第5話 遭遇とお願い
ドサッ、という大きな音が響く。
いたたたた……と顔を上げると、目と鼻の先に伊与木さんの顔があった。
シャツは水に濡れ、柔らかな白い肌にぺたりとくっついている。
おまけに黒い下着が透けていた。
はぁ、はぁという細かな息遣いだけが聞こえてくる。
伊与木さんに覆いかぶさるような態勢。
確かな体温を持った体が触れ合い、伊与木さんの足が俺の足に擦れた。
視線が交わる。
時折見る吸い込まれるようなとろんとした瞳が、俺をじっと見つめていた。
何故こんなことになったのか。
それは数時間前に遡る。
♦ ♦ ♦
男には見られたくない瞬間というものがある。
それは――ちょっとえっちな漫画を買う時だ。
別に悪いことではないのだが、それを見られて変に「アイツ根暗の癖にえっちな漫画買うとかむっつりでキモー」と思われたくないのだ。
その危険を回避するために最も有効な手段は電子書籍だが、紙派の俺はその手段を取れない。
何なら本棚にずらりと並んだ本たちを見るのが趣味なまであり、忍んで買うしかないのだ。
というわけで、現在駅前の本屋でキョロキョロと周囲を見渡す俺である。
周囲に誰もいないことを確認する。
特に最近遭遇しすぎる伊与木さんがいないか、だ。
バイト先も同じで、何故かシフトの時間も丸被りしている。
もはやここ最近、休日を除き毎日伊与木さんに会っているのだ。
偶然と思えないほどに伊与木さんには何か縁がある気がしてしまう。
「でも、いなさそうだな」
しっかりと首を振り、そしていざ! と漫画を手に取る。
三か月も新刊を心待ちにしていたが故に、思わず頬が緩んでしまった。
さて、早く帰ってこれを読もう。
そう思い立ってレジに向かって一歩踏み出したその瞬間。
「あれ? 入明くん?」
本屋ですら輝くオーラを放つ学園のアイドル、伊与木さんに遭遇した。
……冷や汗が止まらない。
「い、伊与木さん。ご、ごきげんよう」
「ご、ごきげんよう?」
「いや!なんでもないです!なんか遭遇率すごいですね……あはは」
「ほんと、偶然なんですけどねぇ。すごいですねぇ」
「じゃあ、俺はこれで」
いい切り方だ俺!
そう自画自賛したのも束の間。
パシッ、と伊与木さんに腕を掴まれ、思わず手から漫画を離してしまう。
地面に落ちたえっちな漫画と、固まる俺。
伊与木さんは無言で本を拾い上げ、表裏と二度見た。
……終わった。
「……これ、面白いですか?」
「え、あっ、まぁ……」
そんな好きじゃないよ、と誤魔化せればよかった。
そしたら俺は食い気味にえっちな漫画を買ったと思われなかっただろうし、「男の子ならちょっとは興味持つよね」くらいで終わったかもしれない。
しかし、俺はこの作品を愛していた。
もはや奴隷ですらあった。
俺の生きがいに、嘘などはつけなかった。
「……大好きです」
やってしまった。
これで俺は伊与木さんの中で、食い気味にえっちな漫画を買う奴になってしまった。
落ち込んでいると、ふぅーんと伊与木さんが立ち上がる。
「じゃあ、私も読みたいです」
「……え?」
思わず耳を疑ってしまう。
ただ伊与木さんは至って普通の表情で、平然としていた。
「入明くんって、これ全巻持ってるんですか?」
「一応持ってますけど」
「じゃあ、もしよければ貸してくれませんか?」
「えっ? でも、なんていうかその……これ、ちょっと過激な描写あるっていうか、えっちっていうか……」
女の子はそういうのは苦手と聞く。
もしかしたらさっきちらりと見ただけじゃ分からなかったかもしれないし、ドボンを恐れての発言だった。
しかし、伊与木さんは俺の斜め上をいった。
「私、えっちなの嫌いじゃないですよ」
頭がショートする。
清楚で品のある女の子で。
ましてや男嫌いで恋愛などクソくらえの姿勢でいる学園のアイドルが。
俺にえっちなのが嫌いじゃないと、そう言ったのだ。
「それに、入明くんがどんなものが好きなのか知りたいんです」
「そ、そうですか。まぁ俺もこの作品好きですし、好きな人が増えてくれたら嬉しいですけど」
「じゃあ貸してもらってもいいですか?」
「……まぁ、いいですよ」
「ありがとうございます、入明くん」
とんでもないことになってしまったな。
まさか俺が伊与木さんにえっちな漫画を貸すことになるなんて。
セクハラで訴えられたりしないだろうか。
「じゃあ今度、ちょっとずつ学校に……」
待てよ。
学校で渡すのはよくない気がする。
だって相手はあの伊与木さんだ。
伊与木さんが俺みたいな奴からえっちな漫画を借りてるとなると色々変な誤解が生まれかねない。
「学校で渡してもらうのは、荷物になっちゃいますよね」
「そうなんですよね」
「じゃあ、その。もしよければ……入明くんのお家に行ってもいいですか?」
「え? お、俺の家?」
「はい。入明くんの家で読めば、運ぶ手間も省けますし」
確かに俺の家で読んでしまえば持っていく手間がない。
しかし、一人暮らしである俺の家に伊与木さんが出入りするのは色々とマズい気がする。
それに、これは根拠のない感なのだが。
伊与木さんを俺の部屋に入れることは危険だと、本能が告げていた。
伊与木さんは、ただの美人な人ではない。何かある。
それは間違いない。
「で、でも俺の部屋狭いし、自分の家で読んだ方がいいと思いますけど」
「それはそうかもしれないですけど……言いづらいんですけど、私、入明くんの部屋に興味あるんです」
「きょ、興味?」
「は、はい。せっかく仲良くなれたんだし、お家に行ってみたいなって」
そうは言っても、俺たちは男女だ。
もしかして、そう思ってるのは俺だけで、伊与木さんは全く気にしてないってことなんだろうか。
だとしても、伊与木さんを家に上がらせるのは……。
「お願いします、入明くんっ?」
「え、えっと……」
「入明くん、お願いしますっ」
「……」
「お願い、入明くん?」
「……わかりました」
「ほんとですか? ありがとうございます! ふふっ、楽しみです」
伊与木さんに見つめられて、思わずオーケーしてしまった。
それに……なんだろう。伊与木さんにお願いされると、不思議といいよと言ってしまいたくなる。
あれだけ家に上がらせるのは……と思っていたのに。
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