第10話 初めての夜

 ふと目を覚ますと、数瞬、知らない天井にここが何処だかわからない戸惑いを覚え、後になってこの和室で月読さんのお茶をご馳走になった記憶が蘇る。


 久しぶりに自然に寝た。眠気なんてここ数年感じたことなどなくて、睡眠薬がないと眠れなかったのに。


 腕時計を見ると午後8時23分。月読さんは何処にいるのだろう。


 ふすまを開けて和室を出る。すると、左手奥の方から月読さんの高笑いが聞こえてきた。

 声のする方へ行ってみると、そこは白と黒を基調としたお洒落なリビングだった。月読さんがソファーに腰かけてテレビを見ている。


「かっかっかっか! また1を出しおったわ!」


 テレビは旅番組をやっているようで、どうやらサイコロの出目によって進める距離が変わる企画のようだ。


「お? 起きたのか。調子はどうだ?」

「うん。凄いスッキリした。榊原さん達は?」

「おお、帰ったぞ。冷蔵庫に寿司が入っておるから食べるといい」


 そっか。晩御飯食べて帰ったのかな。お腹空いてる。これも何年振りだろう。食欲が湧くなんて。


 リビングダイニングのレイアウトは、ちょっと探せばすぐに冷蔵庫が見つかる空間配置だった。アイランド型キッチンがあたしにプレッシャーをかける。こんなの使いこなせない。


 冷蔵庫の寿司は、明らかに寿司屋に出前を取ったであろう漆塗りの寿司桶に、特上と思われるネタが程よい間隔で敷き詰められていた。


 まずい。ウニとエビがある。あたしはウニとエビは食べられないのだ。

 小皿に醤油を注ぎ、割り箸と寿司桶をリビングに持って行く。


「月読さん、ウニとエビ食べない?」

「なんだ。嫌いなのか?」

「うん」


 月読さんはスッと手づかみで、あっという間に食べてしまった。ハムスターのような頬っぺたでモリモリと咀嚼する様が可愛い。


 あたしはテーブルに寿司桶を置いて月読さんの隣に座り、タマゴから食べ始めた。


「テレビというのは暇つぶしには持って来いだな。そうだ。煌、この電車というものに乗れば京都まで1日で行けるというのは本当か?」

「うん。1日も掛かんないよ。3時間ぐらいで行けるんじゃない?」

「3時間とはどれくらいだ?」

「あたしがさっき寝てたぐらいの時間」

「昼寝の間に着くのか⁉︎ しかも座ったままでか⁉︎」

「すごいでしょ? 新幹線。京都行きたいの?」

「行きたいぞ! 神通力を取り戻すのだ」


 月読さんの話によれば、京都の月読神社に神通力を預けてあるのだとか。銀行みたいに預け入れと引き出しができるようで、かなりの量の神通力を預けてあるらしい。


「じゃあもうすぐ連休だから……いつがいいかな。8月10日と11日で泊まりで行こうよ。観光もしたいし。宿予約しなくちゃ」


 あたしは右手で寿司を食い、左手でスマホを操作する。それを見ていた月読さんが呟く。


「スマホとは便利なものだな。それで今この場所から京都の宿に泊まる約束ができるのか?」

「そうだよー。楽天トラベルっていうサイトがあって、インターネットで予約できるの」

「それは最早神通力だな。現代の人々は遠く離れた人間と意思疎通ができるようになった訳だ」

「あはは。たしかに」


 連休の京都の宿は素泊まりプランしか空きがなく、月読さんを唸らせるような料理が出てきそうな高級な宿はどこも空いていなかった。

 久しぶりの遠出なのだから豪遊したかったが、食事は宿の外でとることにしよう。


 専門学校を卒業してからは仕事仕事でプライベートなんてバイクに乗るぐらいしか楽しみはなかった。

 そんなあたしが男の人と2人で旅行なんて、まるで夢みたいだ。


 宿の予約を取り終えたところで、スマホの画面に着信を知らせる名前が表示される。


 野崎慎二――専門学校の時の同級生で、バイク仲間だ。彼と他にも数名は卒業してからも交流があり、よくツーリングに出かける仲だった。


「もしもーし」

「あーもしもし? 久しぶり。今大丈夫?」

「おひさー。大丈夫だよー。連休のお誘い?」

「ああ、ツーリング行こうと思って。伊豆とかどう?」

「伊豆スカイライン! 行きてー!」

「オーケー。藤宮と山崎は連絡とれて、12日なら大丈夫らしいんだけど、空いてる?」

「12日了解。佐沼は?」

「あいつ電話出ねーんだよ。LINEしといた。ってかお前もいい加減LINEやれよ」

「あはは。やだよ、個人情報の管理が甘いアプリなんて使わねーよ」


 野崎、藤宮、山崎、佐沼とは気心が知れた仲で、何度も一緒にツーリングに行っている。全員男だ。特に専門学校の夏休み、2年連続で北海道一周ツーリングに出かけたのは、いい思い出だ。


 2年目の夏、佐沼はあたしに告白した。秒でフッた。だって全然好みじゃないんだもん。おまけに頭が悪い。奴は専門学校の2年間で4台のバイクを廃車にした。全部自爆事故だ。不幸中の幸いで本人は無傷だから余計にタチが悪く、全く反省していないのだ。そういうところが嫌い。


 野崎は佐沼の頭が悪いところが好きで、あたしにフラれた奴を慰めて未だにツーリング仲間として「友達」の関係を続けさせている。野崎曰く「ああいう頭の悪い奴は1人ぐらい友達にしといた方がいい」のだそうだ。


「は⁉︎ 引っ越したの⁉︎」

「あー、なんかねー、いま男の人と一緒にいる。でへへ」

「ふぁ⁉︎ へ⁉︎ なんでそうなったん⁉︎」

「詳しくは12日に話すよ」

「え? 何お前? とうとう処女卒業すんの?」

「は⁉︎ この人は……いや人じゃないのか。あたしはお子ちゃまだからそういうのはまだ早いの!」

「いやもう22なんだから早くしろよ。魔法少女になっちゃうぞ?」

「いいもん。魔法少女になって変身するんだもん。それでさ、12日あたし2人乗りで参加していい?」

「わかった。その男紹介しろよ。あのアパートの北のマンション?」

「そう。北側に小さい十字路あったじゃん?」

「ああ」

「その角にデカいマンションあるから、そこの地下駐車場入ってよ」

「わかった。みんなにも伝えとく」

「よろしくー」

「おお、そんじゃなー」


 通話を終えると、月読さんがジッとあたしを見ていた。若干目が半開きで、ジト目である。そしてボソリと一言。


「男か」


「あ、うん。ツーリングのお誘いだった。月読さん一緒に――むぐっ!」


 それはあっという間の出来事だった。肩と後頭部を両手で支えられ、身動きができなくなったところへ月読さんの顔が一気にあたしの目の前に。

 唇を奪われると、こうも体が動かなくなるのだということを初めて知った。

 月読さんの唇は柔らかくて、がっしりと掴んだ両手からは男の力が溢れんばかりに伝わってきた。

 あたしはそっと目を閉じた。月読さんの息遣いは落ち着いていて、呼吸を忘れていたあたしはゆっくりと月読さんのリズムに合わせた。


 何分経っただろう。テレビからは出演者の笑い声が聞こえてくる。月読さんはあたしの全身の力が抜けたところで解放してくれた。


「煌。他の男など目もくれるな。私だけ見ていろ」

「……はい」


 そっと指で唇に触れる。ファーストキスは神様と。


 月読さんはいつの間にかあたしのタバコを持っていて、ライターの使い方も現代人そのものの所作で一服した。

 あたしは何故こんなに大胆になってしまったのだろう。月読さんの隣に密着した。すると、月読さんはもう一本取り出して火を点けてくれた。


 甘い香りがリビングに漂う。ちょうどバラエティ番組が終わり、首都圏のニュースが始まった。


「こんばんは。夜のニュースをお伝えします。昨夜起きた地震で、日光東照宮の三具足みつぐそくの内、鶴の足が折れて倒れるという事故がありました」


 ニュースキャスターが語る画面から、現場のVTRに切り替わる。

 VTRは亀の甲羅を映しており、あたしが見たはずの四角い穴が開いている亀ではなかった。亀の甲羅には鶴の足がくっついており、足はまるで自然に折れたような、砕けた跡を残している。

 あたしが見たのと違う。あの足はもっと鋭利なもので切られたような跡だった。


「地震は日光を震源とする直下型で、専門家によれば経年劣化で折れたのだろうと推測されています。この鶴と亀は新しく作り直され、近日中に置き換えられるとのことです。


 次のニュースです。アマチュア小説家が、自身の小説が全く読まれないという苦悩から、地元図書館で拡声器を使って自身の小説を朗読するという迷惑行為を――」


 あたしはテレビを消した。


 右肩に月読さんの温もりを感じる。


 月読さんの方を向いたら、月読さんもあたしを見てた。生まれて初めて経験する2人の沈黙。月読さんは目を逸らさずにあたしに接近した。


 リビングに落とされたあたし達の影は、ゆっくりと近づき、やがて一つの闇となった。


 タバコの灰が床に落ちる。チリっとした痛みで火種が指のすぐ側まで来ていることに気付く。


「あつっ!」

「む? 大丈夫か? 見せてみろ」

「ごめん、大丈夫。ちょっと熱かっただけ」


 真夏の夜遊びは、ちょっぴり甘くて、火傷しそうな熱さだった。

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