第七章

       一


 水緒の迎えに水茶屋に向かっている時、いつものようにつねがやってきた。


 わざわざ流の前に立ち塞がって、

「何か気付かないかい?」

 と頭を軽く揺らす。

 流はつねをけて歩き始める。


 つねは流の前に回り込むと、

「ほら、この簪、綺麗だろ。お客さんから貰ったんだよ」

 と頭から付きだしている二本の物のうちの片方を指した。

 棒の先に透明な丸い物が付いている。

 丸い物は日の光を反射する度に色を変えて光った。

 どうやらこれが桐崎の言っていた簪という物らしい。


「これ、すごく高いんだよ」

「知り合いから貰ったのか?」

「常連さんだから知り合いと言えば知り合いだよ」

 そう答えてからもう一本の簪を指して、

「これも前にお客さんから貰ったんだ。その前にしてたのもお客さんから貰った物だけど、そのお客さん、最近来なくなっちまったんだよ。だから今来てくれてるお客さんから貰った物を挿してるのさ」

 と胸を張る。

「お客さんから貰ったもんだし、着けてるとこ見せなきゃ悪いからね」

 桐崎が水緒は高価な物なら喜ぶわけではないと言っていた。

 しかし金額以前に頭に挿す以外、なんの役にも立たない物を貰ったところで仕方がないのではないだろうか。

 それを言うなら花もそうなのだが。

 流は手近なところに咲いていた花を摘んでつねに差し出してみた。


「なんだい、これ」

「花だ」

「それは分かるけど……もしかして贈り物のつもりかい? あんたからの贈り物なんて初めてだよ」

 それはそうだろう。

 反応を見たかっただけで贈り物をしたいとか、それで気を惹きたいなどとは思ってはいないのだ。

 水緒と違って嬉しそうな表情はしないどころか受け取ろうとさえしない。

「あんたらしいね」

 と言って苦笑しただけだった。


「あの子は櫛や簪、一つも付けてないけど、お客さんから貰ったものは身に着けてるとこ見せないと気を悪くするよ」

 つねが話題を戻したので流は花を捨てた。

 今摘んだのでは水緒が店から出てくる前にしおれてしまう。

 おそらくそれでも水緒は喜ぶだろうが。


「あたしはこれ以上貰ったら代わり番こに付けなきゃいけなくなるよ」

 どうやら自分は何度も贈り物をされていると遠回しに言っているらしい。

「あれだけ繁盛してるのに一度も貰ったことがないわけじゃないんだろ。それとも、しみったれた客ばかりなのかい」

 つねがチラッと得意気な表情を浮かべた。

 水緒より自分の方が人気があると言いたいようだ。

 どうでもいい男達に好かれて何が嬉しいのかよく分からないが。


 いつものように水緒の店の前に着いた時に気付くと、つねはいなくなっていた。


 帰り道、向かいから歩いてきた男と水緒が同時にハッとした。

 男が慌てて逃げていく。


「水緒を呼び出したのはあいつか!?」

「ううん、あの人は別の時」

「別!? 物忘れになった時以外にも鬼に襲われたことがあるのか!?」

 桐崎からは聞いてない。

「あ、鬼じゃなくて……」


 水緒が帰り道に破落戸ごろつきに絡まれた時の話をしてくれた。

 今、逃げていったのはそのとき流が叩きのめした男の一人だったらしい。

 この前、水茶屋で暴れた男達もそうだったのだが、錦絵に描かれたことで江戸中に顔が知れ渡ったために破落戸などにも目を付けられているらしい。

 だから見ず知らずの男達にまで狙われるようになったようだ。

 何度も危ない目にうことを考えたら人気にんきなどない方がいいと思うのだが、つねはそう思っていないようだ。


 供部と言うだけでも普通の人間より危険なのに、同じ人間ですら油断出来ないとなると人の多い町中だから安全とは言いがたいと言うことになる。

 水緒にとって安全な場所とは強力な結界が張ってあって妖の類が一切入ってこられず他の人間が一人もいない山の中なのではないだろうか。

 流に結界を張る能力があったら今すぐ水緒を連れて山奥に行くのに。

 そう思った時、桐崎の言葉を思い出した。


「水緒の方が先に死ぬ。水緒が死んだ後の方が遙かに長い」

 正直、水緒がいなくなった後のことなど考えたくない。

 水緒が死んだら自分も死んでしまいたい。

 幸か不幸か鬼が殺しに来るのだ。

 水緒がいなくなったら結界の外に出て襲ってきた鬼に大人しく殺されれば良い。

 そう考えて流は水緒がいなくなった後のことを考えるのはめた。


 帰り道、水緒に客から贈り物をされたことがあるか訊ねてみると、あるけれど受け取ったことはないとのことだった。

 錦絵に描かれる以前はいつも受け取らなかったし、毎日流が来ていたから持ってくる者がいなくなって久しかったらしい。

 錦絵が出回ってから来るようになった新しい客は持ってくるらしいが、やはり全て断っているそうだ。

 一番の理由は、はっきりとは言わなかったものの(流が好きだから)流に義理立てして他の男からの贈り物を受け取らないということらしいが、その他に、受け取ったら身に着けていないと気を悪くしたり、勝手に贈ってきたにも関わらず、それを恩に着せて無茶な要求をされることがあるからというのもあるらしい。

 ただでさえ可愛いからと目を付けられているのだから迫る口実は与えない方が賢明だろう。


「そろそろ夏も終わりだね」

 いつものようにつねが話し掛けてきた。

「あんた、風流さとは無縁な感じだけど紅葉狩もみじがりには行くのかい?」


 紅葉狩りがなんなのか知らないから後で水緒に聞いてみよう……。


 川開きの後、朝顔市やほおずき市などにも連れていってくれたから紅葉狩りというのも江戸っ子が見に行くものなら水緒が連れていってくれるだろう。


 そんな事を考えながら水緒の店の前に着くとまだつねが側にいた。


「また塩でも借りに来たのか?」

「いや、あたしもあの子に挨拶……」

 流が睨み付けると、つねは怯んだ表情で口を噤んだ。

「水緒に近付くなと言ったはずだ」

「……つまり、あの子が居る時は遠慮しろって事かい?」

「そうだ」

「分かったよ」

 つねは何やら意味あり気な笑みを浮かべた。

 どんな意味に受け取ったのかは分からないがとにかく上機嫌で去っていった。


「紅葉狩り?」

「なんなのか良く分からないが、俺達はそれにも行ってたか?」

 流の問いに水緒は紅葉狩りが何かを説明してくれた後で、

「お花見と紅葉狩りは川開きとかと違って人のいない場所だよ」

 と言った。


 どうやら流が川開きや朝顔市など人の多い場所が好きではないという事に気付いていたようだ。

 それでも朝顔市やほおずき市に誘ってくれたのは、おそらく以前の流はそれほど嫌がっていなかったからだろう。

 今の流と違い、子供の頃から五年も暮らしていたなら江戸での暮らしに馴染んでいて人混みで不快になることもなかったに違いない。

 ましてや水緒の喜んでいる顔が見られのだから嫌だなどと思うわけがない。


「なんで花見と紅葉狩りは人がいないんだ?」

 流がそう訊ねると花見や紅葉狩り、月見、雪見などはそれらを鑑賞するものであって場所は決まっていないらしい。

 川開きなどは開催場所へ行く必要があるが、花見や紅葉狩りなどは桜や紅葉ならなんでもいいので人の少ないところに行っていたそうだ。

 紅葉というのは秋になって色の変わった葉のことらしい。

 わざわざ出掛けるまでもなくそこらの葉だって色は変わるだろうし、紅葉ならなんでもいいのに何故遠出する必要があるのか分からなかったが、それを口にしたら「興味がないなら無理に行く必要はないから」と言って行くのをめてしまうかもしれないので黙っていた。

 川開きのような人混みはともかく、人気のないところで水緒と二人きりで過ごせるなら出掛ける理由などなんでもいい。


「ねぇ、お客さんから紅葉狩りにいい場所を教わったんだ。良かったら一緒に行かないかい?」

 いつものように路地から出てきたつねが言った。

「お前と行く理由がない」

「やっぱり紅葉狩りはしないんだね」

 水緒とは行くがそれをつねに教える必要があるとは思えなかったから黙っていた。

「そんなんじゃ女に嫌われるよ」

 この女が流を嫌って近付いてこなくなるならむしろ喜ばしいことなのだが。

 最可族が狙ってくる理由や、それを防ぐ方法などは知らないようだし、それなら用はない。

 いくらセミと同じようなものとは言え、セミに危害を加えられる心配はないが、つねは鬼だ。

 しかも最可族に狙われているとなると水緒や流もとばっちりを受けるかもしれないのだからあまり側にきて欲しくない。


 水緒とは少しでも長く一緒にいたいし、そのためにはなるべく長く生きていて欲しい。

 人間は天命てんめいまっとう出来たとしても大して長く生きられないというのなら寿命を縮めるようなことは出来る限り遠ざけた方がいい。


 つねはそれ以上は無理に誘おうとせず、

「あんた、保科を知ってるんだよね」

 と話題を変えた。

「一度会ったことがあるだけだ」

「いつ頃?」

「大分前だ」

「近頃、この辺りで見掛けたよ。あんたも気を付けた方がいいよ」

 そう言った時、つねの店の前に着いたので手を振って店内に入って言った。


       二


 つねの言うことがどこまで当てになるかは分からないが保科が鬼であることに変わりはないのだから警戒しておくに越したことはないだろう。


 桐崎に、山奥で結界を張れば水緒と二人で暮らしていけないか訊ねてみたら、結界で化物のたぐいから身を守ることは出来ても食い物などに困ると言われてしまった。

 井戸がなければ水辺まで水をみに行かなければならない。

 毎日川から家まで水を運んでくるのだけでも重労働だし、冬、だんを取るためのまきを集めるのも大変だ。


 何より食い物がない。

 秋になったら木の実は採れなくなる。

 水緒は動物を生で食うことは出来ないし調理する方法も知らない。

 買わずに米や野菜を手に入れるにはまず水田や畑を作るところから始める必要があるし、田んぼや畑を作れたところで苗をどこから調達してくるのかが問題になる。

 仮にそこがなんとかなったとしても田んぼや畑の手入れの間に水汲みをし、冬に備えて大量の薪を手に入れる、となったら忙しくて二人でのんびり過ごす時間などない。


 もちろん着物も自分で作る必要があるから綿か麻を栽培してそれを収穫してから糸を作ってそれで機織りをして布を作って、ようやく着物を作れるようになる。

 一人や二人では食べ物と着る物を作るのは無理だから人間は米や野菜を作る者、糸を作る者や布を織る者など、大勢が分担することでなんとかしているのだという。


 そう言われてしまうと返す言葉が無い。

 記憶を失う前の流が着ていたのはかなり汚れていたし、そこら中破れていた。

 流はそれでも平気なのだが、水緒がわざわざ着物を加代に洗ってもらい、少しでもほつれたらきちんとつくろっているのは、水緒は綺麗な着物の方が好きだからだろう。

 となると何年も同じ着物でほつれてもつくろうことすら出来ないのは嫌に違いない。

 おそらく文句は言わないはずだが、それは我慢しているからであって好き好んでそうしているわけではない。


 町中にいればそんな我慢をする必要がないことを考えれば山奥で二人きりで暮らしたいというのは流の我儘わがままだ。

 何より、着物を我慢したところで食い物を手に入れられなければ飢え死にしてしまうし、それは寒さも同じだ。


 人間は鬼より寒さに弱い。

 冬に寒さで死んでしまうかもしれない。

 食い物は魚を獲ればなんとかなるにしても薪を手に入れるのは簡単ではないらしい。

 木の枝を折って持ってきただけでは駄目とのことだ。

 乾燥させないと中々火がかないし、なんとか火を点けられても煙がひどくて家の中では無理という話だった。

 焚き火などは外で燃やすから大量の煙が出ても問題ないらしい。


 そんな大変な事を毎日やっていたらどちらにしろ長生きは出来ないだろうとのことだった。

 しかも病気やケガをしても山奥では医者にせることも出来ない。

 病気にもならず、ケガをしてもすぐ治る鬼とは違うのだ。


 水緒に苦労を掛けた挙げ句、早死にさせてしまうのでは山奥に行く意味がない。

 桐崎の家は生活に困ってないから水緒は本来なら水茶屋で働く必要はないらしい。

 水緒が働きたいというから好きにさせているだけで貰っている金は小遣いにしているので身の危険を感じたらめさせて家に置いておけば安全だし、それで食うに困るという事もない。


 流の剣術の腕が上がって桐崎の稽古場を継ぎ、水緒を家にいさせれば危険な目にも遭わず苦労もさせずに済むのだ。

 それなら今すぐ辞めさせれば稽古が終わった後は毎日ずっと一緒に過ごせるのだが水緒が水茶屋での出来事を話しているのを聞いていると流の我儘で楽しみを奪うわけにもいかないと思ってしまう。


 それは桐崎も同じらしく、本来武家の娘という事にしている水緒が水茶屋で働くことを許しているのは無理に止めると掃除や洗濯など使用人にさせているような家事をし始めそうだったから今だけという事で認めているらしい。


 武家に嫁ぐことが決まったら水茶屋はめさせるとのことだった。

 言うまでもなく、鬼や破落戸に狙われて危険だと思えば嫁ぐ前であっても辞めさせて家から出さないようにする。

 水緒の小遣い程度なら桐崎が出せるから危険を冒してまで働く必要はないからだ。


 つまり流が腕を上げて桐崎の稽古場を継ぎ、水緒を嫁にもらえば山奥に行くまでもなく望みは叶う。

 桐崎は流と人間との間に子供を作らせるわけにはいかないと言っていたから稽古場の跡を継ぐのはともかく水緒を嫁にするのは認めてくれないだろうが。


 流が内心で溜息をいた時、水緒が店から出てきた。

 一緒に歩き出すと、

「流ちゃん、保科さんと会った?」

 と訊ねられた。

「保科?」

 流は水緒を振り返った。

「うん、さっき見掛けたの、保科さんだと思うんだけど……」

 水緒が働いている時、外を通り掛かった者が保科に似ていたというのだ。

 仕事中だったし、すぐに人混みに紛れてしまったので声は掛けられなかったという。

 つねも見掛けたと言っていたから本当にこの辺りにいるのかもしれない。


 水緒は保科のことを悪く言っていなかったが、その辺については水緒の言葉は当てにならない。

 破落戸のことすら悪く言わないのだから一緒に暮らしていたことがあって勉強も教えてくれた保科に対して悪い感情は持っていないだろう。

 だが流が記憶を失って目覚めた時の保科はどう考えても水緒を心良く思っていないようだった。

 水緒は供部なのだから鬼に対する警戒を解くわけにはいかない。


 自分が人間で、水緒が供部でなければ二人で静かに暮らしていけたのだろうか……。


 次の日、水緒が働いている水茶屋に着いてから、そう言えば今日はつねが来なかったと気付いた。

 来なくても気付かないくらいなら、やはりセミと同じでても邪魔にはならないということだが、いてもいなくても同じならどっちでもいい。

 強いて言うなら、つねがない方が水緒にとっては危険が少ないという程度だ。


「流ちゃん、着いたよ」

 水緒はそう言って立ち止まった。

 木々の葉は赤や黄色に染まっている。

 もっとも紅葉していない木も結構多いから見に来る人が少ないようだ。

 名所と言われる場所は一面赤や黄色に紅葉しているらしい。


 なんとなく流がいた場所より暑い日が長かったような気がしたから水緒に聞いてみたら江戸は平地だから山の上より秋が来るのが遅くて春になるのは早いとのことだった。

 水緒と流が出会った場所がどこなのかはっきりとは分からないらしい。


 桐崎と知り合ったのは妻籠宿の近くらしいが二人が暮らしていたところからそこまで何日も掛かったし、妻籠宿の近くにいたのは偶々で、山の中から真っ直ぐにそこを目指して進んでいたわけではない為どのくらい離れていたのかは分からないという話だ。

 桐崎と会ってからは中仙道を東に向かって江戸にやってきたらしい。

 なので水緒に分かるのは江戸より西に住んでいたと言う事だけだ。

 桐崎も小さな村の場所など知らないから分からない。

 そのため水緒と同じく二人がいたのは西の方としか言えないようだ。


 そもそも流はずっと同じ場所に住んでいたわけではなく、鬼に襲われる度に移動していた。

 何年もそんな状態だったから母と暮らしていたところから相当離れていたとしてもおかしくはない。

 だから流がどこから来たのかは知りようがない。

 流の母親が一族と一緒に暮らしていたとしても、成斥族というのは聞いた事がないからどこに住んでいたのか桐崎にも見当が付かないらしい。


 流と水緒は倒れた木に並んで座ると水緒が作った弁当を開いた。

 弁当なのに手の込んだおかずが沢山あった。


「上手そうだな」

 家で食べているのとは少し違う料理だし、こういうものが食えるなら毎日紅葉狩りに来てもいいくらいだ。

「流ちゃんが好きだったもの一杯作ったの。もしかしたら何か思い出せるかもしれないと思って」

「そうか」

 水緒がわざわざ流のために作ってくれたと思うと嬉しくなった。


 流は早速料理を食い始めた。

 桐崎は記憶を失う前の流は水緒に夢中だったから物忘れで水緒への想いが無くなったのは良い機会だからと引き離そうとしたようだがどうせまた惚れてしまったのだ。

 記憶が戻った所で今更だろう。

 水緒がいなくなったら自分も生きていたくないと考える程になってしまったのだから更に想いが深まったところで大した違いはない。

 それなら水緒と一緒に過ごした五年間を思い出したい。

 人間の寿命が短いというのならその五年間は貴重な時間だ。

 瞬きする間すら惜しいくらいなのだから。


       三


 次の日、やはりつねは姿を見せなかったが今日はいつもより早いからかもしれない。

 今夜は化物討伐の仕事があるから早く迎えにいけと言われたのだ。


 水緒を連れて家に帰ると、流は桐崎、小川と共に郊外の寺に向かった。

 最近、住職を始めとした寺に住んでいる者が全員鬼に喰われてしまい、今は鬼の住み家になっているというのだ。


「寺は結界があるんじゃないのか?」

 流やミケは結界を通れるようなまじないがほどこされているらしいが、普通の妖は結界の中には入れないと言っていた。

「結界を内側から壊されたのだ」

「内側から? そんな事が出来るのか?」

 それが出来るなら桐崎の家も安全ではないという事になる。

 安心出来ないのなら桐崎の家にいる意味がない。


「人間なら通れるからな。人間が中に入って結界を作っている物を破壊したのだ」

「人間を守るための結界をなんで人間が壊すんだ?」

「金でられたんだ」

 小川が嘆かわしいという声で言った。

「お陰で今回はただ働きだ」

 桐崎が溜息をいた。

「え?」

「土田だ」

 桐崎はそう言ってから、

「そうか、覚えてないんだったな。お前達を騙したそれがしの元門弟だ」

 と付け加えた。


「水緒と俺を鬼に売ったって言う……」

「そうだ。どうやら鬼につてが出来てしまったようでな。鬼の使い走りで金を稼いでるらしいのだ」

「存外、岡場所の女というのも鬼だったのかもしれぬな」

 流が今ひとつ理解出来ていないのを見て取ったのか、土田は岡場所で女に入れ込んだ為に金に困っていると言った。


 岡場所というのは、そこで働いている女子おなごと仲良くするための店らしい。

 店だから当然そこに入る度に金を払わなければならない。

 微禄びろくの武家の息子なのだから金はほとんど持っていない。

 だからそんなに高い店ではなかったはずだが、どれだけ安かろうと無い袖は振れない。

 土田の家は息子に飯を食わせて稽古場に通わせるのにも苦労していたのだから小遣いなどそうそう渡せない。


 収入がないのだから店に通い続けたいなら土田自身が金を稼ぐしかない。

 だがそう簡単に仕官しかん出来るなら誰も苦労はしないし、武士が出来るような仕事は多くない。

 内職は大した金にならないし時間も取られるから、そんなにしょっちゅう行くことは出来ない。

 となると頻繁に通いたいなら楽に大金を稼げる悪事に手を染めるしかない。


女子おなごかどわかしたり鬼のために結界を壊したり、な」

 桐崎がうんざりした表情で言った。

「安い夜鷹よたか船饅頭ふなまんじゅうに変えなかったということは決まった女が相手だったという事であろう」

「最初から人間を手先にするつもりで鬼が女郎に化けてたのやもしれぬな。それで使えそうな男が来た時に手練手管を使ってとりこにしたのかもしれぬ」

 その女に病み付きになり、店に通い続けるための金ほしさに鬼に良心を売り渡してしまったのだろうと言うことだった。


 鬼に金で雇われたということ以外はさっぱり分からないから今度水緒に……。


「流、水緒に岡場所のことなど聞くなよ」

 桐崎が流の考えを読んだらしく釘を刺してきた。

「どうして?」

「女子は岡場所の話が好きではないからだ。分からない事はそれがしに聞きなさい」

 桐崎はそう言ったが水緒が嫌いな場所なら興味はない。

 知らずに入ってしまったりしないようにするにはどうしたらいいか聞いてみたら他の目的で入ることはないから、うっかり入ってしまうと言う事はまずないとのことだった。


 寺の門をくぐったが人気がないと言うことを除けば普通だった。見た目は。

 しかし、そこかしこから鬼の気配が感じられる。


「流、今日は合図を待たなくて良い。ここにいるのは鬼や鬼の仲間だ。鬼か人間かも分けて考える必要はない」

 つまり人間であろうと斬って構わないという事だ。

 桐崎が柄に手を掛けながら敷地の奥に向かって駆け出した。

 流も後に続く。

 鬼達が逃げ道を塞ぐように流達と門の間に立って周囲を取り囲む。

 流達を追い掛けて鬼達が全員寺の敷地内に入ってきたところで小川が呪文を唱えて結界を張った。

 これで鬼達は逃げられないから後は一網打尽にするだけだ。


 流が鬼を斬り伏せた時、

「まさかお前の方から来るとは思わなんだぞ。わざわざ出向く手間が省けたな」

 野太い声が聞こえてきた。


 見ると大きな鬼がいた。

 片手にかつて人間だったものの一部が握られている。

 流の方を見ているから流に言っているのだろう。


「知り合いか?」

 桐崎が流に訊ねた。

「いや、知らない」

 流がそう答えると鬼が大声で笑った。

「会ったことはないからな。こっちはよく知ってるが」

 つまり流を狙ってきていた鬼という事だ。

名無なんを始末したのはお前だそうだな」

名無なん?」

「この前、お前が殺した俺の弟よ」

 最近、倒した鬼は水緒を痛め付けたやつだ。

「弟の仇討ちか」

 桐崎が言った途端、鬼が笑い出した。

「あいつを始末してやろうと思っていたのだ。感謝こそすれ誰が仇など討つか」


 身内を殺そうとしていたのか?


「だが、まぁ仇討ちという事にしておこう。それ故、他の者は手出し無用。こいつは俺が殺す」

 鬼がそう言うと桐崎は向きを変え、他の鬼に斬り掛かっていった。

 手出し無用は流と大鬼との戦いであって他の鬼に手を出すなとは言われてない。


「名無という弟は混血だったのか?」

「いや、あいつの母親も最可族よ」

 この口振りだと、母親違いの弟という事なのだろう。

「お前が混血だから純血の弟をねたんでたのか?」

「わしの母も最可族だ。生粋きっすいのな!」

 大鬼はそう言うと手を振り下ろした。

 流が背後に跳ぶ。


 後ろにいた鬼達は倒されていて残っているのは大鬼の周りにいた鬼達だけだ。

 大鬼はたった一歩で流との間を詰めると再度腕を振り上げた。

 その隙に流が懐に飛び込んで刀を払う。

 鬼が刀をけて後ろに飛び退く。

 着地した瞬間、桐崎が背後から大鬼の背に刀を突き立てた。

 鬼が目をいて後ろを振り返る。


「貴様! 手出し無用と言ったはずだ!」

「人間を喰う鬼との約束など守る筋合いはない」

 桐崎はそう言うと突き立てた刀を横に払った。

 腹が割けて臓腑が溢れる。

 何か言おうと口を開き掛けた鬼の首を流が斬り裂いた。

 喉笛が割けた鬼の言葉は音にならなかった。


 残った鬼達が逃げだそうとしたが結界に阻まれて外に出られない。

 いつの間にか小川が内側にも結界を張っていたらしく、外どころか建物の中に逃げ込むことすら出来なくなっていた。

 流達は残った鬼達を残らず倒した。

 他に残っていないか辺りの気配を探る。

 それから流達は寺を後にした。

 鬼が隠れていた時に備えて結界はそのままにしておくそうだ。

 明日の昼、明るい時に来て建物の中などを隈なく調べると言っていた。


「鬼だって焼け死ぬんだろ。なら建物ごと燃やせばいんじゃないのか?」

 流がそう言うと、

「いや、ここは寺だ」

 桐崎が答えた。

「だから?」

「仏像などがあるのに燃やすわけにはいかないだろう」

 何故仏像を燃やしてはいけないのか理解出来ないと言う様子の流を見て小川は「やはり鬼は鬼だ」と言いたげな表情を浮かべた。


「しかし、家族ですら始末しようとしていたということは最可族というのは本当に見境なく殺し合っているようだな」

 小川が言った。

「理由が分かれば流が狙われないように対策の立てようもあると思ったのだが、相手構わず殺して回っているなら手の打ちようがないな」

「弟は混血ではなかったというなら、混血というのも言い掛かりのようなものだろうからな」

 桐崎と小川はそう言うと溜息をいた。


 混血がただの口実で実際はただ殺したいだけというのなら何をしたところで何らかの名目を付けて襲ってくるだろう。

 というか、実際は口実も必要なくてただ襲いたいから襲ってきているだけなのかもしれない。


 鬼には人間のように罪を取り締まる役職の者はいないだろうし、悪いことをしたら死んだあと地獄に落ちる、というような考えもない。少なくとも流の知る限り。

 何をしようとそれを取り締まって罰を与える者がいないから、どんな事でも平気で出来るのだ。


 流だって水緒と一緒にいたいから町中で暮らしていくために言い付けに従っていると言うだけで、そうでなければ人間の決まり事など守らない。

 流ですらそうなのだから人間の街で暮らしたいと思っていない鬼ならりたい放題だろう。


 つまり流は死ぬまで命を狙われ続けるのだ。

 鬼は人間を喰うから人間なら狙われないというわけでもない。

 せいぜい人間なら危険なのは偶然鬼が襲ってきたところに居合わせた時だけだが、流の場合は向こうがわざわざ探し出してまで襲ってくるから人間よりも危険が多いという程度だ。


 流は人間を喰いたいと思ったことはない。

 腹を空かせてる時に人間が通り掛かっても喰いたいとは考えなかった。

 熊や鹿は食っていたから小さい動物しか食えないわけではない。

 人間が食い物に見えないから喰おうと思わないだけだ。

 勿論、鬼を喰いたくなったこともないし流の方から襲ったこともない。

 向こうも放っておいてくれれば何事も無く過ごせるのに。


 水緒と二人で静かにくらしていくというのは無理なのか……。


        四


 翌日の朝、流は桐崎や小川と共に夕辺の寺に向かった。

 中を見分けんぶんして鬼が隠れていないことを確かめると三人は外に出た。

 小川が結界を解いて三人は寺を後にする。

 離れたところで、ふと振り返ると男が寺に入っていくのが目に入った。


 あれは鬼だ……。


 おそらく結界が解かれるのを待っていたのだろう。

 生きている鬼がいないことは外からでも分かるだろうに何故結界が解かれるのを待っていたのか分からないが、わざわざ鬼の死体を見に行くなど酔狂な者がいるものだ。

 まぁ流には関係ないし、急いで家に帰れば水緒は水茶屋に行ける。

 水緒を一人で出歩かせたくないから帰りを待たせているのだ。

 水緒は水茶屋を休みたくないだろうから行かれるものなら行かせてやりたい。

 そう思って前を向こうとした時、ちらっと鬼の横顔が見えた。


 あれは保科じゃ……。


 流が保科の顔を見たのは一度だけだし、今日は一瞬だけだったから断言は出来ない。

 ただ水緒が保科らしい者を見たといっていたし、セミ女もそれらしきことを言っていたような気がする。

 セミの言ったことだろうと鬼に関する事ならきちんと覚えておくべきだった。

 どうせ向こうから襲ってくるとは言っても相手のことが分かっていれば側に近寄らないようにすることも出来るはずだ。


 次からはセミ女の話もちゃんと聞いておこう。


 とは言え、このごろセミを見掛けてなかったような気がするのだが、また出てくるだろうか。


 夕方、いつものように流は水茶屋に向かって歩いていた。

 つねがいつものように後ろで何か言っている。

 姿を消していたのは二、三日だけでまた姿を現した。

 ミンミンゼミの声はほとんどしなくなってツクツクホウシが鳴き始めているというのにこの女は夏が終わっても消えないようだ。

 セミと一緒に消えてくれれば良いのに、と思い掛けてから一応聞いた話は覚えておくことにしたのを思い出した。

 セミの声などうるさいだけなのに耳を傾けないといけないと思うとうんざりするが水緒を守るためだから仕方ない。


「あたしに会えなくて淋しかったかい?」

 冗談を言っているのかと思って一瞥すると、つねはどんな思い違いをしたのか、

「心配したんならごめんよ」

 と笑顔で言ってきた。

 おそらく自分に都合がいように解釈したのだろうが一体どんな勘違いをしているのか流には想像も付かない。

「あたしが誰と会ってたか気になるかい?」

 本当に本気で言ってるのかと思ったが、どうでもいいので放っておいた。

「やだね、ねないどくれよ」


 拗ねるとはなんだ?


 流は首を傾げた。

 よくも次々と訳の分からない事を言うものだ。

 とりあえず水緒に「拗ねる」の意味を聞こうと心にめておいた。


 もし話題に困った時に聞いてみよう。


 もっとも水緒は話好きだから会話のネタに困るという事は滅多にないのだが。


「実は保科に殺されそうになってさ」

「ホントか!?」

 流は足を止めて振り返った。

「だから隠れてたんだよ。あんたに知らせようと思ったんだけど住んでるとこ知らないからさ。どこに住んでんだい?」

 つねの問いには答えなかった。


 いくら結界が張ってあると言ってもそれは敷地内だけだから一歩外に出たら襲われるのだ。

 迂闊に場所を教えたら待ち伏せされる危険がある。

 それに、あの寺の結界は人間が入って内側から壊したと言っていた。

 それなら桐崎の家も人間が入ってきて壊せるだろう。


 稽古場をやっている以上、住んでいる人間以外は通さない結界を張るというわけにはいかない。

 それをやったら門弟達が入れなくなってしまう。

 門弟なら出入り出来る呪いを施したら今と同じ事になる。

 鬼の手先は桐崎の元門弟なのだ。

 出入りが出来る他の門弟を抱き込んでしまえば中に入って結界を壊せる。

 金に釣られて鬼の手先になるような人間がいるのだからどれほど警戒しても、し過ぎるという事はない。

 僅かな油断が命取りになるのだ。それも水緒の。


「とにかく、注意しな」

 つねはそう言うと自分の店に入っていった。


「水緒」

 帰り道、流は水緒に話し掛けた。

「なに?」

 声を掛けたら水緒の顔が明るくなった。


 もしかして水緒の方も話し掛けられたいと思っていたのだろうか。

 だとしたら悪いことをした。


 喜んでくれると知っていたら無理にでも話題を探して話し掛けたのに。


 というか、流は水緒が話してくれるから水緒のことをよく知っているが、水緒の方は流が話していなかったから一緒に見聞きしたことしか知らない。

 流が水緒のことをよく知りたいと思っているように、水緒の方も本当は流のことを知りたかったのかもしれない。

 遠慮して詮索しなかっただけなのだろう。

 そうなると二重の意味で話しておかなかったのは悔やまれる。

 今となっては水緒と知り合う前のことや水緒と知り合った後、再会するまで間のことは思い出さない限り教えようがない。

 次からはもっと自分の話をすることにして今日のところは保科について訊ねた。


 しかし保科も自分や自分と流との関係については何も話していなかったらしく、以前水緒が話してくれた以上のことは何も知らなかった。


「保科は本当に身方なのか?」

「どういうこと?」

「俺達を騙していたという事は有り得ないか? 俺の祟名を言うために取り入ろうとしていたというのは?」

 流の言葉に水緒が考え込んだ。

「保科さん、強かったよ。多分、流ちゃんよりずっと」

「そうなのか?」

「うん、鬼から助けてくれたことが何度かあるの。流ちゃんが鬼と戦って大ケガした時も多分保科さんが助けてくれたんだと思う」

 それくらい強かったのだから祟名を言うまでもなく殺そうと思えば殺せたと水緒は言いたいらしい。

 仮に祟名を言うつもりで取り入ろうとしていたのだとしても、死に掛けていた時にとどめを刺してしまえた。


 それなら五年前の時点では流を殺す気はなかったと言う事になる。

 五年前だろうが今だろうが混血というのは生まれ付きで変えようのないものなのだから、混血が理由だとしたら五年前に殺しているだろう。

 記憶を失って目覚めた時、あの場には水緒と保科しかいなかった。

 水緒には鬼と戦う力はないのだから殺そうと思えばあのとき水緒諸共もろとも殺すことが出来たはずだ。

 それをしなかったのだから少なくとも流を殺そうとは思っていないのではないだろうか。


 ただ、そうなると……。


「俺が保科を追い出したって言ってたよな」

「うん、大ケガしてて声を出すのもやっとだったのに保科さんを追い出しちゃったの」

 出ていけと言われて素直に従ったのなら流に対して害意は持っていなかったという事だ。

 目覚めた時の態度からしても昔から保科は水緒を心良く思っていなかったのだろう。


 水緒が保科のことを何も知らないのも保科が教えなかったからだ。

 水緒に聞かれても問題ないこと以外は近くで話さなかったのだろう。

 それで水緒は知り合いという事しか知らなかったに違いない。


 保科は流にとっては脅威ではなくても水緒にとっては危険だったのだ。

 それが分かっていたから流は保科を遠ざけた。

 流が動けない時に水緒が襲われたら助けられない。

 水緒を守るためには追い出すしかなかったのだ。


 この考えが正しいとすれば保科は依然として警戒すべき相手だ。

 流に危害を加えることはなくても水緒に対しては何をするか分からないのだから。

 水緒の敵は流の敵だ。


 しかし流が混血なのは間違いないようだし、それでも保科は殺そうとしていないのだとしたらセミ女を狙っている理由が混血だからというのは勘違いか、混血を理由に殺そうとしているのは保科とは別の鬼のどちらかではないだろうか。

 保科とは別の鬼だとすると警戒しなければならない相手は複数という事になる。

 流は密かに溜息をいた。

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