第7話 過去と呪いと本部長
「……ん?」
頬を撫でる風の感触でジクは目を覚ました。いつのまにか一面にシロツメクサが咲いた小さな野原に立っている。小さな手に握っているのは所々ほつれた花冠。
「ジク、ご飯ができたわよ」
離れた場所から母親が自分を呼んでいる。その声で、何をしていたかようやく思い出すことができた。
「母さん! これ、あげる!」
駆け寄って花冠を手渡せば、自分と同じ金泥の目がおもむろに見開かれていく。
「まあ、綺麗なお花! ありがとうね、ジク」
「どういたしまして!」
「ふふ、じゃあもう遅いから帰りましょうか」
「うん!」
少し先を行く母親を幼い足取りで追いかける。置いていかれないように、必死になって。
気がつけば、また違う場所にいた。母親が膨らんだ腹を撫でながら、ソファーに腰掛けている。
隣に立っているのは人間の父親。黒皮の首輪から伸びた鎖が、手枷につながっている。それが人間にとっての普通の格好だと、ずっと信じていた。
「ねえ、ジク。弟はお父さん似とお母さん似、どっちがいいと思う?」
「えーとね、お父さん!」
「ふふ、そうよね」
見上げた顔に満足げな笑みが浮かぶ。
「私もね、本当はお父さんに似た可愛い人間の子供がずっと欲しかったの」
その後、父親がたしなめるような言葉を口にしたが、それがなぜなのかはジクには分からなかった。
場面はまた切替わり、赤子を大事そうに抱えて微笑む母親の姿が目に入った。弟ができたことは嬉しかったが、同時に違和感も抱いた。こんなにも優しさに満ちた笑顔は、自分には向けられたことがなかったからだ。
「お母さん! お兄ちゃんがいじめた!」
弟が黒目がちの目に涙を溜めて母親の脚にしがみつく。母親は優しい笑顔で「あらあら」と口にして、父親譲りの黒髪をなでた。
「違うよ母さん。クゼが僕の使ってる色鉛筆、横取りしようとしたから……」
「ジク」
恐ろしく冷たい声が名前を呼ぶ。見上げた顔は声と一切違わない表情をしていた。
「いつも言ってるでしょ嘘はダメだって。なんで言うことを聞けないの?」
「だって、僕は……」
「まったく、ちゃんと愛してあげてたのになんでこんな嘘つきになったのかしら。いいからほら、早くクゼに謝りなさい」
「……」
うつむく途中、脚にしがみついて得意げに微笑む弟の顔が目に入った。
「お兄ちゃん! 今日は森を探検しよう!」
弟が色鉛筆で描いた地図を手に、屈託のない笑みを浮かべる。小さな街を取り囲む深い森に子供だけで入ることは禁じられていた。だからこそ、幼い好奇心に火がついたのだろう。
「ほら、はやく行こうよ!」
「でも、決まりを破ったら、母さんたちに叱られるよ?」
「平気だよ! バレたらお兄ちゃんのせいにすれば、叱られないもん!」
屈託のない笑顔には、些細な悪意さえ感じられなかった。
「ジク、どうしたの?」
気がつけば、目の前で母親が困惑した表情を浮かべていた。
夕陽に照らされたシロツメクサの咲き誇る野原。幼い手に握っているのは、所々ほつれた花冠。ジクはまた自分がなにをしていたか思い出す。
「母さん! これ、あげる!」
「まあ、綺麗なお花! ありがとうね、ジク」
見上げた顔が笑顔を浮かべる。
それでも、夜にはその花冠がゴミ箱に入っていることをジクは既に知っていた。
「お兄ちゃん! 助けて!」
落ち葉に足を滑らせて落ちた窪みの先で、弟が泣き喚いている。右脚には、ミミズに似た胴体に髑髏がついた姿のあやかしが無数に群がっている。
「痛い! 痛い! 痛い!」
「待ってて、今すぐ……」
今すぐに引き上げれば、まだ助けられるかもしれない。それでも、右脚はもう手遅れだろう。
「平気だよ! バレたらお兄ちゃんのせいにすれば、叱られないもん!」
悪意のかけらもない笑顔が、頭の中に蘇る。
母親が露骨に冷たくなったのは、弟が生まれてからだ。それまでは、少なくとも笑顔を向けてはくれていたはず。
「いたい……、いたい……」
あやかしが眼窩の奥から金泥色の放ちながら、幼い身体のあちこちに穴をあけていく。
いつの間にか窪みに横たわるものは、ボロボロになった手書きの地図と白い骨だけになっていた。
街のはずれにある葬儀場の鐘が五回鳴った。残響が消えると、黒いベールとドレスをまとった母親が手を伸ばしてフラフラと近づいてきた。
弟がいなくなったから、今度は自分を抱きしめてくれるのかもしれない。そんな甘い考えが一瞬だけジクの頭をよぎる。
「あと五回、鐘を鳴らさなきゃ」
しかし手が触れたのは、やはり背中ではなく首だった。
「この嘘つき! 人殺し! お前が死ねばよかったのに! あの子を返して!」
金切り声とともに首を締めつける手の力が強まっていく。
「愛してやった恩を仇で返して……、死ね! このバケモノ!」
母親はずっと嘘はよくないと言っていた。
それでも、自分を愛していたと嘘をついている。
「かあ、さ、ん」
「死ね! し……」
「うそ、は、だめ、だ、よ」
「……ぃぎあ゛ぁあぁ!?」
だから、砕いて引きちぎってバラバラにした。
それから、ジクは暗い森を息を切らして走り続けた。幸いなことにあやかしと出くわすことはなかった。
「ん? なんで子供がこんなところに……ああ、貴様半妖なのか。なら、ようやくヤツらの巣穴にたどりつけるな」
その代わりに、白い服を纏った人間に出会った。
「おい貴様、俺と一緒に来い。吐いてもらいたいことが山ほどあるんだ」
「……」
手を差し伸べる笑顔から本能的な嫌悪感が滲み出している。しかし、母親をバラバラにした今、街に引き返したところで無事でいられる可能性はほぼない。
「……うん」
それに、生まれてはじめて差し伸べられた手を握りかえしてみたかった。
「ははは! バケモノのくせにずいぶん素直じゃないか! 他のヤツらより多少は見込みがありそうだ! ほら、さっさと行くぞ!」
「うん……」
引きずらるように鬱蒼とした森を抜け、護送車に投げ込まれ、たどり着いたのはあやかし退治人結社の社屋だった。
それから先は、躾という名の暴力と血生臭い仕事が続いた。
ただし、躾はともかく仕事に対しての嫌悪感はそれほどなかった。愛という建前のもとに、他者を支配や蹂躙しようとする集団の殲滅が主だった内容だったからだ。
それでも、穏やかな気分でいられた日はほとんどなかった。
次々に浮かぶ思い出が、ジクの目の前で毒々しい色の渦に変わっていく。
このまま首にまとわりつく苦しさに身を任せて、眠ってしまいたい気分になる。
「よしよし、ジクはいい子だな」
不意に、目の前に優しい微笑みが浮かんだ。
せめてもう一度だけあの笑顔に頭をなでてほしい。そう願った途端、目の前の渦が徐々に色褪せていった。
「なあ、もう動かないけど本当に大丈夫か?」
「大丈夫だろ」
「でもコイツ、ガキのころ素手であやかしの母親をバラしたんだろ?」
「大丈夫だって。あの鎮静剤をずっと喫ませてたんだ、今は人くらいの力しか出せないはずだ」
「そうそう。抵抗されたところで、この人数なら圧勝だ」
明るくなっていく視界のなか、白い服を纏った数名の人影が浮かびあがる。名前までは思い出せないが、同じ班の社員だということは分かった。
「しっかし、シキ班長も酷いよな。自分だけあんな上ものを担当して。俺たちには半妖の処分を押し付けるんだから」
「仕方ないだろ。あのセツっていうの、かなりのお気に入りだったからな」
「今ごろ情にほだされて本気に愛人にしてたりして」
「ははは! さすがにそれはないだろ! まあ、今回はかなり気に入ってたから処分にたっぷり時間かけてるだろうけどな!」
下卑た声が聞きたくない言葉を連ねている。
「だ、まれ」
ジクは朦朧とする意識の中で首にかけらた手を掴んだ。
「うわっ、起きた!」
「だからもっと確実な方法にしとけって言ったんだよ!」
「しかたねーだろ! 今回は本部のやつと一緒に処分だから、念の為会社の武器は使うなって命令だったし!」
「幻術の効きをよくするには、こっちのほうがいいって言ったの誰だ!?」
「いいから、さっさと全員で……ぎゃあおぁあぁあ!?」
力を込めると掴んだ手がカシャリと崩れ、生暖かい飛沫が顔にかかった。十年前と同じように。
「手が! 手が!」
「おい!? あの鎮静剤キメさせとけば、平気なんじゃなかったのかよ!?」
「いいから、早くにげ……」
「うるさいから、少し黙って」
「ぎゃっ」
「ぐぷっ」
「ごぼっ」
いつもより少し力を入れて腕を振り回すたびに、汚い悲鳴とパシャパシャという水音が響く。
意識がはっきりとしたころには、部屋中が赤く染まった布切れと人間の破片にまみれていた。
「早く、行かないと」
ジクは振り返ることなく貴賓室を出て、廊下を駆けていった。
※※※
「セツ……!?」
勢いよく班長室の扉を開けると、シキの歪んだ笑顔だけが目に入った。
「なんだ、お前
否、それ以外のものを目に入れたくなかった。
「あ……」
「ははは、そんなに怯えなくいいだろう!」
それなのに、強烈な血と果実と薬の香を放つそれに目がいってしまう。
血溜まりに散らばる白い歯と血色を失った舌、その中に顔を伏せて横たわり微かに痙攣する──
「死体なんて、仕事でいくらでも見慣れているだろう?」
──赤黒い粘液にまみれて身体中が爛れたセツの姿に。
「……殺してやる」
唸るような声が牙を向いた口から溢れる。それでも、対峙した歪んだ笑顔は変わらない。
「はは、上司に向かって脅迫とは、随分と礼儀がなっていないな。そんな出来損ないのバケモノは俺が直々に……」
「そうだ、ぞジク。一応は上司なんだか言葉遣いは気をつけてやらないと。『大変恐れ入りますが、早急に死んでいただくことは可能でしょうか?』的なかんじで」
「──!?」
「──!?」
突然響いた鷹揚な声に、シキだけでなくジクも目を見開いた。
「ま、可能じゃなくても、多分死ぬことになるんだろうけどな」
血溜まりの中からゆっくりと、ズタズタになった服と塵を纏ったセツが立ち上がった。血で汚れてはいるが、陶器のような肌からは一切の爛れが消えている。
「……っ貴様! 一体なにを!?」
「ふふ、まあ冥土の土産に教えとこうか。私ね、ちょっとした呪いにかかってて」
溶け落ちた手袋の隙間から、滑らかな手の甲が覗く。刻まれているのは互いの尾を飲み込む二匹の蛇の紋様。
「ほぼ不死身、なんだよ」
口の端に血がこびりついた顔が、妖艶な笑みを浮かべる。
「不死身、だと……ぐぶっ!?」
突然、シキが鼻と口から血を吹き出してうずくまった。
「ふふ。だからお察しの通り身体に録音機やら蓄積していく類の毒やらを仕込んで、色々とする仕事なんかにも抜擢されて……もう、聞こえてないか」
呆れ気味の声の通り、うずくまった身体は少しも動かなくなった。
「素直に本部に来てくれれば、お前にも解毒薬を分けてやろうと思っていたんだけどな。さて」
一連の出来事を呆然と眺めていたジクに苦笑いが向けられる。
「その返り血だと、そっちも大変な目にあったみいだな。巻き込んでしまって悪かった」
「あ、ううん、大丈夫。それより……」
金泥色の目がおずおずと、血まみれの顔を見つめる。
「うん? ああ、毒のことか? それなら前に渡したアメ玉が諸々に効く超強力な解毒薬になってるから、心配しなくても大丈夫だぞ」
「えーと、その心配じゃなくて。ほぼ不死身っていうのは?」
「あー、そっちかー……まあ、なんと言うかな……」
薄灰色の目があからさまに泳ぐ。それでも視線を動かさずにいると、血まみれの唇からため息がこぼれた。
「ずっとずぅっと昔、あやかしに身体を弄り回されたあげく、仕留める際に呪いをかけられたんだよ。だから」
手袋の残骸を纏った手が頬にそっと触れた。
「……ぅっ」
血と果実と薬を混ぜた芳香が鼻腔を殴りつけ、全身の血がフツフツと湧き立っていく感覚に襲われる。
「多少乱暴に貪っても、死ぬことはないんだ」
赤く汚れた唇が弧を描く。
「怖い思いをさせてしまったお詫びは、ちゃんとしないとな」
「まっ、て……んむ」
制止もむなしく、先ほどまで床に転がっていたはずの舌が唇を割って中に入ってきた。途端に、血と果実と薬がでたらめに混じった味が口中にひろがる。
脳髄が痺れるような愉悦に、気がつけば唇を押しつけていた。口内を舐めまわすたびに、舌に甘美な血がまとわりつく。
「っん……、ふっ……」
甘くうめくような吐息が欲情を欲情を加速させていく。
「……っは」
口に残った血の味が薄くなるとジクはゆっくりと唇を放した。名残惜しげに伸ばされた互いの舌が淡紅色の糸で繋がる。糸が切れると、セツは頬を軽く紅潮させながら微笑んだ。
「やっぱり、キスはジクのほうが好みだな」
「そう……」
褒められたことは嬉しいが素直に喜べない。その原因を見透かした薄灰色の目が楽しげに細められる。
「安心しろ。それ以外もお前のほうが好みだから」
「……そう」
「ああ、だから」
華奢な身体が艶かしく揺れながら服の残骸を脱ぎ捨て、血にまみれた滑らかな肌を晒していく。
「好きにしてくれてかまわないぞ」
全身から放たれる蠱惑的な香りに思わず喉が鳴った。牙を突き立て食い破りたい衝動をおさえながら、ジクは一心不乱に目の前の体を貪った。
※※
「お詫びは、お気に召したかな?」
行為が終わると、セツは血溜まりに横たわったまま優しく微笑んだ。
「……うん」
「ふふ。そうか……なら」
白い両腕がゆっくと広げられる。
「もっと好きに貪っていいぞ」
「ぅ……」
甘美な香りが鼻腔を満たし、頭の中が甘く痺れていく。
喉、胸、腹。食い破りやすい場所が無防備に晒されている。
先ほどの話が真実なら、血まみれで微笑むこの男は不死身のはず。
それなら。
「失礼する!」
「わっ!?」
「うわっ!?」
突然の大声にジクは我に帰った。
「あらら。意外に早く来ちゃったな、あいつ。よっと」
苦笑を浮かべながらセツがゆっくりと起き上がる。
「任務は無事に完了したよ。ロカ本部長」
「本部長……?」
薄灰色の目が向く先におずおずと振り返る。
「その状態でなにが無事なんですか、まったく……」
そこに立っていたのは、不機嫌そうな表情の眼鏡をかけた青年だった。
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