第08話 事務棟の渡り廊下
姉の通っていた大学には、霊が現れるとウワサされる場所があった。有名ではないがそこそこ歴史のある大学で、その敷地内には古い学舎やさびしげな雑木林もあったが、そこではない。
噂の場所は事務棟だった。
事務棟と言えば、諸連絡――休講情報だとか課題内容だとかを通知する大きな掲示板があり、多くの学校関係者が集まる場所だ。カウンターでは各種届け出や学割の申請をしにきた学生たちが列をなしている。時にはにぎわいの声が、時には深刻そうなうなり声が、壁一面に張られたアクリル掲示板に反響する。
大学構内の比較的新しい建物で、外観はシックなレンガ張り。中は掃除が行き届いていて、つねに清潔。いかにも霊が現れる余地はないように思われる。
問題の場所は、その二階、教室棟とつながる渡り廊下であった。廊下天井の一部に張られた黒いパネルに霊が映るというのだ。
パネルは、「鏡のように」とまでは言わなくても、見上げた者の瞳の輝きすらとらえるほどに映りがよかった。絨毯の網目、ソファ、観葉植物といろいろなものが映りこむのだ――ほかにも見知らぬものの存在とか。
ある女子学生の話。
夕刻過ぎ、空は暗さを増し、学生たちはその大部分が学舎を離れた頃合いだった。彼女は事務棟で明日の連絡事項を確かめ、教室棟から総合棟へと渡って、遅くまで営業している学生生協で夕食のパンでも買おうと考えていた。
渡り廊下に差し掛かる。誰の姿もなく、静かだった。モスグリーンの絨毯の敷かれた清潔な空間。冷房がきき過ぎているのかやけに涼しかった。視線を感じて、ふと見上げた。黒色のパネルに自分の姿が映っていた。よく手入れされた長い髪、胸を強調したセーター。彼女はナルシストっぽく髪をかき上げた。その時だった。彼女の背後にいる痩せた男の姿を見たのは。
「誰!」
金属的な悲鳴が喉をほとばしり出た。背後を振り向いても、そこには誰の姿もなかった。彼女は身を震わせ、右を左を見やるのだが、そこには誰の姿もない。視線がパネルのほうを向く。彼女の視線はとらえた――パネルの中で笑う男の姿を。
ほかにも二、三の目撃談があり、うちの姉はそこを通るのが(明るいうちはいいけれど)なかなかに緊張したという。
ある日の夕方、姉は沖縄出身の友人とそこを通った。
「――なんか線香くさくない?」
「そんなニオい全然しないよ? もう、コワがらせようとして」
姉は言った。
「なにが?」
友人はきょとんとした。
姉は悟った。友人は知らないはずだ。なにせ二年時に編入してきたばかりで、学内のうわさ話など知る段階になかったのである。
姉は後ろを振り返る。とうにその前を通り過ぎた、天井の黒いパネルを見上げる。目を見張った。唾を飲み込んだ。幸いにも、姉はその中に二人の姿以外は何も見ることがなかった。
ただ、思うのだ。なぜ友人はそこに「死」を連想するような「線香」の匂いをかぎ取ったのだろうかと。間違いなくあそこには――なにかは分からないけれど――なにかがある。そう確信している。
第08話 渡り廊下の天井……終わり。
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