目の前のこと

天使のような男の子たちは、ありあまるその破壊衝動はかいしょうどうを、

野に咲く桜草さくらそうたちに向けた。色とりどりのスニーカーが、

次々と桜草をなぎ倒し、踏み潰し、ぐちゃぐちゃにしていく。

天使たちは代わる代わる飛び跳ね、大地を鳴らし、

甘く無邪気な声をあげ続ける。その光景を、

しげみの陰から、ひとりの少女がのぞいていた。


彼女は、小さな蛇苺へびいちごの実を舌で転がしながら、

きもせず、男の子たちを眺め続けている。

胸がドクドクと打つのにしたがい、彼女の感覚は開いていった。

内と外の感覚が溶け合って、いっそう鮮烈せんれつになっていく。

男の子たちの身体の動き、声、その表情。うずく身体、熱すぎる吐息、あたまのなかの冷たい痺れ。

まばたきが無意識に少なくなっていく。だがそのことに彼女は気がつかない。

ただ、網膜もうまくにかゆみを覚えるだけだった。眼球の奥に異物があるような、まるで何かに圧迫されるような。


 男の子たちに犯されていく桜草。桜草。桜草。

 奇声に呑み込まれていく桜草。桜草。桜草。


うごめくような光景、身体をつらぬく叫び声。

ありとあらゆる感覚が蛇苺をもてあそぶ舌先に結びついていく。

彼女の口のなかはみるみるうちにヨダレでいっぱいになった。

あふれたヨダレが口のはしからトクトクとながれ落ち、

彼女のあごと首筋を濡らしていく。それでも、口からこぼれるものよりも、

内側からあふれてくるもののほうがずっと多かった。

そんなことだから、彼女は上手く息ができない。なぜだろう――彼女のあたまには、

ヨダレを吐き出すという考えが、いっさい浮かんでこないようだ。

その代わりに、べつの考えがあたまをよぎる。


  この蛇苺はあたしに丸呑みにされたがってる

  ヨダレと一緒に呑み込んで欲しいんだ

  こいつはあたしのなかに入りたがっているんだ


口のなかのヨダレと乱れる呼吸にのどかれ、

彼女は、鼻からうわずった声をもらしてしまう。

その声に反応したのか、地面に横たわっていた一本の桜草が、

ゆっくりとあたまをあげ、彼女の身体のいちばん深い場所にささやきかけた。


「気にしないで こんなにグロテスクに殺されても、わたしたちは天国に行けるから

 あなたもそうよ? だから心配しないで――」


ささやく桜草は青いスニーカーに踏み殺されてしまった。

彼女は目をぎゅっと閉じ、天国のことを考えた。

空想のなかの天国はあまりにまぶしすぎて、

長く思い浮べていることができなかった。

美しさに燃えているみたいだ、と彼女は思った。

無理に思い浮かべ続けていると、

あたまがおかしくなってしまう。そんな気がした。

あたまのなかが燃えてしまうんだ。

 なんだか と彼女はあたまのなかで小さく呟いた

 地獄みたいなところだ

彼女は目を開き、口のなかのヨダレと蛇苺を足もとに吐き出した。


見ると蛇苺はすでに発芽はつがしていて、

無数の小さなをうねうねと伸ばしていた。

蛇苺に真っ赤なスニーカーが乗せられた。

わずかな抵抗ののち、蛇苺は――ぷちん――と音を立てて潰れてしまった。

中からあふれ出した内臓は、小さくはあっても、確かに動物のそれだった。

お菓子のような香りが鼻をかすめた。

かすかな風にあたまを撫でられ、少女は顔をあげた。

踏み荒らされた影。横たわるいくつもの影。

どこか遠くから、汽笛きてきの音が聞こえてくる。草原そうげんのなかを、列車のイメージが疾走しっそうしていく。


人のいない世界に、たったひとりで取り残されてしまった。なぜかそんな気がして、彼女はあたまが真っ白になった。

家を出るときに顔を合わせた両親は、初めて見るような表情をしていた。ふと、そんなことがあたまをよぎる。さみしげで、何かをなつかしんでいるような。そんな表情だった。


彼女は、瓦礫がれきになった自分の家を思った。ミイラになった両親のことを思った。廃墟はいきょになった街を思った。腐臭ふしゅうに慣れていく自分を思った。

異形いぎょうの動物たちを思った。卵を産む植物を思った。瞳のある果実を思った。えた昆虫を思った。

灰色の大地を思った。真っ黒な海を思った。いつも通りの空を思った。夜の孤独を思った。


親切なモグラのことを思った。タケノコのスープを思った。球根きゅうこんのピクルスを思った。土の寝床ねどこを思った。モグラの歌を思った。生活を思った。笑顔を思った。永遠を思った。

苦しみを思った。寝顔を思った。祈りを思った。時間を思った。命を思った。あきらめを思った。


地底湖ちていこの静けさを思った。モグラのことを思った。感謝を思った。後悔を思った。

独り言を思った。歳月さいげつを思った。記憶を思った。澄んだ孤独を思った。土の感触を思った。土の天井を思った。眠りを思った。想い出を思った。

せた自分を思った。自分の骨を思った。地下のぬくもりを思った。溶けていく自分を思った。化石になる自分を思った。

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