第1話

(どこだ。どこに落としたんだ)

 廊下を走ってはいけません、なんていう決まり文句の張り紙を無視して、青砥は屋上への階段を駆け上がる。

(あれを、誰かに読まれでもしたら)

 そんなことを考えてしまうと、ぞっとする。早く、早く見つけなければ。

 そう焦りながら、ようやくたどり着いた扉の前で酸素を貪った。十七年の人生の中で運動をまともにしてこなかった体には、最上階への全力ダッシュはきつい。ふう、と自分を落ち着かせるように深呼吸を一つ。ドアノブに手を伸ばして、押しまわす。建付けの悪い扉がキイと小さく鳴った。

 隙間から、外の光が漏れてくる。白い光の線が、だんだんと広がってゆく。

 階段の薄暗さに慣れた目にはそれがあまりに眩しくて、青砥はぎゅうと目を細めた。

 扉を開けきった先には、少女が一人、立っている。

 他人への興味が薄い青砥でもつい見とれてしまうほどに美しい少女だ。背中まである、艶やかな黒髪。半袖から覗く肌は日の光を反射して目に痛いくらい白い。二重瞼の大きな瞳は、ベンチの上にある本に注がれて――本?

「あっ!」

 青砥は慌ててベンチに駆け寄り、その本を手に取った。文庫本より一回りくらい大きい、青い装丁の本。青砥の探し物。きっと昨日の昼ごはんを食べた時に置き忘れてしまったのだろう。

 よかった、見つかった。安堵してしゃがみ込んだ青砥の頭上から、声がした。

「それ、君の? 見つかってよかったね。名前書いてないから誰のかと思って」

 鈴を転がすような声だ。顔を上げれば、「中は読んでないから大丈夫だよ」と手をひらひら振って笑う少女がいる。だが、改めて見るとその姿には強い違和感があって。

「……あなた、誰ですか? その制服、うちの高校のじゃないですよね? 不法侵入?」

 少女が着ているのは白のセーラーに、膝まである灰色のプリーツスカート。この高校の女子制服は紺のブレザーだ。

 しかし、少女は不思議そうにことりと首をかしげる。

「制服……? 私はちゃんと、ここの生徒だったよ」

「だった……?」

 なぜか過去形で話す少女に、背筋が冷えるような奇妙な感覚がした。

 灰色のスカートをはためかせ、少女はくるりと回って笑う。どこかの青春映画のようなワンシーン。


「私は、幽霊だから」


 少女がそう告げた瞬間、強い風が一陣吹きつけた。なんてことないように笑う彼女のスカートは、つややかな長い黒髪は、風になびいていない。

 それに気が付いた瞬間、ぞわりと肌が粟立った。突拍子のない言葉と、それを裏付けてしまうような目の前の現象。声を失った青砥の目に、形のいい唇が続きを紡ぐ。

「高一の夏にね、事故で死んじゃったの。死んだときの記憶はあるし、夢に知らない人が出てくるわけないから、きっと夢でもない。未練だって分かってる。幽霊になったのはついこの前だけど、自分が何なのかくらいはちゃんと理解してるよ」

 幽霊なんて非科学的な存在、いるはずない。

「な、に言ってるんだよ……幽霊なんて、馬鹿な話…………」

 いるはずがないのに、声が震えてしまう。

「本当だって!」

 不満そうに口を尖らせた少女は、次の瞬間、ぱっと表情を変えて青砥に詰め寄った。

「それよりさ、今は制服違うの? あんまり男子のことは注目してなかったから気付かなかったけど……どんな感じ? 女子の制服可愛い? あと、スカート膝丈厳守の校則はなくなってる? ああ、でも上履きは変わってないね」

 少女にとって、幽霊云々よりも制服の話題の方が重要らしい。自身の青い学年カラーの上履きを指さして話し続ける。その切り替えの早さについていけなかった青砥が戸惑っていると、キーンコーンカーンコーン、と昼休みの終了五分前を告げるチャイムが学校中に鳴り響いた。――授業が始まる。

 その事実一つで、青砥の意識は全て塗りつぶされた。遅れてはいけない、急がなければ。それだけが心を占めた。

 一目散に教室へと駆け出して行った青砥の背を眺めて、少女は一人呟く。

「信じてくれなかったのかなあ……まあ、いっか。後でまた会うんだし」



 今日は災難な日だった。歩きながら青砥はため息をついた。

 昼休みは変なやつに絡まれるし、そのせいで午後の授業には遅れるし、六限の体育では顔面にボールが飛んでくるし。流石にこれ以上の災難はないだろう、と願いながら部室のドアを開く。

 その先には、見慣れぬ少女がいた。

 紺のブレザーを身にまとい、壁に背を預けて本を読んでいる。肩口ですっぱりと切り揃えられた髪が静かで鋭利な印象を与えてくる。上靴のラインが青いから一年生だろう。まさか、入部希望者なのか。青砥が入ってきたことに気付き、少女は顔を上げた。本を閉じて、まっすぐに青砥の方に向き合う。

「はじめまして。一年生の茜といいます。天文部に入部したいと思っています。よろしくお願いします」

「ああ、俺は二年の青砥だ。一応天文部の部長だが……本当に、ここでいいのか?」

「どういうことですか?」

 少し困惑したような声に、やっぱりな、と青砥は思った。――この茜という一年生は、天文部の実態を知らない。

「うちの高校の天文部は多分、君が思っているようなものじゃなくて――っ、⁉」

「あれ、青砥もういるんだ。今日は早いね……って、どうしたの?」

 唐突に激痛に襲われ、痛む頭を押さえながら、青砥は犯人を睨んだ。

 視線の先には、ドアを開いたまま不思議そうな顔をしているポニーテールの女生徒がいる。彼女の開いたドアの角が青砥の頭に勢いよくぶつかったのだ。

「お前のせいだろ……部屋に入る時はノックしろ、紫苑……!」

「青砥だっていつもノックしてないじゃん。というか、こんな入口の方にいる方が悪くない? 普段は部屋の端っこ陣取ってるのに」

「お前のドアを開ける勢いが良すぎるだけだ。こっちは毎日ドア壊れないか心配になってるんだよ」

「そんな簡単に壊れないよ!」

「去年一回ドア外してただろ!」

「あの……」

 騒がしい言い合いの中に紛れた小さな声に、青砥と紫苑は振り返る。戸惑った様子の茜に、紫苑はようやく気が付いた。

「君は……?」

「一年生の茜といいます。よろしくお願いします」

 もう一度折り目正しくお辞儀した茜を見て、紫苑はくいっと青砥の袖を引っ張って引き寄せる。

「あの子、もしかして新入部員?」

「そうらしい」

「本当に分かって来てるの……?」

「あの、さっきから何の話ですか。分かってるとか分かってないとか」

 背を向けてひそひそ話す二人に、茜は痺れを切らしたようだった。紫苑が小さく息を吸って、口にする。

「あのね、この部は、帰宅部みたいなものなの」

「は……?」

 やっぱり知らなかったか、と青砥は小さくため息をついた。

「うちの高校が部活動強制参加なのは知っているよな?」

「はい」

「そんな中でも、部活をやりたくない奴はいる。ここはそんな奴らの救済措置だ。部活時間が終わるまでの間、各々部室で好きなことをする。そういう場所なんだよ、天文部は」

 ぽかんと口を開けた茜に、少しの申し訳なさを感じる。挨拶一つとっても分かるくらい真面目な彼女はきっと、真剣に部活をやりたかったのだろう。

「それ、先生たちは認めているんですか……?」

「今は黙認されているな。顧問が頑張ってくれているし、いじめとかで部活に行けなくなった生徒の受け皿として使えるから」

「三年前までは普通に活動していたらしいんだけどね」

 少し俯いて、茜は左手首をぎゅっと握る。その白い手首につけられた、赤と橙の炎のような色合いのミサンガがやけに鮮やかで。いかにも優等生然とした彼女の雰囲気に、それだけが異質だった。

「でも、私、入ります。天文部に」

 顔を上げて言い切った茜に、今度は青砥と紫苑が驚く番だった。

「本当にいいのか?」

「はい。天文部は天文部なので。それにもう入部届も書いてしまったんです」

「なんで、そんなに天文部にこだわるの?」

「…………昔から、ずっと憧れていたから」

 控えめな微笑みがこの話を終わらせたがっているように感じて、青砥は「そうか」と短く返すだけにした。

「それじゃ、部活するかー」

 紫苑は「んーっ」と大袈裟に伸びをした。そしてパイプ椅子にどかっと腰掛けてゲーム機を取り出したのを見て、茜はつい青砥に視線を向ける。

――ゲーム機、持ち込み禁止のはずでは?

 そう言いたげな茜の反応が新鮮だった。

「あれはもう放っておけ。顧問も諦めて許してる」

「天文部だけ治外法権なんですか?」

「言い得て妙だな。まさにそんな感じだ」

 まぁお前も好きに過ごせばいいよ、と言って、青砥も部屋の隅の机に勉強道具を広げる。

「……変な部活」

 呟いた茜も、家から持ってきた星座の本を取り出して読み始めた。


 ペンを走らせる音とゲームのボタンを連打する音、ページをめくる微かな音だけが響く静寂。窓から入ってくる西日が、ゆっくりと舞い上がるほこりをきらきらと照らしている。

 そんな穏やかな雰囲気を破壊する来訪者は、突然現れた。

「わあ、本当に制服変わってる!」

 ほこりっぽく精彩に欠ける部室には不釣り合いな明るい声に、青砥と紫苑は顔を上げる。

「お前は、昼の……!」

 そこにいたのは、屋上で出会った少女だった。

「君はさっきぶりだね。ここが今の部室か……随分さびれちゃったんだなぁ…………」

「え、誰……? ドア開けずに入ってこなかった……?」

 戸惑う紫苑の声を聞いて、なぜだか少女は嬉しそうな顔をした。

「はじめまして、私は燈奈ひな。元天文部員の、幽霊だよ!」

 少女――燈奈はくるりとその場で一回転し、妙に芝居がかった動きで左手を胸に当てて、そう言った。

「ゆう、れい……?」

 唇を震わせて呟いた紫苑に、「そのとーり!」と燈奈は人差し指をつきつけた。ご丁寧に、ウインク付きで。初めて出会った昼休みの時から感じていたが、燈奈はやけに明るい。というか、テンションが高い。死人を名乗るには、あまりにも合わないのだ。

 やっぱり幽霊というのは嘘なんじゃないか。再び疑いだした青砥の目に、信じ難い光景が映った。それは、髪やスカートが風に靡かない、なんて比較にならないくらいの明らかな異常事態で。

「なっ…………⁉」


――したり顔の燈奈が、ふわりと宙に浮いていた。


「ほら、浮いてるでしょ?」

「す……すっごーい!」

 声も出せない青砥の隣で、紫苑が歓声をあげた。

「本当に幽霊なんだ⁉ 浮けるのってやっぱり身体がないから? それじゃあもしかして、さっき立ってるように見えたのも……」

「そう、床の位置で浮いていただけ。多分その気になればマントルとかいけるんじゃないかな! わかんないけど!」

「本当⁉ すごい! 幽霊って実際にいるんだね! あたし初めて見たよ!」

 燈奈に詰め寄る紫苑の瞳は、今までに見たことがないくらい輝いている。そんな様子に燈奈は嬉しそうに笑って、言った。


「私も、青い目の人には初めて会ったよ! とっても綺麗!」


 一瞬、空気が固まった気がした。

 冬の朝空のような薄青い目を細めて、紫苑が笑う。

「ありがとう。よく言われる」

 先程までとは全く違う、綺麗で完璧な微笑み。

「ハーフとかクウォーターなの?」

「ううん、家族はみんな日本人だよ。多分、突然変異か隔世遺伝ってやつじゃないかな」

「――もうすぐ五時になる。部活はそろそろ終わりの時間だ」

 久しく見ていなかったその顔をやめさせたくて、青砥は強引に会話に割って入った。

「もう解散するぞ。燈奈さん。天文部にまた来るんだとしても、あんたのことは今度にしよう」

「燈奈でいいよー、一応君より年下だし。ちなみに、天文部には毎日遊びに来るつもりだから!」

「そうか。……面倒だな」

 青砥の小さな呟きに、燈奈は「酷いなあ」とケラケラ笑った。

 その時だ。


「お二人とも、誰と話しているんですか」


 燈奈が現れてから初めて、茜が声を出した。読んでいた本をぱたんと閉じて、胸に押し付けるように抱きしめる。

「もしかして、茜ちゃんには見えてない感じ? 今ここに、燈奈ちゃんって幽霊の女の子がいるんだけど」

「何を言っているんですか。幽霊なんて、そんな非科学的な存在、いるわけないでしょう……!」

 青砥だって、そう思っていた。けれど宙に浮かぶ姿を見てしまえば信じないわけにもいかなくて、紫苑も同じものが見えているのだから、青砥の幻想でもないのだ。

 茜の声は固くて、よく見れば本を掴む手が少し震えている。ホラー系統の話が苦手なのかもしれない。

「なぁ燈奈、うちの新入部員が怯えてる。やっぱり、来るのはやめてくれないか?」

「やだ」

「やだって、お前な……」

「私、絶対また来るよ。だってそれが私の未練だから」

「……そうかよ」

 未練。燈奈は一年生の夏に死んだと言っていた。もっと部活を楽しみたかった、とか、そういうことだろうか。

 それを拒否するのは、流石に青砥にはできなくて。


――キーンコーンカーンコーン。


 五時を告げるチャイムが鳴る。延長届けを出していない部活は完全下校の時間だ。

「茜ちゃんだけ燈奈ちゃんのこと見えないの、ちょっと寂しいね」

「……そうだね。残念」

 ぽつんと呟いた燈奈の声が、リノリウムの床に落ちて消えた。

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