魔法をかける、幻惑される

倉井さとり

一 噂のなかの夜

私たちは今日もみずからに問いかける

かたちにならない想いをかたちにするために、

小さな地図に曖昧あいまいなものを並べていく


たとえば飲めないコーヒーに、壊れたシャープペンシル。

あるいは、過眠かみんのだるさと眠れない焦り。

それからホットミルクの膜、ロフトの上のベッド。

散歩にだけ使うスニーカーに。目の渇きがそう

キャラメルの匂いの香水に。やわらかい飴玉がそう

ほどけた靴ひもがそう なぎに気づく感覚がそう

汚い水たまりがそう 私がそう あなたがそう

私たちがそう 意識すべてがそう




骨組みのような街並みは、強迫観念に囚われたように、

「昼夜」をレバースイッチで入れ替える

月明り――それは鏡のかかえる白日。私たちの街は、

太古の心象のなかに浮かぶ、束の間のエラーコード

深海を這いまわる緑色のゴム手袋が、指先でそっと、

グロテスクな深海魚のあたまを撫でた。すると――、

深海魚はうれしそうに泡を吐く「噛みタバコ噛みタバコ。

「噛みタバコ噛みタバコ。「噛みタバコ噛みタバコ。




広陵こうりょう地帯を抜けると、そこは別荘地

無人の別荘地 だれもいない別荘地

廃墟はいきょのパロディ、洋館のモニュメント、そんな雰囲気だ

洋館の落ち着いた外観は月明かりをモノクロームに溶かし、

地にはりめぐらせる根の先からくらい地底へと送り出す


 空想のスラム街に初めての雪が降る ミゾレ ミゾレ ミゾレ

 だれにも聞こえない空耳の声 渇いて冴えた 視線と響き


さらに進むと、そこは国境をかねた峡谷きょうこく

地表は刻み込まれている

鋭利なナイフで幾度もそうされたように、

深く、長く、執拗しつように――

出自をほのめかすような傷跡は、

国境にはうってつけかもしれない


峡谷は幼い夜を抱きかかえ夢の言葉でなだめすかす

折りかさなる濃紺のうこんは谷底に流れるささやかな小川の

流水――せせらぎを覆い隠し地の底へと押し込める

月の雫がぽたりと音を立て――

見えない唇がぱっと弾けて――

淵にたまる暗闇が、

うみのようにうごめいた

それはさらなる浸食だろうか――

あるいは治癒ちゆきざしだろうか――


峡谷の向こう側には麦畑が広がっている

見わたす限りどこまでも続いている

分裂 あるいは平面説のイメージ

世界は皿のようなかたちをしていて、

海には果てがあり、海水は滝となって

奈落の底へと消えてゆく

滝はやがて散り散りになり、

雨に姿を変え、べつの世界にそそがれる

そんなイメージだ。きっと向こうは楽園に違いない――


住人たちは主観に身をまかせ、直観だけを頼りに生きている

春になれば、ねじりそうがあたりいちめんにい茂り、

薄ピンクのねじれた花々は野を淡く染め、

甘くかすかに香り、春はいっそう春めいてゆく

雨の予感に、ねじり草は花を大きく広げ、その時を待つ

しばらくすると、こまかな雨がまばらに降り出し、

やがて糸を引くような大粒の雨になる

ねじり草たちは、臆病な春の雨をそっと受け止めては、

花弁はなびらのらせんを伝わせ、大地へと優しく導き続ける

厳しい冬にこわばった大地は、こうして潤いを取り戻してゆく

だからこそ春は慈愛じあいに満ちあふれ、命は再度、一年を耐え忍ぶだけの活力を得る

ねじり草は雨と大地のために咲くばかりか、めぐる命のために咲く

だからもしも、何かの拍子にねじり草が絶えてしまえば、

それに連れて、すべての命が死に絶えてしまう

向こうでは、だれもがそう信じているのだ




深い森 閉じられた異界いかい

永遠の夜 月と星が消えた空

外側がなく、どこにも繋がらない場所

内側に向かって、どこまでも続く森林

無限の広さを持つ、孤独な空間

風も熱も潤いもない、平坦な世界

唯一の営みは、獣道がえが軌道きどうのみ


ざわめくはずの葉すれの音

せせらぐはずの小川の音

はじけるはずの果実

落ちるはずの木の実

そうした音を模倣もほうするように、

瞳を失った獣、鳥、虫たちは鳴き声をあげる


       入力する   入力する

   延命して 延命して

              堕天使   堕天使

  味わう    味わう

   分裂して 見つめ合って  分裂して 見つめ合って




火の用心はどうする? と、街の中心部から声があがる

「どうやって気を利かす?」

街の消防団の酒宴しゅえんの席らしい。彼らは

住宅地の真ん中でもうもうと煙をあげ、

バーベキューに興じている

網の上には、肩ロース、手羽、クルマエビ

「ジョークのひとつあってもいいさ」

彼らは、明日あすに行う注意喚起かんきに思いをめぐらす

「俺たちのジョークでこの街を燃やしちまおう」

彼らの職種、年齢、生い立ちはバラバラだが、

理想郷への思いだけは共通しているようだ

「俺たちの声がけで、どれだけの命が救われているんだろうな――

辛口のビールがアスファルトにこぼれ、だれにも気づかれずに蒸発し、

甘い幻覚となってあたりを漂う「噛みタバコ噛みタバコ。

「噛みタバコ噛みタバコ。「噛みタバコ噛みタバコ。




キャラック船が小さく産声うぶごえをあげた

数日前に生をけてはいたが、たった今それに気がついたらしい

ボトルシップの底には、氷色のガラスの欠片が敷き詰められている

キャラック船は追い風を受けた姿のままで動きを止めている


少年は自室で回想にふけ

彼は硬い椅子に腰かけている

背もたれがときおり悲鳴をあげる

顔は両手で覆われて

瞳は閉じられ耳にはイヤホン

火災報知器は息を殺している

無線周波数はゲラ笑いしている

有線ラジオが自分語りを始める

お笑いタレントがひどい下ネタを吐く

女性マルチタレントはそれにほくそ笑む

  「ぼくの生き方、じつはコレね、神話を意識しているんだよ――

  「わたし、あなたのそういうところが好きだっていうんです――

悪趣味な猥談わいだんがこれ以上ないほど理知的に語られる


ややあって、はし休めにリクエスト曲が流される。少年のリクエストだ。

デビューしたばかりの若手バンドらしく、イントロはいっさいない。

ツインボーカルで男女の組み合わせ。どちらの歌声も中性的だ。

抽象的ちゅうしょうてきすぎる歌詞だがメロディーには妙な中毒性がある。


 ――私たちは神の末裔まつえいらしいが、そんなの知ったことじゃない――

 ――理屈なんて、知性のほんの一部でしかない――

 ――英雄きどりは神話のなかのため息にすぎない――

 ――だれかの理屈で優しさが殺される世界だ――

 ――間違い探しばかりの窮屈きゅうくつな世界だ――

 ――それでも、明るい歌くらいは明るく歌おう――

 ――ぼくたちの声は風よりも速く世界をかけめぐる――


要約すると、二人はこういったことが言いたいらしい。


少年は機械のように回想に耽る。

過去と現在を往復する。何度も往復する。

オープンカーが疾走しっそうしていく

キャラック船が水飛沫みずしぶきをあげる

エンジンが壊れる マストが折れる

ヒッチハイクする 死地をここに決める




夜は壊れた目覚まし時計

ストップウォッチは、

小刻みな鼓動を繰り返す

日時計の広場には置時計の影

見上げれば砂時計のビルディング

きみの懐中かいちゅう時計は、腹に魚卵ぎょらんをかかえている

きみの腕時計は、からくり時計と同期している

きみの鼓動は、だれかの鼓動と繋がっている

これは神の意思じゃない。だけど、本当のことだ。




「いまどきは賢く生きなくちゃ「社会になんて頼っていたら」

「みんなまとめてミイラになっちゃう「本当よ?」


紙芝居のはじまりはじまり。むかしむかし。

あるところに。玉手箱がありましたとさ。おしまい。

バラの黒色、パステルカラーに溶け出して

咲くために、枯れる夢を見る

ヘンゼル、お次はグレーテル

ひつぎは夜に閉ざされている

夜に沈むたび円寂えんじゃくを繰り返す

月は満ち欠けを繰り返し生死を反芻はんすうする

夜空とは死の木洩こもなのだと知覚する


「死は苦い「だが蒸留じょうりゅうすると「痺れるほど甘くなる」

「道端のタンポポが」ぼくの身体に」そう教えてくれたのです」

 あの花屋の主人 どこかおかしい そのうち狂う


「このガーベラもうダメだな「魂が抜けてる「介錯かいしゃくしてやらないと」

「お父さんは本当に忘れん坊なんだから「お母さんはもう――」

「老後資金になったでしょ?」膝枕ひざまくら、膝枕 花の声、花の声

実石榴みざくろは歯抜け小僧にゃキスの味「噛みタバコ噛みタバコ。

「噛みタバコ噛みタバコ。「噛みタバコ噛みタバコ。

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