エイチと暮らして三か月がたった。

 毎日、エイチの淹れてくれた珈琲を飲みながら原稿に向かう。

 現代の文章作成といえばキーボード入力や音声入力が主流だが、ぼくはいまだに原稿用紙にHBの鉛筆で小説を書いている。原稿用紙のマス目を埋めるのが好きなのだ。

 硬く尖った芯が紙をひっかくがりがりとした感触も好きだし、黒鉛のにおいも好きだった。ちなみに先の丸くなった鉛筆を肥後守ひごのかみで削るのも楽しみのひとつだ。

「夕食ハサバノ南蛮漬ケ、豆腐ト葱ノ味噌汁、大根ノ漬物、胚芽ゴ飯、ホウレン草ノ胡麻和エ、デ、ヨロシュウゴザイマスカ」

「うん。任せるよ」

 食事は今やすべてエイチの手作りだった。ぼくの体に必要な栄養、カロリー、そして予算をすべて計算して美味しい食事を作ってくれる。

 渡したレシピ本はすでに作り尽くしており、さらにメニューをダウンロードしてぼくの知らない料理まで出してくれるようになった。食べるという行為は特別で、ぼくの宇宙船での生活はいっきに豊かになったのだった。

「同ジ栄養デモ、カプセルト料理デハ人体ヘノ効能ガ違イマスネ。マタ、味付ケヤ、見タ目ノ美シサ、手作リデアルカドウカ、季節ヤイベントトノ関リモ味覚ニ大キク影響シテイテ、トテモ興味深イデス」

「人は感情に左右されるからね」

 言いながら、升目の埋まった原稿用紙をそろえて、伸びをした。

 とある文芸誌の週間連載である。一話千六百字程度の話をもう何年も続けている。

 今請けている唯一の生業なりわいだった。ほかの依頼はいつの間にかこなくなり、この連載小説一本だけでなんとか糊口ここうを凌いでいた。

「珈琲ノ、オカワリハイカガデショウカ」

 ぼくはカップをソーサーに置いて、エイチを見つめた。

「……高崎教授がアンドロイドでなく君をそばに置いた理由がわかるよ。君の抑揚のない声は、確かに癒される」

 人の言葉をしゃべりながらも人間味が一切感じられない。人型でありながら決して人間に見えない。それがいいのだ。

「デスガ、ワタシノ姿ハ無機物ソノモノデ美シサモ可愛ラシサモナク、犬ヤ猫ノヨウニ触リ心地モヨクアリマセン」

 ぼくは笑った。人間の一般的な嗜好を、ほんとうによくわかっている。

「それは欠点ではないよ。むしろその無機質な見た目にも、ぼくは癒されているんだ。柔らかくなくてもいっこうにかまわないんだよ」

 エイチはプライヤーレンチの手で器用にポットを傾け、カップに珈琲を注いだ。白い湯気とともに芳ばしい香りが部屋中に広がった。ぼくはほうっと溜息をつく。

「君は本当に完璧だ。足りないものなどないよ。ないものを見つけろだなんて……高崎教授はぼくに意地悪を言ったのだな」

「高崎教授ハ、自然界ガ生ンダモノコソガ、完璧ナノダトオッシャイマシタ」

「そうかな。生物はいびつだ。ぼくは左右の足の大きさが一センチも違うんだよ。いつもサイズ違いの同じ靴を二足も買わなけりゃならない」

「我々人型ロボットハ、人ヲ模シ、人ノ代ワリヲツトメルヨウニ造ラレマシタ。ヨッテ人型ロボットニトッテノ完璧サハ、形状ヤ能力ニオケル完璧サデハナク、ガ求メラレルノデス」

 ゴーグル内の発光ダイオードを点滅させながら、エイチは続けた。

「アンドロイド技術ニ関シテハ、今ヤ見タ目オヨビ質感ハホボ人間ト変ワラナイホドニ向上シマシタ。人工知能モ人間ト同ジ学習構造ヲ持ッテイマス。デスガ、人工知能ニハ決シテ得ルコトガデキナイ領域ガアルノデス」

「それはなんだね」

 ぼくは熱い珈琲を一口含んだ。

「感情ヲ持ツコト、想像スルコト、人トカカワルコトデ生マレル経験ヲ得ルコト、デス。ソシテ、モウヒトツハ、学習過程ニヨリ学ブ付加価値デス。人工知能ワレワレハ最短デ目標ゴールニタドリ着ケルヨウニ学習ヲ繰リ返シマス。次回、同ジ内容ノ課題ガ出タトキハ、人間ヨリ優レタ回答ヲ出スデショウ。シカシ人間ハ、学習ノ過程デ得タ、ツマヅキ、挫折、忍耐、他人ヘノ感謝ナド、人工知能ガ得ルコトガデキナイ複数ノ経験ヲ同時ニ得ルコトガデキルノデス。コレラハ人工知能ハ持ツコトガデキマセン」

 エイチは一定の声音で淡々と続ける。

「ソシテ人工知能ト人間ノ決定的ナ違イハ、ガアルトイウコトデス。遺伝子ノ中ニ組ミ込マレタ情報ハ、何千年ニモワタリサマザマナ環境ノ中デ生キ残ルタメニ受ケ継ガレテキタモノデス。時ニハ感情的ニ動イタリ、第六感ノヨウニ身ヲ守ッタリ、人間自身モコントロールデキマセン。コレモマタ、ロボットハ得ルコトハデキマセン」

「そんなものに何の価値があるっていうんだ」

「価値の有無デハナク、人型ロボットノ目的ノヒトツニトイウ項目ガアルカギリ、コノ越エラレナイ壁ハ、我々ノ足リナイモノデアルノデス」

 なるほど、とぼくは顎をこすった。

「でもそれは、ぼくにはどうにもできないことだ。ぼくはロボットの技術者じゃないし……」

 ぼくはエイチのゴーグルをじっと見つめた。

「高崎教授が何と言おうと、ぼくにとって君は完璧だ。足りないものなどない。君と話すとほんとうに楽しいし、穏やかな気持ちになれる。ごはんもおいしいし、おかげでぼくの生活は本当に豊かになったんだ。……君にお礼をしたいけど――どうしたらいいのだろうね? ロボットは何かを求めたりはしないし、そもそも喜びの感情もないのだろうしな。残念でならないよ」

 ロボットは人間のために存在するものであるがゆえに、ロボット自身が主体となることは決してない。

(――そうだ。ロボットはあるじである人間がいなければ、存在する意味がないのだ)

 その時、ふと閃くように気づいた。

 ぼくはコーヒーカップをテーブルに置いた。跳ねた飛沫が原稿の端を点々と汚す。

「エイチ、高崎教授は今どうしているんだ?」

「オ亡クナリニナリマシタ」

 やはり――ぼくは息を飲む。

 エイチには、あるじだったのだ。

「では高崎教授が手紙で言っていたというのは、ぼくに、君の新しい主人になってくれということか?」

「ソウデス」

「……高崎教授はいつ亡くなったんだね」

「ワタシガコノ宇宙船ヲ訪レル直前デス」

 エイチに窃視モニター機能をつけないわけだ。本人はもういないのだから。

 ぼくは大きく息を吐くと、イスに深くもたれた。

「君の新しい主になら、もうとっくになっているじゃないか。高崎教授の最後の頼みを、ぼくはすでにかなえていたということだな」

「エエ。デモ、アナタモイズレハ、オ亡クナリニナルデショウ? ソウナレバ、ワタシハマタアルジヲ失ウコトニナリマス」

 エイチの声が寂し気に聞こえたのは――自分がそう思いたいからだ。

 高崎教授も、エイチに自分の気持ちを投影して情をかけたのだろう。彼を、あるじを失った、ただの金属の塊にしたくないと。そしてぼくを新しい主人に選び、エイチを送りつけてきたのだ。

「ぼくが死ぬ前に次の持ち主を見つけてあげるよ。君のように優れたロボットなら、いくらでも引き取り手があるはずだ」

「ソレハ難シイト思ワレマス。現在、地球上ノ人間ハホボ死ニ絶エテシマイマシタカラ」

 淡々と告げたエイチの言葉に、ぼくは凍りついた。

「……なんだって?」

「第六次世界大戦ガ勃発シ、アナタノヨウニ地球外デ暮ラシテイタ人間以外ハ、ホボオ亡クナリニナリマシタ」

 嘘だ――動揺で声が掠れた。

「ワタシハ嘘ヲツキマセン」

「……核兵器か?」

「イイエ。生物兵器――致死性ウイルスデス」

 打てば響く速さで答えるエイチに、衝撃を受けた僕の意識はまったくついていけなかった。

「……なぜ戦争なんて起きたんだ……」

 愕然と呟く僕に、エイチは明確丁寧に説明してくれた。

 起因は、日本の新エネルギー開発だったという。

 日本は資源が乏しく輸入に頼らねば運営できない国だったが、今までにない画期的な方法で、再生可能エネルギーを効率的かつ無限に得る方法を見つけることに成功したのだ。そして、それを独占した。

「ソノ新エネルギーハ、実ハ半世紀以上前ニ発見サレテイマシタガ、政府はズット隠シテイマシタ。新エネルギーシステムノ利用ト普及ノ準備ガ整イ、鎖国政策デ一時イチジ混乱シタ社会ガ安定シタトコロデヨウヤク公開シ、スグサマ旧エネルギーシステムトノ切リ替エガナサレシタ」

 政府は、各国が新エネルギー技術を狙ってくることを見越し、鎖国をしていた三十年の間に周到に軍拡を進めていた。新エネルギーを動力源としたロボット兵士や兵器を、ロボットに大量に造らせ、世界に挑んだのだ。

「デスガ、勝利シタノハ、ロボットデナク生物兵器デシタ。ソシテ日本ニ放タレタ致死性ウイルスハ、地球規模ノパンデミックヲ引キ起コシ、人類ハ瞬ク間ニ死滅イタシマシタ」

「生物兵器はジュネーヴ議定書で禁じられているはずだ。どの国がやらかしたんだ?」

「国際連合ノ機関ニヨル武力行使容認決議デ、正式ニ許可サレタノデス。新エネルギーノ独占ハ許サレナイト。ソレダケ世界各国ハ日本ノ新エネルギーガ欲シカッタノデス。――ソレト、日本ハ海ニ囲マレタ島国デスカラ、ウイルスノ封鎖モ容易デアロウトイウノモ、生物兵器ガ選バレタ理由デス」

「……封鎖できてないじゃないか」

 知らず全身が震えていた。なんということだろう。

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