第2話 這いつくばる子供


 電車でさえないかもしれない。確かパンタグラフはなかったような。


 僕は何線に乗ったのだろう。階段を八番ホームに下っていたはずだ。もしかして酔って駅自体を間違えてしまったのか。


 あれ? 駅の名前はなんだった?


 今さっきまで口に出していたはず。これはど忘れってもんじゃない。


 だめだ。全然思い出せない。どこの駅から乗ってどこの駅に向かうんだっけ。


 いや、待て。僕はパニクっているんだ。落ち着け。こういうのは順序立てて思い出せばいい。


 今日の朝、僕は会社に出勤した。


 会社? 会社名が思い出せない。僕は何の仕事をしてた?


 駄目だ。分からない。思い出せない。どこで昼飯を食べたのか、どこで飲んだのか、どうやって駅に行ったのか。


 ??? 僕の名前! 


 何て名だ? 僕は俺自身の名を忘れてしまっている。


 やっぱりこれは夢だ。夢以外ない。それも悪夢だ。


 遮断機の警告音だろう、鳴っているのがだんだん近づいて来たかと思うとけたたましい金属音。フラッシュ点灯する警告灯と共に窓の外を横切って行く。


 車内には僕以外誰もいない。


 ……あんなに人が乗っていたはず。


 あ、そうか。分かったぞ。あのトンネルだ。あのトンネルで僕は寝落ちしてしまったんだ。そうなら辻褄が合う。


 また遠くから警告音。けたたましく金属音を鳴らし、近づいて来たかと思うと窓の外にはフラッシュ転倒する赤い警告灯が通り過ぎていく。


 安心しろ。これは夢なんだ。ここにじっとしてればいい。なにもするな。夢なのだから何時か覚める。


 また、遠くで警告音だ。夢とはいえ、ここまですると呆れかえる以外ない。普段の僕はどんなにストレスをかかえてしまっているのか。


 そういや、踏切があるってことは道があるってことだ。


 窓を覗く。周りは湖?で踏み切りだけがあるのみだった。


 地平線まで広がる湖?と雲一つない青い空。そして、踏切。僕はストレスから解放されたいんだろうな。だが、もう一人の自分はそれを許さない。僕の深層心理はそんなところなのだろう。


 あれ、足になんか当たった。いや、誰かが触っている。


 えっ! 子供! 


 ひっ! 反射的に僕はシートの上に立っていた。子供は床に這いつくばっている。


 距離をとったはいいが、真上から見る這いつくばる子供は何とも奇怪なことか。さらに寒気を覚える。


 小学校一年ぐらい? 子供がその態勢のまま、頭を上げた。そして、僕を見上げる。


「探して」


 しゃ、しゃべった! 


「探して」


 これはホラーでよく見かける場面だ。答えるな。答えるな、絶対。


「探して。無くなったの」


 子供が手を差し出した。その手には怪獣の超合金。


 間違いない。これは、メカギオラ!


 ん? まてよ! 自分の名前も分からないのに玩具の名前がなぜ分かった。


 ………メカギオラ。


 不意に口を突いて出て来た。何か俺に関係があるのか、メカギオラという響きに不思議と嫌悪感や恐怖を覚えない。どちらというと懐かしい感じだ。


 子供の『探して』の意味も分かった。メカギオラの右手小指がない。この玩具は胸と背中と手にバネ式で飛ぶミサイルが装備されている。もちろんミサイルはプラスチック製だ。


 手のミサイルは三か所の中で一番小ぶりだった。前腕のレバーを引けば五本指全部が飛ぶ仕掛けだ。おそらくはそのハンドミサイルをこの子供は車内で発射した。


 見つかりっこない。列車は当然揺れている。しかも、何かにぶつかったような先ほどの大きな揺れがもう無いとも限らない。


 子供を抱き上げてボックス席の前に座らせた。僕は“やさしく”を心がけて言った。


「家で遊ぶんだ。分かったな」


 子供はうなずいた。


「良い子だ。箱があるんだろ?」


 子供はシートを飛び降りると走って行って、どこからかメカギオラの箱を持って来た。僕はメカギオラをスチロールの枠に丁寧に押し込み、箱にしまった。


 箱を手渡された子供は上機嫌であった。窓の外を見て、なにやら歌を歌っている。


 どうやら列車は止まるようだ。風景と列車の揺れの感じから減速しているのが分かる。


 子供は歌を止めた。シートから飛び降り、走って行った。僕は窓の外を見る。列車はホームを滑走していた。


 ホームは湖?の中にポカリとあった。周りに道はどこにもなかったし、渡し船のような乗り物はない。こんなところで誰が降りるのか。


 列車が走り出した。窓から頭を出してホームを確認した。狭い場所が人でいっぱいである。いつの間に下車したのか。メカギオラの子供もそこにいた。


 あんなに人がこの列車に乗っていたのか。この車両には僕しかいなかった。どこからともなく子供が一人舞い込んできただけ。


 相変わらず踏切が多い路線だった。不規則にあるはずの遮断機がここでは規則的に訪れる。


 真っ青な空に凪いだ水面。幻想的だ。ずっと見ていたかった。警告音と警告灯を発する遮断機さえなければ心地よい一人旅だ。

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