アンティーク小紋着物
増田朋美
アンティーク小紋着物
その日、杉ちゃんとジョチさんは、沼津にあるショッピングモールに新しい呉服屋がオープンしたということで、見学させてもらうことにした。沼津駅から、バスに乗って、15分くらいのところにある大規模なショッピングモールであるが、意外にも呉服屋がオープンしたのは初めてのことだという。まあ、多分、碌な販売はしないぞと杉ちゃんは笑っていたが、ショッピングモールなるものが呉服屋を導入しなかったところがまずおかしいとジョチさんは言っていた。
呉服屋は、ショッピングモールの最上階の、ほんの端くれの小さな一角にあった。杉ちゃんが予想した通り、販売している着物もいかにも高額そうな着物で、古典柄とはかけ離れた、現代的な着物ばかりで、これでは、伝統がどうのなんてへのカッパと言われてしまいそうなほど、変なものばかり売っていた。店員さんは、着物を着ていないで洋服を着ているし、多分きっと売れればいいだけの精神で、着物への思いなんてものはなんにも無いんだろうなと思われる感じの人ばかりだった。
杉ちゃんとジョチさんが店に入ると、若い女性が客として来訪していて、店員さんの「しつこい」説明を受けていた。着物屋にはよくあることなのであるが、強引に着物を買わされたりとか、着付け教室に来ないかと勧誘させられるとか、そういう事は結構あるのである。それで着物が好きだったのに、着る気をなくすという人は多い。なんで日本の着物屋は、こういう変な販売をするのだろうかと、呆れてしまうほど、着物屋というのは、困った商売なのである。
「おい、お前さんさあ、今、訪問着と付下げは同じものと言ったよな。」
と、杉ちゃんは店員さんに言った。店員さんも若い女性で、本当に着物の事を知っているのだろうかと思われる感じの人であった。
「ええ、言いましたけど。」
店員さんはそう言い返すが、
「あのねえ。訪問着というものは、仕立ててから柄を入れて、衽と前身頃で柄がつながっているもんなの。付下げは、布の段階で染めてそれから仕立てるから、衽と前身頃で柄が切れてるの。全然別のもんなんだよ。」
と、杉ちゃんは笑いながら言った。店員さんは、え?という顔で一瞬ぽかんとしていた。
「はあ、お前さんはそんなことも知らなかったのね。そんなんで呉服屋の店員が勤まるかよ。まあ、もうちょっと、着物を勉強して、出直してきな。」
「そうですか。」
店員さんは、ぶっきらぼうに言った。それと同時に、若い女性の客は、じゃあこれでとそそくさと帰っていった。多分、その客が、着物を着たいと思う日はもう無いだろう。
「ほんじゃあ、僕らも用事をさせてもらうかな。腰紐一本、もらうかな。」
杉ちゃんに言われて、店員さんは、何も言わずに、腰紐を一本出した。でも、なんだか言わなければならないことがあるような様子だった。
「何だよ。腰紐にまで難癖をつけるつもりじゃないだろうね?」
杉ちゃんがそう言うと、女性の店員は、更に困った顔をした。
「まあそうですか。確かに、売上を得なければならないことはわかりますが、少なくとも、あなたは呉服屋の販売員には全く向いていない。それより、もっと着物の事を勉強したいんだったら、また別の分野で着物に関わればいい。そう思って生活してください。」
ジョチさんが優しくそう言うと、彼女は、ついに涙をこぼして、
「申し訳ありません。ただ着物が好きで、着物に関わる仕事をしたかっただけのことで、それでここの求人募集を見て応募しただけなんですが、それは間違いだったようですね。」
と言った。
「間違いというか、そういう選択をすることは一般的に言ったら王道を歩いているように見えるけれど、大事なものは、今の正規の呉服屋では得られないということでもあるんだよな。まあそれがわかっただけでもいいじゃないか。もっと別の形で着物に関われるようになれよ。」
杉ちゃんに言われて彼女はそうですねと言った。
「ちなみに、僕は和裁屋で、名前を影山杉三と言うんだけど、杉ちゃんと言ってくれや。こっちは、親友のジョチさんこと、曾我正輝さん。僕らは、お前さんが着物の事を学びたい気持ちがあるということで力になりたいと思っている。名前を教えてくれるかな?」
と、杉ちゃんが言うと、
「そうだったんですか。じゃあ、和裁技能士の資格を持ってらっしゃるんですね。それなら、着物に詳しい方で当たり前ですよね。ごめんなさい私、本当に着物のことを知らなすぎてました。本当にすみません。私、出直してきます。私の名前は、佐藤亜希子と申します。」
と、彼女、佐藤亜希子さんは言った。
「まあ、和裁技能士とか、かっこいい肩書を持ってるわけじゃないけど、一応、着物を作ることはできるよ。だから、今の着物屋のやり方には閉口してるわけ。だって、知識も何もなくて、売りたいだけでやってるようなもんだもんね。本当に着物がほしいなんてこれっぽっちも考えてないんだ。それでは、着物が発展しないよねえ。」
杉ちゃんはからからと笑った。
「本当に、着物を販売したいというか、着物に関わりたいのであれば、リサイクル着物とか、そっちの方で働かしてもらったほうがいいと思いますね。確か、カールさんの店が、従業員募集をしていたような気がしますから、そこへ応募してみたらどうでしょう?」
とジョチさんは、手帳にカールさんの店である、増田呉服店の名前と電話番号を書き、そのページを破って彼女に渡した。
「一つ落ちても、諦めちゃだめだよ。着物屋は星の数ほどあるんだから。頑張って良心的な着物屋を探すんだな。最もさ、こういう世界は、やるもんが少ないから、何でも勧誘の世界だけど、それではだめなんだ。それに負けちゃいかんで、自分の着物の世界を作ることが大事だよ。お前さんもそのうち分かるから、それが見つかるまで頑張りや。」
杉ちゃんに言われて、佐藤亜希子さんは、
「ありがとうございます。本当に嬉しいです。腰紐は、480円で大丈夫です。」
と言った。ジョチさんが、500円玉を彼女に渡すと、彼女は、すぐに20円をジョチさんに返した。実は釣りを待つのに10分近くかかる呉服屋は珍しくない。その間に、きっと押し売りをするための作戦を考えているからである。そして、二三人の店員で取り囲む囲み商法や、最初は安いものを提示していって、最後に高いものを買わせるSF商法の様な事を始めるのである。
「じゃあ、僕らはこれで帰るけど、お前さんも自分の進路をよく考えて、できるだけ新しい商売を見つけることだな。お前さんは、ジョチさんの言う通り、こういう呉服屋の店員には全く向いてないよ。」
「はい、ありがとうございます。わたしも改めてそう思いました。やっぱり私は、こういう仕事には向かないなと改めて思いました。教えてくれてよかったです。ありがとうございます。」
杉ちゃんがそう言うと、佐藤亜希子さんはにこやかに笑って、杉ちゃんに頭を下げた。杉ちゃんたちが腰紐を持って帰るのを、佐藤亜希子さんは嬉しそうに眺めていた。
それから数日が経って。杉ちゃんとジョチさんが、カールさんの店で、休憩していたときのことだった。ちなみにカールさんの店は、中古の着物屋なので、着物を手放そうという客は多いが、着物を買おうという客がやってくることは少ないから、結構休憩スペースとして使えるのだった。
「なるほどねえ。確かに新品の着物を扱う呉服屋さんは、変な商売だと言われることが多いですからな。」
カールさんは杉ちゃんの話を聞いて、そう答えた。
「これから着物の事を学ぼうという女性の気持ちが、悪い方へ利用されてしまうんですね。」
ジョチさんも、あれでは可哀想だという顔でカールさんに言った。
「それでその佐藤亜希子さんと言う女性は、店をやめたのかな?まあ、ああいう店はいても意味がないと思うから、さっさとやめて、他の店にしたほうがいいと思うけどね。」
と、杉ちゃんが言うと、
「佐藤亜希子?それはもしかしたら、動画サイトに、着物の着方を放映している女性では無いですかね?」
と、カールさんが言った。
「どうしてその名前を知っているのですか?」
ジョチさんがちょっと驚いた顔でいうと、
「はい。よく知ってますよ。着物を着ている様子を、動画中継して放映している女性ですよね?僕も、着物屋だから、いろいろ動画は見るんですけど、いろんな着物を投稿している人がいますよ。ときには、個性的な着物を着ている人もいます。」
と、カールさんは言った。ジョチさんがタブレットを開いて、動画サイトを開いてみると、
「ああ確かにありますね。この女性は、間違いなく佐藤亜希子さんです。」
と、画面を見せた。画面には、佐藤亜希子さんが、着物を着ている動画が映っている。着物を着たり、帯を作り帯に作り直している作業をしている動画が沢山乗せられていた。
「はあすごいですね。彼女はそんなことができるなんて、思いませんでした。こんなたくさんの動画、よく乗せられたというか作れたものですな。動画を編集したり、公開したりするって、非常に難しい作業でもありますから。」
ジョチさんは驚いた顔でいった。
「あの店にいたときは、彼女がそんなことができる女性だなんて、そんな顔をしているようには見えなかったけどな。なんかそれよりも、弱々しくて、ビクビクしている様な女性だったね。」
杉ちゃんも、すぐにそういった。
「これだけの動画が作れるんだったら、もっと彼女は自分に自信を持ってやってもいいと思うんだけど、それは無理なのかな?」
「今頃何処かで、くしゃみをしているでしょうね。」
杉ちゃんとジョチさんがそう言い合っていると、増田呉服店の入り口のドアに設置されているザフィアチャムが、カランコロンと音を立ててなった。
「こんにちは。いらっしゃいませ。」
と、カールさんがにこやかに挨拶すると、やってきたのは、佐藤亜希子さんであった。でも、動画に映っている佐藤亜希子さんとは、顔は同じなんだけど、違う人物のような気がした。
「あれえ、佐藤亜希子さんだよな?僕たちは、こないだお会いした、杉ちゃんとジョチさんだよ。」
と、杉ちゃんが言うと、
「ええ、お二人の事はなんとなく覚えています。」
と、彼女は言った。その言い方は、なんとも弱々しい言い方だった。服装は着物を着ているが、まだ着付けを体得していないのか、ちょっと不格好なところがあった。
「そうか。この動画をアップしたのは、お前さんだよな?」
杉ちゃんはジョチさんのタブレットを、彼女に見せた。
「ええ、これは確かにわたしですが、それがどうかしたのですか?」
と、佐藤亜希子さんが言うと、
「なんかこの動画のお前さんは、ものすごく自信があって、着物はすごいものだという感じだけど、現実のお前さんは、全然自信がなさそうで、弱っちいように見える。」
と、杉ちゃんはすぐに言った。
「そのギャップは、何処から来るんかな?」
「あなたの動画では着物について質問している人もたくさんいてくれるはずなんですがね。それなのに、現実の世界では、なんだかみずぼらしく、弱々しい感じがするんです。」
杉ちゃんの言い方をジョチさんが訂正した。
「それで、今日はこの店に何のようでしょうか?」
と、カールさんが言うと、
「はい。着物を一枚いただきたくて参りました。今手を出せていない着物は、アンティーク着物なんです。それをこちらでは、安く買えるということを、着物仲間から伺ったものですから。」
と、佐藤亜希子さんは小さな声でこたえた。
「そうですか。アンティーク着物と言われても困ります。アンティークの着物も、訪問着から、小紋までいろんなものがありますからな。その見分け方といえば、裏地が赤いことがよく言われていますけど、それだけとは限りませんからね。」
と、カールさんが答える。
「そうなんですか。それでは、アンティーク着物という着物は、種類として独立していないということでしょうか?」
佐藤亜希子さんが聞くと、
「うーん、和裁屋としての立場から言わせてもらうと、アンティーク着物というのは、大正末期から昭和のはじめ頃の着物で、その頃はみんな西洋かぶれで、何でも西洋に近づけようとした。着物もそういうことなんだよ。だから、アンティーク着物ってのは派手で、けばけばしいものが多いの。それで戦争があって、戦争に負けたことで、日本の着物は、一度古典的な柄に戻るんだ。それで、洋服が普及して、着物が特別なものと化し、一気に高級品となる。だけど、最近は若い人を引き付けたくて、再び西洋化してきているようになっているという、変な歴史何だよ。だから、アンティーク着物というのは、今の着物とは、ぜんぜん違う別個の着物と考えたほうがいい。第一着物代官とか言われる人たちは、アンティーク着物を快く思わない人が多い。」
と、杉ちゃんが長々と話を始めた。
「そうなんですか。それでは、アンティーク着物一つのカテゴリでまとめないほうがいいですね。」
佐藤亜希子さんはそういうのであった。
「お前さん頭がいいね。すぐそうやってわかってくれる。そういうわけだから、アンティーク着物という区分分けではなくて、アンティーク訪問着、アンティーク小紋、アンティーク付下げなど裏の赤い着物は、細かくランク分けしたほうがいいな。そのほうがお前さんの着物紹介動画も繁盛するんじゃない?だって、着物についての解説、とても丁寧だよ。」
杉ちゃんは、動画を眺めながら言った。
「だって、なかなか訪問着と付下げの違いを説明できる人は今はいないからね。ましてや、一般的な呉服屋でもちゃんと説明できない人がゴロゴロ居るから。お前さんの動画では、ちゃんとその違いも説明できているじゃないか。」
確かに、動画に入っているナレーションには、訪問着と付下げの違いもしっかり放送されていた。それは杉ちゃんが教えた通り、訪問着はお組から前身頃にかけて柄がつながっていることをちゃんと話している。ちゃんと杉ちゃんの言った事を、覚えようとしてくれている証拠だ。ちなみに彼女の動画は、訪問着とはどんな着物なのか、小紋とはどんな着物なのかを紹介している動画なのだが、それぞれの特徴を彼女が自分で着て解説することにより、写真での解説よりわかりやすいものになっているのだった。
「これなら、写真だけの本を読むよりずっといいぜ。映像で見せてくれる方が、よりわかりやすいこともあるからよ。だから、現実のお前さんも、この動画の様にしっかり生きてもらいたいだけど、そんなみずぼらしい格好して。」
と、杉ちゃんに言われて、彼女はそうですねと言った。
「ええ、顔を見ない相手なら、こうしてしっかりやり取りができるんですけど、顔を見るのは、ちょっと苦手で、自信をなくしてしまうんです。」
彼女は、申し訳無さそうに言った。
「うーんそれはそうなのかもしれないが、着物の事をこれだけ詳しく動画で解説できるんだったら、もう少し、堂々としていてもいいと思うんだけど。それに、手本にする着物は何処で買ったの?」
「インターネットのリサイクル着物ショップで買いました。でも、アンティーク着物は、着物が他より小さいこともあると書いてあったので、リアルでお会いしたほうがいいと思ってここに来ました。」
杉ちゃんがそう言うと佐藤亜希子さんは、そういった。
「そうですか。顔が見せない世界では何でもやってしまえるのでしょうが、それ以外では何もできないとなるとちょっと問題ですよ。あなたは、間違いなく、現実の世界で生きていかなければならない人間ですからね。インターネットの世界は、本当の世界ではない事に気が付かなければ。それはちゃんと、生きて行く必要がありますからね。」
ジョチさんが彼女を諭すように言った。
「まあ、着物を扱っている人間からしてみれば、インターネットの世界のほうが、着物の存在感はありますね。インターネットでは、着物を着ていることを褒めてくれるけれど、現実の世界では、若いのに年寄りの格好をして生意気だとか、そういう事を言われるだけだったというのはよくあることですからね。」
カールさんは苦笑いして言って、
「とりあえず、こちらの着物が、裏の赤いアンティーク小紋になります。こちらであれば、一枚1000円で結構です。」
と、赤い小紋着物を一枚見せた。大きなグラジオラスの柄が入れられた、素敵なアンティークの小紋着物だった。裏は言われた通り赤くなっている。これは、紅絹という生地で、女性の体を冷やさないようにするために、大正、昭和時代によく用いられていたという。
「本当に1000円でいいんですか?」
佐藤亜希子さんがそう言うと、
「はい、構いません。」
と、カールさんは言った。でもそれ以上は言わなかった。それ以上言ってしまうと、押し売りをしている呉服店と同じ事になってしまうのだと言うことだった。
「あの、試着してもいいですか?大きさを確かめたいので。」
佐藤亜希子さんが聞いた。カールさんは構いませんと言って、姿見鏡を出してきてくれた。佐藤亜希子さんは、その着物を羽織ってみて、
「わあ素敵。自分じゃないみたい。」
と思わず言ってしまった。
「帯は、うちにある帯で大丈夫だと思うんです。だからこの着物を頂いてもいいでしょうか?」
「はい。1000円で大丈夫ですよ。」
カールさんがそう言うと、佐藤亜希子さんは、急いで着物を脱いで丁寧にたたみ、そしてカールさんに1000円を支払った。カールさんは、領収書を書いて彼女に渡した。
「はい。ありがとうございます。この着物はアンティーク小紋という格わけで動画で説明すればいいのですね。私、良い動画を作ってみなさんが着物に親しめるようにします。」
と、彼女は着物を持ってとてもうれしそうに言った。
「本当はその顔を、インターネットの世界ではなくて、現実世界でしてくれたらもっといいんですけどね。」
とジョチさんはいうが、
「今は、それでもいいんじゃないですか。そのうち、着物を着て新しいステップに進めると思いますよ。」
と、カールさんはにこやかに言った。
アンティーク小紋着物 増田朋美 @masubuchi4996
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