ葵を無言で窺うと、彼女は黙って頷いた。許可を得た私は茶封筒を丁寧に開けて、36枚の原稿用紙を引っ張り出す。トーンも綺麗に貼られたそれを、一枚一枚ゆっくりと捲り始めた。

 丁寧な線から、陰影から。彼女の息づかいが聞こえるようだ。昼休みに好きなキャラクターを描いていた指先が。模造紙に滑らせていたマジックペンが。文化祭でお客さんの集まっていた彼女のスペースが。ひとつひとつが鮮明に思い出せる。

 最後のページの端を撫でる。溜息を吐いたところで、葵が静かに口を開いた。

「それ、あげてもいい?」

「……え?」

「……やっぱ重かった?」

 葵はぎこちなく、合わせた両手の指をもぞもぞとすりあわせた。けど、私の感嘆詞は決してドン引きを意味するものじゃない。

「これ、原本でしょ。いいの……?」

 この量の原稿をこんなに丁寧に仕上げる大変さは、とてもよく分かっている。時間だけの問題じゃない、この大作が彼女にとってこの上なく特別なものであることは想像に容易い。

 最後の完璧なページを持つ指に力を込める私に、彼女は照れくさそうに前髪を触った。

「いいよ」

 溢れる言葉とか、言葉にならない感情は山とあったけれど、私は「ありがと」と、それだけ絞り出した。葵はゆっくり目尻を緩ませて、ようやくいつものように軽く笑った。

「大事にとっといてよ。今に価値、上がるからさ」

 その言葉に、私は原稿を封筒にしまう手をぴたりと止める。

「美大、行くの」

「ううん、専門。私が目指すの漫画家だし」

「……漫画家、なるんだ」

「うん」

 葵がわずかに胸を張った。そよ風が彼女のまっすぐな髪を揺らす。

「……うん。なるよ」

「……そっか」

 葵の瞳に映る私の表情は、きっと昨年度の文化祭の彼女のそれによく似ていたことだろう。私は一瞬下を向いて、原稿をしまうのに必死なふりをして、目をしぱしぱと瞬いてからもう一度顔を上げた。

「卒アルかきっこしようや」

「賛成」

 ぱっと笑った葵が私の前の席を引く。いつかの昼休み、ずっとしていたように一つの机で向き合って、プリントじゃなくて卒アルを取り出した。数ページにわたる寄せ書きページの、全く白紙の見開きを開く。葵のアルバムも同じようなもので、二人考えることが一緒すぎて笑ってしまった。寄せ書き用の油性ペンを開けて、躊躇なく彼女のアルバムに果物を描き込む。葵が首を傾げた。

「……リンゴ?」

「梨」

「黒ペンじゃわかんねー」

 明るすぎると感じた蛍光灯は、私たちの手元に影を作ることなく照らしてくれる。私の見開きページのほんの片隅を彼女の筆致が埋めていく。言葉を交えながら数回やりとりが続いたところで、葵が半笑いで言った。

「……今更だけど、これって口で答え言っちゃだめなやつじゃないの?」

「たしかに」

 私も今更の呆れ混じりに答える。手元のペンは葵の『トイレの花子』を受けて、『小銭』を描いた。

 こんな、絵しりとりの片側の答えだけ描かれた寄せ書きページ、意味分かんなくて両親には見せられない。将来の私ですら、このアルバムを見返したら後悔するかもしれない。このやり取りとかノリ自体、恥ずかしくて恥ずかしくてしょうがなくなっちゃうのかも。

 ──だけど。

 何かに追い立てられるようにペンを進める。なんでもないのを装って、乾いた喉と唇を動かす。

「私もなんかキャラ描きたいんだけどさ、思い浮かばないや」

「いいよ、今作った名前のオリジナルキャラとかでも」

「ルール無用すぎでしょ」

 小さく笑いながら、葵のアルバムに閉じ込める。彼女が抱いてくれていた、ささやかな憧れも。彼女に感じた些細な罪悪感も。好きなものを好きだと言える、彼女に対する羨望や……ちりちりと今も燻る僅かな嫉妬心も。

 互いのページが埋まっていく。残りスペースが狭くなるごとに、私たちの絵は細かく、小さくなっていく。式では出なかった涙が喉の奥にこみ上げてきて、う、と強く唾を飲み込んだ。

 口数が少なになっていく。張り詰めた沈黙を阻害するものは何もない。響くのは時折通り抜ける爽やかな風音と、耳に馴染むペン先の摩擦音だけ。

 残された僅かなスペースに私がうろ覚えの『コーネリア様』を描いた頃には、葵の手元のページも真っ黒になっていた。彼女は煌めくものの滲んだ瞳を窓に向けている。外はもう随分薄暗くなっていた。

「……帰んなきゃね」

「うん」

 どちらからともなく、緩慢に卒業アルバムを仕舞った。二人一緒に席を立つ。できるだけゆっくりスクバを担いで、できるだけゆっくり出口に向かう。

 ドア際のスイッチに指をやって、蛍光灯に照らされた教室内をもう一度見回す。葵も手を伸ばして、黒板灯のスイッチに指先を置いた。

 示し合わせたようにスイッチを押す。灯りが消えた。

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