魔法をかける、幻惑される

二 個別の日常生活

「さがしもの、さがしもの。

「ねぇ、私のブローチ知らない？」

　　「噛みタバコ噛みタバコ。

「ハチミツ色の琥珀（こはく）のブローチ。

　アリの入った素敵なブローチ」

　　「噛みタバコ噛みタバコ。

「虫おさえ、白バラのロンド。

　鼻につく舟歌。気持ちわるい舟歌」

　　「噛みタバコ噛みタバコ。

「このワイン、味も香りも凄いわね。

　田舎訛（いなかなま）り。冷たいだけの窓ガラス」

　　「噛みタバコ噛みタバコ。

「スープのかたち、どうかしら？

　隠し味は凍ったゼリー」

　　「噛みタバコ噛みタバコ。

「石畳（いしだたみ）のオペ室。徒花（あだばな）のソテー。しだれ桜の穴場。

　昏（くら）い雨夜（あまよ）の、肥（こ）えた受け壺（つぼ）のその悩ましさ」

　　「噛みタバコ噛みタバコ。

「戸締まりだけじゃあ足りないみたい。

　あのニュース――凄かったものね」

　　「噛みタバコ噛みタバコ。

「ステーキナイフ欠けちゃった。

　のど飴（あめ）。裁縫（さいほう）道具どこだっけ？」

　　「噛みタバコ噛みタバコ。

「フィンガーボールの逸話（いつわ）が好きなの。

　季節のたびに夢を見るのよ」

　　「噛みタバコ噛みタバコ。

「右回り。夜明けまでおよそ三時間。

　ぼんぼん時計が鳴らないせいよ」

　　「噛みタバコ噛みタバコ。

「水腹のナプキン。目の肥えた合わせ鏡。

　日々の生活をこうも間違うなんて」

　　「噛みタバコ噛みタバコ。

「ねぇ、私のブローチ知らない？」

　　「噛みタバコ噛みタバコ。