第4話 弟の場合

 美輝の部屋のさらに左隣の部屋の前に立つと、美優はドアをノックをした。


「光輝~、美優だけど入っていい?」

「うん、いいよ~」


 部屋の主の声がしたので、美優は扉を開いてなかへ入る。この部屋は白を基調としていて落ち着いた雰囲気があるが、所々に弟の意向で、壁紙には星のような模様が施されている。彼は星空を眺めるのが好きなのだ。

 そして普段は部屋がきれいに整われているのだが、驚いたことに、今日は色んな書籍があちこちに散らばって足の踏み場もなかった。そして当の弟は、机の前に座り、枯れている「ねこじゃらし」をじっと見ている。


(摘んできたのか……? でも、何故?)


 美優はそんなことを思いながら、何とか本を踏まないように机の方に近づき、熱心に「ねこじゃらし」を眺める弟に尋ねた。


「何やってんの?」


 すると光輝はちらりと姉を見た後、再び手元の植物に目をやった。


「『エノコログサ』を見てた」

「『エノコログサ』? 『ねこじゃらし』じゃなくて?」

「『ねこじゃらし』の正式名称が『エノコログサ』なんだよ」

「へえ……? まあ、猫の前で振ったら好かれそうだよね」

「うん。でもさ、エノコログサのすごいところはそこじゃないんだよ。お姉ちゃんも植物の光合成のこと知っているでしょ?」

「もちろん」


 中学の理科で習った内容である。美優は大きく頷いた。


「光合成は、光と水と二酸化炭素からブドウ糖やデンプンを生み出すのと同時に、酸素を出す働きのことだよね。ちょうど今は夏だし、日の光も強い。だから、光合成が沢山行われている」

「うん」

「でも二酸化炭素が不足していることが原因で、光が沢山あっても、光合成ができる限界があるんだよ」


 弟の言葉に、美優は目をぱちくりさせた。


「え⁉ だって今、地球温暖化って言ってて、二酸化炭素の量も増えているって言ってるじゃん!」


 すると光輝は「そういえばそうだね」と言って言葉を続けた。


「確かに地球温暖化に二酸化炭素の量は関係していると言われているよ。だけど、温暖化の原因は単純にこのせいだけじゃないんだ。そりゃもう、とても複雑で……だから大国のお偉いさんたちが『そんなの根拠ない』って言っているんじゃないか」


(え、そうなの……?)


 美優はよく分からないまま「ふーん?」と曖昧に答える。だが光輝は気にした風もなく話を続けた。


「とにもかくにも今の世界の二酸化炭素量は植物にとっては、全然少ないくらいなんだよ」

「そうなんだ……」

「まあ、僕も聞きかじった程度のことだから、大して詳しくはないけど、そういうことらしい」

「はあ……」


 聞きかじった話にしては、中学生が学校で習うような話ではない気がする、と美優は思う。


「それで、エノコログサに話を戻すけど」


 そう言って彼は持っていた「エノコログサ」を美優に渡した。彼女は内心「いらないんだけどな……」と思いつつも受け取る。


「これは『C₄植物』っていわれていて、一般的な植物よりも二酸化炭素を沢山取り入れることが出来るんだ。二酸化炭素を沢山取り入れるっていうのは、植物にとっては大変なことで、空気中から取り込もうとすると必然的に乾燥の危険性がある。だけどエノコログサは、一度に沢山取り入れられるから、光合成も他の植物よりも効率的に、しかも乾燥の危険性を低く抑えて行えるってわけ」

「へえ…………」


 と、美優はテキトウな相槌を打ったあとにハッとする。


「いやいや、ちょっと待って! 何の話?」

「お姉ちゃんが、『何やっているの?』って聞くからエノコログサの話をしただけだよ」


 光輝はきょとんとした表情を浮かべるが、美優は首をひねった。


「そうだっけ?」

「そうだよ。ねえ、面白かったでしょう?」

「う、うん。面白かったよ」


 美優は無理に笑って楽しそうに答えるが、本当は全然楽しくない。しかしそんなことは言えないので、表面を取り繕うと、弟は満面の笑みを浮かべた。


「そうでしょ!」


 良心が痛むのを感じながら、美優はようやく本題に入った。


「ところで、さ。私の本がなくなっちゃって……どこにあるか知らないかなと思って聞きに来たんだけど」

「本? タイトル名は?」

「『乙女ゲームの悪役令嬢に転生したと分かったので、スローライフを目指そうとしましたが、主人公が消えたから一緒に探してほしいとヒロインに頼まれたので、探す旅に行く羽目になりました』ってタイトルなんだけど……」

「タイトル長っ! お姉ちゃん、よく覚えられるね、そのタイトル。すごいな」


 感心されるが、美優はあまり喜べなかった。たかがタイトルを覚えているだけである。それよりもエノコログサのことを調べている弟の方が、世の中のためになりそうだ。……何に役に立つかは分からないが。


「すごくないよ。全然大したことないって」

「そんなことないと思うけど……」

「まあ、それはいいんだけどさ。その本をどこかで見かけてない?」

「ううん」

「そっか……」

「良かったら、僕の本読む?」

「光輝の?」

「うん。『量子力学』とか『相対性理論』とかあるよ。あ、植物の本は今読んでいるから貸せないんだけど……」

「いやぁ、遠慮しとく」

「そう? でも読みたくなったらいつでも貸すから言ってね?」


 きらきらとした顔で言われるが、一生読まない気がする、と美優は思う。しかしそんなことは言えないので「そうするね」と笑って答えておいた。これも姉の優しさである。


「ところで、お姉ちゃんが探している本は面白いの?」

「私は面白いけど、光輝にはつまらないかも……」


 美優はそう言って内心を隠すように軽く笑う。

 異世界ファンタジーものが好きな兄と、ミステリー小説好きな妹ですら「読みたくない」と言っているジャンルだ。科学的な話ばかり読んでいる弟が好んで読むとは思えない。

 だが、兄弟のなかで一番食いつきがよかったのは何故か弟だった。


「そうなの? でも、気になるから、もし見つかったら貸してね。約束だよ」


 思春期の中学二年生とは思えないほど、純粋な眼差しで見られて美優は微妙な心地になる。これは寧ろ読ませてはまずい気がすると思いながら「……見つかったらね」と答えた。

 そして彼女は持っていたねこじゃらしを返すと、弟の部屋を後にした。


*****


「光輝でもなかったか……」


 なんだかどっと疲れたような気がしながら、美優は自分の部屋に戻るのだった。

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