第三の時間

長い時間が過ぎたような気がした。けれど実際には、時刻は四時を回ってさえいなかった。そこからの記憶はひどく曖昧あいまいだった。


薬草のリキュールを飲んだ、たくさんのひつぎを見た、ピアノを弾いた、美術館に行った、カプセルチョコレートをいくつも食べた、どれも「した気がする」というだけで、実際の記憶ではないのだろう。


いつのまにか私は、路地裏ろじうらの少しひらけた所で、大きく手を広げて回転していた。

数分前から空が回転していて、おかしいなとは思っていたけれど、もう手遅れだった。

私ね、戸惑とまどうときには、とことん戸惑うことにしているの。だから私、回転しながらいつまでも戸惑い続けた。


思えば、私はずっと戸惑いながら生きてきた。

子どものころからの疑問。疑念。

平然とした顔で生きる周囲の人たち。

そして世界への不信感。

それは、違和感なんて言葉では足りない、確かな違和だ。

回転する時計を見るたび、私の世界は不条理ふじょうりに沈んだ。

認識の世界から、イメージだけが接続していく世界に変わった。


どうしてこの世界の時計は右回りに回るのだろう? 左に回って何がいけない?


とくに私の心をざわつかせるのは、「時計回り」という言葉まで作り出してしまった人類の作為さくいだ。何が彼らにそれをさせたのだろう? 彼らの心をき立てたものは何?

私たち人間は、こんなにも自由な世界に生まれて、どうしてこうも窮屈きゅうくつに生きるの?


私は左回りにぐるぐると回り続ける。胸をはって、首を反らし、空をまっすぐ見上げながら。


私はこのとき確かに、一陣いちじんの風だった。

遥か上空を流れる強い風も、周回しながら輝く太陽も、決して私を止められないだろう。


晴れた空には適度に雲が出ていた。だからこそ私は、回転の実感をはっきりと得られる。

私は確信した。これは祝福の空だ。空が私を祝福してくれている。左回りに回る私の歓喜かんきを。自由を。高鳴りを。


私は回転の速度をあげる。スピードは次のスピードを生む。私は私に回される。

私は回る。ぐるぐると回る。

私の手ごたえと予想を上回り、空は滑るように回り出す。

まるい空は、機械に巻き込まれたかのように、あり得ない速度で回転していく。

肉体で感じる回転数と視界の回転数は、あきらかにずれているように思えた。


それとも、世界そのものが回転している?


まさかとは思う。けれどそれは実際のところ、あり得てもいい話ではあった。

だって私は風そのものなんだ。さらに上空では祝福のパレード。

世界が回転したところでなんだろう?

私はただ、回転するだけだ。喜びを回転で表現するだけだ。ただひたすら、左回りに回転するだけだ。

空は回転を繰り返し、青さを際立たせ、次々と私のなかに飛び込んでくる。

世界がこちらに接続するというなら、私はそのすべてを受け入れる。

私は、世界の回転を一身いっしんになう。

これまで右回りだった分、左回りに世界を回す。


太陽が赤くまたたいたような気がした。


時が巻き戻っている? だとしてなんだ?

いまさら私は、なにを戸惑っているんだ?

それは充分に起こりうることじゃないか。

世界はすでに解放されているんだ。


世界は今、これまでの不条理をうったえているんだ。

これまでの悲しみを思い出して、泣いているんだ。

世界はどこかで間違えてしまった。それをなげいている。

修正しゅうせいしようと必死に努力をしてきたのだろう。

けれど世界は、もはや手遅れだとさとってしまった。

それほどまでに、この世界は狂い切ってしまった。

いや、そうじゃない。ただ、ことわりから外れてしまっただけだ。

世界はまだ理性を保っているし、希望を捨ててはいない。

回転している私が、その証拠しょうこだ。

私の回転は、私ひとりのものではなかったんだ。

世界全体の喜びでもあったんだ。

私は喜びの涙を流す。

世界はただのうつわではなく、それ自体で輝く美しいものだと、私は知った。

世界は希望にあふれていると、私は知った。

私でさえ希望だと、私は知った。


だから私は回転する。

ゆえに私は回転する。

左回りにぐるぐると回る。

いつまでもそれを続ける。

すべてを祝福し、回転する。

空と、世界と、風と、時間と、

すべてをたずさえ、私は回る。

両手を広げ、空を仰ぎ、

私は左回りに回転する。

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