第八章

       一


 相変わらずセミ女は人の後をいてきて何やら話している。

「……だろ」

「ああ」

「……なのかい?」

「そうだ」

「ホントだね!」

「ああ」

 無視しているとしつこく訊いてくる事があって面倒くさいから適当に相鎚だけ打っていた。

 鬼の事は注意して聞こうと心掛けてはいるがセミの鳴き声はどうしても耳に入らない。

 保科の名前が出た時はすぐに鬼の話だと気付いたから右から左へ通り抜けていくのは関係ない事だと見做みなしていいだろう。


 その時、不意に腕を掴まれて路地に引っ張り込まれた。


「なんだ……!」

 言い掛けた流に、黙れというように、つねが自分の口の前に人差し指を立てた。

 つねは、そっと通りを覗くと即座に顔を引っ込めた。


「一体なんだ」

 流が声をひそめて訊ねると、

「あそこに保科が……」

 つねがそう言って通りの先を指す。

 確かに保科が歩いている。

 息を殺して見ていると保科は角を曲がって姿を消した。

 保科が戻ってくる様子がないのを確かめてから路地から出る。


「きっと、あたし達を捜しに来たんだよ」

 つねが流の後ろをいて歩きながら言った。

「もうしばらく仕事休んで隠れてた方が良かったかね。でも……」

 ぶつぶつ鳴いているセミを置いて水緒の店に急いだ。


 店の中を覗いて水緒の無事を確認してようやく安心出来た。

 しかし今日は大丈夫だったとしても明日からも無事でいられるか分からない。

 このまま店に通わせていのだろうか。

 可哀想だが安全のためにはめさせるべきではないのか。


 生きていなければ楽しむことも出来ないのだ。

 家の中で楽しめることを何か見付けられないだろうか。

 めさせるほどではないにしても、しばらくの間だけでも休ませて様子を見た方がいのではないか。


 せめて保科が江戸にいる理由を確かめるまでの間だけでも……。


 流が悩んでいると水緒が店から出てきた。


「お待たせ。今日ね、お店で面白いことがあったんだよ」

 そう言うと水緒は早速話し始めた。

 話すのを待ち兼ねていたという様子でとても楽しそうだった。

 こういう姿を見ていると店に来られなくなるのは可哀想なのではないかと思ってしまう。

 気をゆるめるわけにはいかないにしても差し迫った危険はなさそうだし、もう少し様子を見てみよう。


 次の日の夕方、流が水茶屋に向かっているといつも通りセミが出てきて話し始めた。

 いつの間にかいなくなったのは自分の店に着いたからかと思って、ふと顔を上げるとセミ女の店はまだ先だった。


 あそこで働いていると思ったのは勘違いだったのかと首を傾げた時、

「流様!」

 不意に男の声がして前を見ると保科がいた。

 流が身構える。


「流様、今度こそお迎えに参りました」

「迎え?」

「最可族の村にお迎えする準備が整ったのです。相模様――御父君もお待ちです」

 何故父親自身が来ないのかは分からないが、保科が流を様付けして呼んでいるという事は偉い立場なのかもしれない。

 人間でも、偉い者は気軽に外出できないと言っていたが鬼も同じなのだろうか。


「五年前、俺を迎えに来た知り合いというのはお前か?」

「はい」

「その時、すぐに村に行かなかった理由は? 俺が水緒やお前と暮らしてたのは最可族の村じゃないんだろ」

「あの時はまだ村にお迎えする準備が整っていなかったからです。私はお連れできるようになるまで流様をお守りするためにお側にいたのです」

 水緒の家を出ていく時、流は『知り合いが迎えに来たから』と告げたと聞いている。

 そして水緒が流と再会したとき一緒に住んでいたのが保科だった、と。

 流を鬼から助けたことがあると言っていたし、おそらく迎えに来た知り合いとは保科のことで間違いないのだろう。


「他の鬼からお前が混血の最可族を殺そうとしていると聞いた。俺も混血だろ」

「ああ、あの鬼の女ですね。あの女を狙わせているのは私ではありませんし、狙われている理由も混血だからではなく母親が可支入族だからです」

「?」

 流は首を傾げた。

「つまり、混血だからってことだろ」

「問題なのは混血ではなく可支入族との間に生まれた子と言う事です」

 可支入族の〝可支入〟というのは〝かしり〟のことで、この一族の血が入ると災いがもたらされると言われているから殺そうとしている者がいるらしい。

 他の一族なら特に害は無いから殺す理由にはならないとのことだった。


「なら、俺が今まで狙われてきた理由は? 単に見境なく殺し合ってるだけなのか?」

「いくらなんでも身内を意味もなく殺したりはしません。流様は相模様の跡継ぎだから狙われていたのです」

 どうやら流が狙われていたのは跡目あとめ争いのせいだったらしい。

「準備が整ったっていうのは? 決着が付いたと言う事か?」

「相模様が根気強く皆を説得したのと、四人のうち二人が亡くなりましたので、どちらにしろあなたとあなたの兄上しか残っていませんから」

「残る一人も納得したのか?」

「いえ。ですから早く村に行って相模様の庇護を受けないと危険なのです」

 つまりまだ狙われているのだ。


「水緒を連れていくのは無理なんだろ」

「ただの人間なら警護させる事も出来ますが、供部ではどれほど信頼の置ける警護の者でも隙があれば喰ってしまうでしょう」

「ならもう一人に伝えろ。俺は跡継ぎにはならない」

「お待ちください! 相模様は苦心して皆を説得されたのです」

「俺は頼んでない」

「しかし可無かん様を殺してしまわれたのはあなたですよ」

「え?」

「この前の寺であなたが殺したのはあなたの兄上の可無かん様です」


 この前の寺……。


 結界が解かれるのを待って寺に入っていった鬼はやはり保科だったのだ。

 可無かんの死を確認しに行ったのだろう。

 確か可無は流が記憶を失う前に倒した鬼を弟の名無なんだと言っていた。

 となると知らなかっただけで跡継ぎ候補の二人を殺したのは流だったという事になる。


 だとしても関係ない。

 襲ってきたりしなければ殺したりしなかった。

 可無は人を喰っていたからだが、どちらにしろ流を始末するつもりだと言っていたからいずれは襲われただろうし、そうなっていれば反撃していた。


 いる事すら知らなかった父親の事情など知った事ではない。

 鬼の村なら人間に絡まれる事はないだろうから水緒を連れて行けるなら話は別だが、水緒と離れなければならない場所に行く気はない。

 水緒が死んだら後を追うと決めたのだ。

 まだ生きているうちに離れるつもりは毛頭ない。


「相模様が汀様――あなたの母上との間に子をなしたのは一族を呪いから解放するためだったのです」

 狩りに出た先で汀と知り合い、成斥族には呪いを解く力があると聞いたらしい。

 それで成斥族の血を引く子を一族に迎え入れれば最可族に掛けられた呪いが解けるかもしれないと考えて子供を産ませたらしい。


「実際、相模様の読み通り……」

 保科は何やら得々とくとくとして語っていたが流はもう話を聞いていなかった。


 呆れたなどというものではない。

 流のことを呪いを解くための道具としか思ってないのだ。保科も父も。


 呪いが解けるかもしれないからと言う理由だったのなら母が父との間に子をなす事を望んでいたかどうかも怪しい。

 鬼なのだから力尽くで母に子供を産ませたと言う事は十分有り得る。


 生贄にするために同じ人間を家畜のように増やして売り買いする供部と言う一族も大概だとは思ったが、呪いが解けるかもしれないなどという不確かな理由で子供を作った父も同類だ。

 流を跡継ぎにしたいというのも自分の子供だからではなく呪いを解くためなのだから愛情など欠片もないのだ。


 兄にその能力ちからがあれば流に用はなかったという事になる。

 人間の決まりなどどうでもいいと思っている流ですら、他の者を道具にしようなどとは考えない。


 自分を道具だとしか思っていない鬼のところに水緒と離れ離れになってまでいくなど冗談ではないし、母がいた時もいなくなった後も助けてくれなかった者のために何かしてやる義理もない。

 まだ一人残っているのだからそいつを跡継ぎにすればいいだけだ。

 流は足を止めると保科に向き直った。


「失せろ。二度と姿を現すな」

「流様……」

「今すぐ消えるか、ここで討伐されるか好きな方を選べ」

 流はそう言って目をすがめる。

 鯉口を切った流を見て本気だと悟ったのだろう、保科は黙って立ち去った。


 一族の呪いを解くために必要な道具なのだからこれくらいでは諦めないだろうが。

 可無かんもそうだったが最可族は人間を当たり前のように喰ってる鬼のようだから場合によっては桐崎や小川に相談して村ごと討伐してしまうことも考えに入れておくべきかもしれない。


 流を襲ってきた鬼のほとんどが最可族だったことを考えれば一族ごと滅ぼしてしまえばかなり危険が減るはずだ。

 というか人間との争いになった時に祟名を付けられたという話だが、人間が討伐に来るのもむべなるかな、としか言いようがない。


 こんな連中では討伐してしまおうと考える者が出てきて当然だ。

 同じ血を引く鬼の流ですらそう思うのだから餌にされてる人間なら当たり前のようにそう考えるだろう。

 保科の姿が消えた事を確かめると足を早めて水緒の店に向かった。


       二


「水緒」

 流は店から出てきた水緒に声を掛けた。

「なに?」

 水緒が顔を輝かせる。


 こんなに嬉しそうな顔をしてくれるならもっと楽しい話をしたいのだが……。


「保科には近付くな」

「え?」

 予想もしなかった話に水緒は戸惑った様子を見せた。

「あいつは敵だ。俺を捕まえるためならどんな事でもする。お前を利用出来ると思えばするだろう。絶対に口車に乗せられるな」

「昔は一緒に暮らしてたのに……何かあったの?」

「最初から俺を狙ってたんだ。お前を喰わなかったのも俺を信用させるためだ。俺がケガをしたとき追い出したっていうのも動けない状態じゃお前を守れないから遠ざけたんだ」

 流の言葉を聞いて目を見張っている水緒に、

「さっき本人の口から聞いた。それがバレた以上、今後は何をしてくるか分からない。お前の事を知ってるんだから人の話を素直に信じるって事も分かってるだろう。だから何があってもあいつの言葉を信じるな」

 と告げた。


 水緒は動揺しているようだが、流を捕まえるために利用するかもしれないと聞かされれば保科に何か言われても、おいそれとはいていかないだろう。

 ただ保科は鬼だし、流より強かったというなら水緒の力では敵わない。

 水緒が騙されないと分かったら力尽くで捕まえようとするかもしれない。


「もし保科の姿が見えたらすぐに逃げろ」

 水緒の方が先に見付けて保科に気付かれる前に逃げられればなんとかなるだろう。


「次にある行事はなんだ?」

 流は話題を変えた。

「雪見とお正月、どっちが先かな」

 水緒が首を傾げた。

「分からないものなのか?」

「お正月は日付が決まってるけど、雪見は雪が降らないと見られないから」


 それはそうだ……。


 こよみで何日なのか決まっている行事と違い、天気に左右されるようなものはおおよその季節しか分からない。


「初めて江戸に来た時、雪うさぎを作ったんだよ」

 水緒はそう言ってその時のことを話してくれた。

 物忘れになった直後は流に近付くなと止められていたが、最近は二人の仲睦なかむずまじいところを見ても桐崎は何も言わないから話しても問題なさそうだと判断したらしい。


 近付いてはいけないと言われていたから江戸から来てからの話をしていなかっただけらしく、実際にはこの五年間に様々なことがあったようだ。

 四六時中、何かしらの催しがあり、毎年それをしていたのだから色々なことがあって当然だ。


 そんな大切なことを全て忘れるなんて……。


 我ながら情けない。

 桐崎は入れ込みすぎていたと言っていたが、今以上に惚れ込んでいたのだとしたら何故忘れたりしたのだろうか。

 流は水緒の話に耳を傾けながらなんとか思い出す方法はないかと考えていた。


 翌日の夕方、流は水茶屋に向かっていた。


「流ってのはあんたかい?」

 男が声を掛けてきた。

「錦絵の娘からこれを預かってきたんだが」

 男はそう言って文を差し出した。

「え……?」

 これから迎えに行くと言う時に?


 まさか水緒に何かあったんじゃ……!


 流は慌てて文を開いた。

 文には、寺で待っている、としか書いてない。

 これだけでは水緒からの呼び出しなのか、誰かに捕まって書かされたのか分からない。

 いや、脅されたなら水緒は死んでも書かないだろう。


 ただ……。


 顔見知りに騙されたと言う事はあるかもしれない。

 流の為だとか喜ぶなどと言われれば書いてしまうことは有り得る。

 どちらにしろ水緒が待っていることに代わりはない。


「この寺へはどうやって行けばいい?」

 流が文を持ってきた男に訊ねると、

「そこなら知ってるから案内するよ」

 男はそう言って早足で歩き出した。


 寺に近付くにつれ鬼の気配が増えてくる。


 やはり罠か……。

 水緒、無事でいてくれ……。


 流は男をおいて寺に駆け出した。


 何故か男も一緒にいて来る。

 そして、

「ほら、あそこに錦絵の娘が……」

 と言って庭の奥を指した。

 そこには大勢の鬼に取り囲まれたつねがいた。


 流はハッとして手にしていた文に目を落とす。

 差出人の名前は書いていない。

 男も「水緒」ではなく「錦絵の娘」と言った。

 錦絵の娘とは、つねの事だったのだ。


 その時、

「族救」

 つねの声がした。

 流には何も起きない。

「族救」

 つねが今度はもっと大きな声で叫んだ。

 流はつねに構わず水緒がいないかと辺りを見回した。

 罠でもなんでも水緒がここにいなくて無事だという事が確かめられればそれでいい。


「どういう事だ! あいつを落としたのではなかったのか!?」

 大鬼がつねに向かって怒鳴った。

「落としたよ! あいつには腹が立ってたのに我慢して愛想振あいそふりまいてやってたんだ!」

 腹が立つというのは散々無視していたのだから分かるが、愛想あいそを振りまかれた覚えはない。

 もしかして後ろで何やら話していたのが愛想のつもりだったのだろうか。


 つねは大鬼にそう言ってから、

「どういう事だい! あたしのことなんとも思ってないのかい!?」

 流に向かって声を上げた。

「当たり前だろ。セミに惚れるヤツがどこにいる」

 冷然と言い放った流につねは愕然とした表情を浮かべる。


「あたしのこと好きだって言ったのは嘘だったのかい!?」

「そんなこと言ってない」

「あたしに惚れたか聞いたら『ああ』って言っただろ!」

 どうやら適当に打っていた相鎚のどれかのことらしい。

 あれだけ無視されていながら何故つねに気があるなどと言う勘違いをしたのかと思ったら、惚れたかと訊ねられた時に肯定するような相鎚を打っていたようだ。


「けど、役には立っただろ、左無さん。そいつの物忘れを教えてやったから、またあいつに騙されたんだし」

 つねが大鬼――左無にすがるように言った。


 え……。

 また……?


「土田、次も頼むぞ」

 背後で鬼の声が聞こえた。

 振り返ると文を持ってきた男が鬼から金を受け取っている。


 土田というのは確か鬼の手先になって流と水緒を騙した男……。


 そうだ……!


 ここは寺だ。

 なのに鬼が入り込んでいる。


 つまり土田は流を再び騙しただけではない。

 また鬼のために内側から寺の結界を壊したのだ。

 建物や庭が手入れされているのに人の気配がないのは住職達がこの鬼達に喰われてしまったからだろう。

 土田は結界を壊す方法を覚えてしまったのだ。

 となると、この先も鬼達のために次々と寺社の結界を壊していくだろう。


 流は無言で土田に駆け寄ると抜刀し様、斬り上げた。

 土田が声もなく倒れる。


「そ、そいつは人間だよ。これであんたも人間から討伐対象にされ……」

「ここにいるのは鬼とその手先だけだ。討伐先では鬼か人間か区別しなくていと言われてる」

「つね! 余計なことを言いおって!」

 大鬼がつねを怒鳴り付けた。

 つねは流を睨み付けて唇を噛み締めるとその場から逃げ出した。


       三


「まぁ良いわ。これだけ大勢いれば祟名を言うまでもなく、お前一人くらいどうとでもなる」

 左無が言った。

「母親ごと殺したと思っていたのにしぶといやつめ」


 え……。


「あの時、ホントにお前が死んだか確かめなんだのは失敗だったわ」

「…………」

「母親ごと、この爪の根元まで突き刺してやったというのに。お前の背まで貫いてやった感触があったんだがな」

 流は胸を押さえた。

 心の臓のすぐ側。

 あと少しズレていたら死んでいた場所に、確かに爪で貫かれたような傷がある。

「だが、今度こそ息の根を止めてやる。お前のお陰で名無なん可無かんも死んだから残るはお前だけだ。お前がいなくなれば後を継げるのは俺しかいなくなる。感謝してるぞ、流」


 左無の言葉を聞いているうちに幼い頃の記憶が溢れ出してきた。


 あの日、流は家の近くで栗を拾っていた。

 栗を集めて持って返ると母が煮てくれるのだ。

 それを母と一緒に食べるのが楽しみの一つだった。


 そうだ、あの頃は楽しいと思うことがあった。

 母と一緒に過ごすのは楽しかった。


 それなのに……。


 流が森の中で栗を拾っていた時だ。


「いたぞ!」

 男の声が聞こえると同時に母が駆け寄ってきた。

「流!」

 母が流を抱き締めた。

「こんなところに隠れてたとはな」

 そう言って姿を現したのが今、目の前に居る鬼――左無さんだった。

 別の鬼が流の袖をまくった。


「間違いない! こいつです!」

 その言葉に母は流の腕に目を落とす。

「そこに字が書いてあるの!?」

 と母に聞かれた。

 これが見えないのだろうかと思いながら頷くと、母はうめいた。


「それで相模が……」

 例え血の繋がった親であろうと最可族ではない母には見えなかった。

 流は母が知ってると思っていたから言ってなかった。

 だから母には流に祟名が付いているかどうか知るすべがなかったのだ。


「この子を相模の跡継ぎにはしません。ですから……」

「お前がそう言ったからと言ってなんになる。親父が力尽くで奪いに来たら抵抗出来ないだろう。成斥族などなんの力もないのだからな」

「それは……」

「恨むなら親父を恨め」

 左無はそう言うと爪を振り上げた。


「流、目を閉じて。誰もいなくなるまで絶対に目を開けちゃダメ。死んだ振りを続けなさい。その後は出来る限り遠くに逃げるのよ」

 母が流の耳元に早口でそう囁いた。

 そして抱き締めている流の身体の位置をわずかに変えた。

 その瞬間、流は胸に激痛を感じて気を失った。


 母があらかじめ流の身体の位置を少しずらしていたことで、母の心の臓を貫いた爪は流の急所をれた。

 そのため流は瀕死の重傷を負ったものの死なずに済んだ。


 重い何かの下で意識を取り戻して動こうとして母の言葉を思い出した。

 そこで耳を澄ませてみたが物音は聞こえなかった。

 これなら他に人はいないだろうと判断して〝何か〟の下からい出してから自分の上に乗っていたのが母だったと知った。


 どれだけ身体を揺すっても母は目覚めなかった。

 どれほど泣き叫んでも無駄だと悟ると母の言い付けに従ってそこを離れた。


 死んだと思われていたのは短い間だけで、すぐに生きている事を知られてしまい、その後はずっと命を狙われてきた。

 母が殺されたことを忘れてしまうほど長い間、襲ってくる鬼と戦いながら一人で生きてきた。


 おそらく水緒が手を差し伸べてくれるまでずっと……。


 母以外で優しくしてくれたのは水緒だけだったのだ。


 いや、正確にはもう一人た。

 左無に襲われる少し前だ。

 短い間だが流にはしたっていた者がいた。


 いつも珍しいお菓子をくれて色々なお伽噺とぎばなしをしてくれた。

 初めて聞かせてくれたのは、仲の良い相手から「他の人間に自分の事を話してはいけない」と言われていたのに他人ひとに教えてしまったため二度と会えなくなったというものだった。

 そのお伽噺を聞かせてくれた後「自分も誰かに知られたら二度と会えなくなるから内緒にするように」と言われた。

 その後も度々「人に知られたために二度と会えなくなったお伽噺」を聞かされていたので流は母にも言わず、いつも二人だけで会っていた。


 元々外で一人で遊んでいることが多かったから毎日出掛けても母は不審に思わなかった。

 それまで遊び相手がいなかった流にとって誰かと一緒に遊ぶのは楽しかった。


 そして十分親しくなったある日、朝餉が終わると同時に家を飛び出して会いに行くと、その人が、

「ぞくきゅう」

 と言った。

 意味が分からなかった。

 首を傾げた流にもう一度、

「ぞくきゅう」

 と言った。


 流の様子を見ていたその人は喜色満面の笑みを浮かべて「相模様にお伝えせねば」と呟いた。

 何のことか訊ねると嬉しそうな表情で「なんでもない」と答えた。

 理由は分からなかったがその人が喜んでくれたのが嬉しかった。


 次の日、知らない男が母を訪ねてきた。

 それが保科だ。


 母と流に名乗った後、母に、

「相模様は流様を跡継ぎにすることを決められました」

 と得意気な顔で告げた。

 母が喜ぶと信じて疑っていない顔付きで。

 愕然として、青ざめている母の表情にも気付かないまま。


 流を村に連れていく、と言う保科に「仕度があるから明日まで待って欲しい」と母は答えた。

 それを聞いた保科が出直すと言って帰っていくと母は大急ぎで流を連れて家を出た。


 そして母はそれまで以上に息を潜めるようにして隠れて暮らすようになった。

 流はあの人と会いたくて度々前の家に帰りたいと訴えたが母は首を振るばかりだった。


 今ようやく理由が分かった。

 流と親しくしていた者は父の使いだったのだ。

 最初から祟名を言うために近付いてきていた。

 流が祟名を呼ばれても死なないかどうか確かめるために。

 呼ばれて死んだでしまう子供に用はないから落命するかもしれない危険を百も承知の上で試したのだ。


 許せない……!


 父は呪いを解きたいからと言う理由で母に流を産ませ、母にはなんの力もないと知っていながら守ろうとはしてくれなかった。

 一族の呪いを解くためだけに母に流を生ませ、流が死ぬかもしれないのに目的に合う子供かどうかを確かめるためになつかせてから祟名を呼ばせた。


 流に祟名が付いていることを母が知らなかったということは父は一度も会いに来なかったのだ。

 父だけではなく、父の使いが来たこともなかった。

 最可族の誰かが流を見に来ていれば母は流に祟名が付いていると知っていたはずだ。


 確認出来るまでほったらかしだった。

 父は迎えにも来なかったから流は顔すら知らない。

 母も流も父にとってはただの道具だ。


 兄達は自分が跡継ぎになるのに邪魔だという理由で流を殺しに来た。

 誰もが母や流の意思は聞かずに勝手に決めた。


 抹殺しようとするのは流が後を継ぐという意思を示してからでも遅くなかったはずだ。

 命を奪うにしても流だけで良かった。

 母は流を生んだだけだったのに父の身勝手な思惑のせいで殺された。


 しかも父が流を跡継ぎにすると決めた理由を知っていたのは一部の者だけだったのだろう。

 呪いから解放されると知っていたら父の決定を支持して兄達の手先にはならなかった者もいたはずだ。


 みな流が祟名を呼ばれても死なないという事を知らなかったから兄達に従った。

 中には兄達を、年長で純血の息子だから長にすべきだと考えただけで、呪いが解けると知っていれば流を殺すのに反対した者もいたかもしれない。


 父達が黙っていたから皆が流の祟名を言わせようとして水緒は何度も痛め付けられた。

 流は祟名を呼ばれても死なないと知っていれば水緒は苦しめられたりしなかったのに。


 保科もそれを教えなかったから水緒は拷問に耐える羽目になった。

 水緒だけではない。

 以前の流も知らなかったのだ。


 もし流が知っていれば水緒にすぐに言うようにと指示していたはずだ。

 昔、水緒が祟名を呼んでも死ななかったことがあったのだから流から「迷わず祟名を呼べ」と言われていれば呼んでいただろう。

 死にそうになるまで耐える必要はなかった。


 保科も父も自分達のことしか考えず平気で他者を利用し犠牲にした。


       四


 全ての最可族が許せない……!


 流は無言で抜刀すると左無に向かって走り出した。

 駆け寄っていく流に鬼達が襲い掛かってきた。

 それを次々に斬り伏せていく。


「同時に掛かれ!」

 左無が鬼達に命令する。

 鬼達が次々と長い爪を振り下ろしてくる。

 しかし身体が大きく腕が長いとぶつかってしまうから同時には振り下ろせない。

 時間差が出来るから人間の姿で、(鬼に比べれば)小柄な流が腕をい潜るのは容易よういだった。

 か弱くて無抵抗の人間しか相手にしたことのない鬼達の振り回す腕は大振りだから普段から戦う訓練をしている流が見切るのは容易たやすい。


 流が次々に鬼を斬り伏せて左無に迫った時、何かを叩く高い音と共に、

「きゃっ!」

 水緒の悲鳴が聞こえてきた。

 思わず振り返った流に左無が腕を振り下ろす。


 流はそれをかわすと、

「水緒!」

 左無を無視して水緒の方に駆け出そうとした。


 その途端、つねが水緒の首筋に長い爪を突き付けた。

 流の足が止まる。


「早くあいつの祟名を言いな!」

 つねが水緒に怒鳴った。

 水緒が首を振る。


 真後ろに左無が迫ってきている気配を感じた。

 つねが左無の手先なら左無がいなくなれば水緒を放すはずだ。


 背後から振り下ろされた左無の爪を横に一歩ずれただけでけると振り返り様、斬り上げた。

 左無が絶叫を挙げて倒れる。


「左無! お前が死ねば、あたしらは狙われなくなるはずだったのに、よくも!」

 つねが水緒の胸に爪を突き立てた。

 水緒が声もなく倒れる。


「水緒! 貴様!」

 流はつねに駆け寄ると刀を袈裟に斬り下ろした。

 つねが断末魔の声を上げて地面に転がる。


「水緒! 水緒!」

 刀を脇に置いて水緒を抱き起こすと大声で呼び掛けたが返事がない。

 水緒の胸が微かに動いているからまだ生きているが流には手のほどこしようがない。

 溢れ出す血で着物がどんどん赤く染まってく。


 母の時と同じだ。

 どれだけ必死に呼び掛けても流には助ける手立てがない。


 どうして……。


 何故母や水緒を巻き込むんだ。

 流の望みは母や水緒と静かに暮らすことだけだったのに。


 放っておいてくれればそれで良かったのに、何故それすら許してくれないんだ……。


 流は脇に置いた刀を掴んだ。

 水緒がってしまったらいていくと決めている。

 二度と一人きりにはなりたくない。

 自分勝手な理由で他者を踏み付けにする連中ばかりの世界に未練はない。


 だから水緒と……。


 柄を握り締めた時、水緒の上に影が落ちた。

 顔を上げると誰かがいた。

 日の光を背にしているから黒い影になってしまっていて姿がよく見えない。


「この娘は命がきかけている」

 そんな事は言われるまでもない。

 それでも、

「助けられないか?」

 一縷いちるの望みを掛けて聞いてみた。


「代わりになるものがあれば助けられる」

「代わりになるもの!? 何なら代わりになるんだ!?」

「例えばお前の寿命とか……」

「やる! 水緒が死んだ後まで生きていたくない! だから水緒を助けてくれるんならやる!」

「お前の望みはその娘と共に生きることか?」

 黒い影が確かめるように言った。

「そうだ。水緒と一緒に静かに暮らしたかっただけだ」


 他のものは何も望まない。

 その望みが叶わない世界で生きていく気はない。


「失った記憶を取り戻すことや最可族の長になることも望まぬのか」

「いらない」

 流は即答した。

「そんなものに価値はない。思い出したかったのも水緒がいたからだ。水緒がいないなら意味はない」

 そう言って水緒をきつく抱き締める。


「水緒が助からないなら俺もこの場で死ぬ。最可族なんか知ったことか」

「では最可族の血も望まぬか」

「いらない。そんなもののせいで母さんも水緒も殺された。俺から大事な物を奪うだけの血なんかいらない」

「良かろう。ではその娘が死ぬ時、残りの命をもらい受けに行く。それまでの時間は最可族の血と引き替えに残してやる」

「分かった」

 一瞬、身体の力が抜けるような感じがして目の前が暗くなった。


 気付くと黒い影は消えていた。

 腕の中で水緒が身動みじろぎする。


「水緒!」

「流ちゃん」

 水緒が目を開ける。

 流も水緒も記憶を失ってない。

 五年間の思い出は戻らないが水緒とこれからも一緒にいられるならどうでもいい。


「良かった」

 流は水緒を抱き締めた。


 ずっと水緒と生きていけて死ぬ時も一緒だ。

 水緒に何かあったら流も一緒に死ぬのだからもしもの時を心配する必要はなくなった。


 願いは叶った。

 これ以上のことは何も望まない。


「り、流ちゃん!?」

 水緒が顔を真っ赤にする。

 しばらくして流は水緒を放すと立ち上がって水緒に手を差し伸べた。

「帰ろう」

 流はそう言うと、水緒が起き上がるのに手を貸した。

 ふと目を上げると保科と言う鬼がいた。

 流が身構える。


「流様……」

 保科は流の腕に目を落とした。

 見ると腕にあった字が消えている。

 最可族の血が無くなったから祟名も無くなったのだ。

「流様、どうか御達者で」

 保科はそう言うと去っていった。

 流はもう最可族ではなくなったから保科は二度と現れないだろう。


 流が文で嘘の呼び出しをされない方法を考えようと言うと水緒が慌てた様子で暗号のことを教えてくれた。


「言い忘れててごめんね」

 水緒が申し訳なさそうに謝る。

「気にするな」

 言い忘れてなかったとしても、近付くなと言われていたのだから文をやりとりする際の暗号など教えられるわけがない。

 今の数を聞いてみたらお互いまだ書いたことがないという。

 一緒に暮らしているのだから書く機会はなくて当然だ。

 とは言え、いずれ書く時のために覚えておくことにした。


「師匠、俺、水緒と同じ寿命になった」

 水緒が夕餉の片付けのために台所に行ってしまうと流は桐崎にそう告げた。

「え?」

 怪訝そうな表情を浮かべた桐崎に、流はさっきの事を話した。

「水緒が死んだら、俺の命も無くなる。だから水緒が死んだ後のことは考える必要がなくなった」

 流がそう言うと桐崎は呆気に取られた表情を浮かべた。

 流は本当に嬉しそうな顔をしていたのだろう。

「確かにそれならもう心配はいらぬな」

 桐崎はそう言って苦笑した。


 それから台所に声を掛けて水緒を呼んだ。


「以前、白紙に戻すと言ったのは撤回する。お前達は以前と同じように本当の許嫁だ」

「ホントですか!?」

 水緒が驚いたように言った。

「口実なんじゃなかったのか?」

「物忘れの前は本当に許嫁だった。だが、記憶を無くして水緒のことも忘れたから無かったことにしたんだ」

「なら、この先ずっと水緒と一緒にいられるんだな。死ぬまで」

「そういう事だ。近いうちに祝言しゅうげんげてやるからそれまでは手を出すなよ」

 桐崎の言葉に水緒は真っ赤になったが、意味が分からなかった流が首を傾げると、

「それも教える必要があるのか」

 やれやれ、というように桐崎が苦笑いした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る