第49羽♡ やっぱ何でもなくないかも

 

 雲の隙間からわずかに日が差し込む午後四時過ぎのこと。

 

 先ほどまで雨が降っていたせいか、日の入りまではまだ時間があるはずなのに太陽の色は赤く空は綺麗な夕焼け色になってる。


 露天風呂で冷えた身体を温めながら目の間に広がる山風景を満喫する。


 温泉は文句なしで最高だし、目の前に広がる世界も絶景と言って良い素晴らしさ。


 時折、湯が注ぐ竹で出来た「ししおどし」の中の水が満杯になり頭を下げると「かーん!」という高い音が響く。

 

 温泉や日本庭園などでよく見かけるけど、元々は田畑を荒らす鹿や猪や鳥などを追い払うために考えられたものらしい。

 

 何でもその音、たたずまいに風情があることからいつの間にか装飾品として使われるようになったとか。


 ……などと脳内電子百科事典をフル動員して、目の前で展開されている現実から目を反らそうとする。

 

 だって隣には裸の前園が鼻歌を歌いながら俺の左手を握り湯船に浸かっているから……。

 

「ふぅ~気持ちいいなぁ……体にみるぅ」

「……」


「見て緒方、足に泡が沢山ついてる~」

「……」


「なぁ緒方?」

「……」


「何か言えよ~えいっ!」

「うわぁ……」


 前園が俺の右手を強引に引っ張ると白い何かを押し付けた。


 ムニっとしてるのに、すごく反発力があって大きくて丸く柔らかなそれは高校生男子が絶対に触ってはいけない、万が一同級生にバレたら生涯変態のののしられる超危険な部位だった。

 

 ……しかもふわふわとお椀のよう形で優雅にお湯に浮いている。

 

「うわぁ――! 何すんだ!?」


「だって緒方が全然喋ってくれないから、今更気にすることじゃないだろ。さっきまでオレの身体に散々触れてたわけだし」


「そうだけどそうじゃないから! あと知らない人が聞いたら誤解されるように言うな~!」


「緒方は細かいなぁ……女の子みたい」


「男とか女とかそういう問題じゃないだろ!」

「まぁそうかもだけど……ところで緒方はやっぱり男の子だったんだな~うーん」


「どこ見て言ってるんだよ!?」

「ん~聞きたい?」


「聞きたくな――い! というか絶対に言うな! 見るな! あと今すぐ俺から離れろ!」

「や~だよ。だって面白いし~」


 前園の身体に少しだけ力が入りギュッとなる。

 でも柔らかい。


 遠ざけないといけないけど、それができない。

 ……ムニっとした例の感覚が全てを脱力させる。


 考えちゃいけないことが次から次へと頭の中に浮かんでくる。


 どんなにスケベ心をデリートしても、次々とムフフ情報がオーバーフローして押し寄せてくる状況では脳内処理が追い付かない。

 

 何も知らない人たちが俺たちの会話を聞いたら、若いカップルがイチャイチャしてると勘違いするかもしれない。

 

 だが断じて違う。

 

 確かに俺は前園の裸を見てしまった上に、今もこうして一緒に温泉に入っている。

 しかもちょっと前まで一時間以上にわたり彼女を抱きしめていた。

 

 しかしである、これは色々と不幸な事態が次々と重なった結果であり、決してやましい理由からではない。

 

 もちろん親に顔向けできない様なことも一切していない。

 ……まぁ今のところだけど。

 

 前園のお母さんに「お宅の娘さんとお風呂に入っちゃいました」とは言えない。

 やっぱりアウトな状況の気がする。

 

「いや~どうしてこんなことになったんだろうな~」

「それは俺が聞きたいよ!」


「緒方はさ、後悔してる?」

「いや……今の状況は行き過ぎだけど、他に良い方法があったとは思わない」


「じゃあ折角だし楽しもうぜ!」


 前園はとても楽しそう。

 

 だけど、いつも真っ白なその肌は温泉の暑さで少し赤みを帯びている。

 空よりも蒼い瞳も同様に……。 


「なぁ緒方はそんなにオレを見るのが嫌か?」

「そうじゃないけど恥ずかしいだろ!」


「じゃあ学校の時みたいに目を閉じたままでいいから、このままでいて」

「……わかったよ」


 目を閉じて大きく深呼吸する。

 肺に入ってくる空気は都会のそれと全く違い澄んでおり、心にも優しい。 

 

 それでも視界を閉ざしたことで前園の息遣いや肌のぬくもりをより鮮明に感じてしまう。


 今回はさすがにヤバいかもしれない。


 鋼の良心は、決壊までのカウントダウンが始まっている。

 緒方霞は普通の男子高校生。異性について色々考えてしまうことだって普通にある。

 

 一体前園は何を考えているのだろう?


「ねぇ緒方」

「ん?」


「何でもない」

「そっか」


「ねぇ緒方」

「何だ前園?」


「さっきはありがとう、オレ雷が苦手なんだ」

「まぁ気にするな。誰だって苦手なものはあるだろ」


「うん……ねぇ緒方」

「何だ?」


「やっぱ何でもない」

「さっきからどうした?」


「えーと……さ、ごめん、やっぱ何でもなくないかも」

「ん?」


 次の瞬間、唇に熱く柔らかなものが押し付けられる。

 暴力的に甘くて、切ない……。

 

 息がとても苦しい、今すぐ空気が欲しいのにそれを許してもらえない。

 このままだと窒息して、やがて溺れてしまいそう。

 

 出会って数か月の前園凛という少女との記憶が一瞬で走り抜けていく……。

 いたずら好きで愛想がよく少年のように快活でよく笑う。


 クラスの人気者で、ただ教室の席に座っているだけで、一枚の絵画のように見えてしまう誰もが認める圧倒的な美貌をもつハーフの少女。

 

 目を開いて確認する必要もない。

 良くも悪くも俺はこの感触をよく知っている。

 

 前園凛と俺はキスをしている……。

 

 触れ合うことで彼女の喜びも痛みも悲しみも全て伝わってくる気がする。


 その唇をもっと知りたい。

 その瞳を濡らしたい。

 

 そして全てを奪いたい。

 

 心の底で眠っていた黒いものが動き出し、ガラスの様な高い音を立てて何かが壊れた気がする。

 

 でも今はそんなことはどうでもいい。

 まぶたの向こう側の少女のことしか考えられない……。

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