第六章

       一


 道はすごい混雑だった。

 人で埋め尽くされていて地面が見えない。

 見えるのは人の頭だけだ。

 やはり流には人間の考えは理解出来ない。

 水緒が働いている水茶屋がある辺りもそうだが何故人間はこんなに集まってくるのか。

 正気とは思えない。

 流は頭を振った。


 川縁かわべりには様々な露店が並んでいる。


「花火ってあれじゃないよな」

 流が店を指す。

 道端で男が口から炎を吹き出している。

 それを大勢の人間が取り囲んで歓声を上げていた。

「あの人は大道芸人」

 水緒はそう言ってから道端に並んでいる露店を指した。

「あれは夏の間だけ出てるお店。夕涼みに来た人が立ち寄るためのお店だよ」

「帰り道は分かっているだろうが、はぐれるなよ」

 桐崎がそう言ったが水緒はずっと流の袖のたもとを掴んでいる。

 少なくとも水緒と流がはぐれる心配はないだろう。


 大川端は人で一杯だった。

 川には船が何そうも浮かんでいる。

 屋形船と言うらしい。


「そろそろだな」

 桐崎がそう言った時、聞いた事のない音がした。

 空を見上げると何かが爆発して炎が四方に飛び散った。


「た~まや~!」

 誰かが叫んだ。

 次々と花火が打ち上がり、その度に誰かが「たまや」だの「かぎや」だのと叫ぶ。

 夜空に炎の花が咲く度に辺りが明るくなる。

 確かに音はすごい。


「綺麗だね」

 空を見上げながら水緒が言った。

 夜空に咲いた花火に水緒の顔が照らされる。

 流がその顔に見蕩みとれていると、不意に水緒が辺りを見回した。


「あれ? おじ様は?」

 周りを見回したがどこにもいない。

 言った当人がはぐれたらしい。

「大人なんだし、一人で帰れるだろ」

 擦れ違い様に流の財布をろうとした男の腕をひねり上げながら言った。

 流は痛みに顔をしかめている男から財布を取り返すと手を放した。

 掏摸が逃げていく。


「掏摸が多いな。気を付けろよ」

「うん」

「何か食ってくか?」

「そうだね。流ちゃんは何か食べたいものある?」

「いや、どんなものがあるか分からないから」

「そっか。あ、あそこのお店、前に食べたとき美味しかったよ」

 水緒が露店の一つを指した。

「じゃあ、あそこにしよう」

 流は水緒を促すとその店に向かった。


 翌日の昼、

「流ちゃん、どうしたの?」

 水緒が、後にいて外に出ようとした流に気付いて訊ねてきた。


 そうか……。


 昨日までは昔の話をするために一緒に行っていたがそれはもう終わってしまった。

 桐崎が流と水緒が一緒にいることを心良く思っていないようだから理由も無しにいていくわけにはいかないようだ。

 だが誰かが送り迎えしなければ危ないのではないだろうか。

 流が一緒ではなかった数日間は無事だったようだが女が男達に絡まれているのは何度も目にした。

 正直あの数日間、よく水緒に何事もなかったと思うくらいだ。


「まだ聞きたいことがあるから」

「そう、いいよ、何?」

 水緒はそう言って歩き出した。

「その……人間のこととか色々。あれが何かとか他にも……」

 流は適当に指を指した。

 実際にどれも名前を知らないしなんなのかも分からないものだらけだから質問のネタには困らない。

「あれはね……」

 水緒が説明を始める。


 水茶屋に着くまで説明が終わる度に適当にその辺の物を指していった。

 水緒は嫌な顔一つせずに丁寧に説明してくれた。

 たまに水緒も知らないものもあったが、水緒が「分からない」と言った時は「なら師匠に聞く」と言って別のものを指した。


 毎日、行き帰りが同じ道なのでほんの数日で道端のものはほとんど聞いてしまったが、江戸には色んな職業があって初めて見るようなものを背負っている人間とよくすれ違う。

 大抵は行商なのだが、中にはそまきこり)とか大道搗だいどうつきなどもいる。

 大道搗きは家々を回って玄米を精米する職業だから行商と言えば行商だが。

 とはいえそのうち知らない職業も無くなりそうだから新しい質問を考えておく必要がある。


 ある日、水緒の水茶屋の側まで行った時、茶碗が割れる音と何人かの女の悲鳴、それに男の怒声が聞こえてきた。


 水緒の店だ!


 流が店に駆け込むと破落戸が暴れていた。


「ちょっと可愛いからって調子に乗りやがって」

 男の一人がそう言って茶碗を床に叩き付けた。

「こっちに来いって言ってんだろうが!」

 立ちすくんでいる水緒に男が手を伸ばす。

「よしなよ!」

 他の女が止めようと声を上げる。

「すっこんでろ!」

 男が女を突き飛ばそうとした腕を流が掴む。

 女の直前で男の手が止まった。


「なんだ手前てめ……」

 男が最後まで言い終える前に店の外に放り出した。

「貴様……!」

 殴り掛かってきた男の拳をけると顔面に拳を叩き込む。

 別の男の鳩尾に拳を叩き込み、更に別の男の着物を掴むと店の外に放り出す。

 店の中に倒れた男達も着物を掴んで次々と入口の外に投げ飛ばした。

 男達がいなくなると店の女達や客達が一斉に歓声を上げた。


「流ちゃん、ありがとう」

「ホント、助かったよ」

 他の女達も次々と礼を口にする。

「水緒が世話になってるからな」

 流がそう言った途端、周りの人間達がどよめいた。

「まぁ!」

「水緒ちゃんはホントいい人捕まえたねぇ!」

 水緒が真っ赤になって俯く。

 最初、何かマズいことを言ってしまったのかと思ったが、別にそう言うわけではなさそうだ。

「新しい錦絵が出たし、客は減ると思ってたんだけどねぇ」

 女が溜息をいた。


 錦絵?


「向こうに流れたお客さんも大勢いるんだけど……」

 別の女が答える。


 店の片付けが終わり、流と水緒は帰途にいた。


「水緒、錦絵ってこれのことか?」

 流は懐から紙を出すと水緒に見せた。


 台の上にずっとたたんだ紙が置いてあった。

 質問を考えている時、その紙を見れば何か思い付くかもしれないと思って開いてみたら女の絵だった。

〝水緒〟と書いてあるから水緒の絵らしいと分かったが、ただの絵だから「これは何か」と聞いたところで「絵だ」としか答えようがなくて困らせてしまうのではないかと思っていたから聞いてなかったのだ。

 本物の方がずっと綺麗だが、それでも水緒の絵だから持ち歩いていたが。


「持っててくれたの!?」

 水緒が驚いたように言った。

「水緒がくれたのか?」

「うん」

 質問することがきてきていたので丁度いいから錦絵について訊ねてみた。

 水緒は色々と話してくれた。


 錦絵のことだけでも家に着いた後、台所でもまだ話を聞けるくらいはあった。

 となると江戸に来てからの五年間に他にも様々なことがあったではないかと思ったが、鬼に喰われそうになったり、行く当てもないまま彷徨さまようのと違い、江戸での出来事は誰にとっても当たり前のことだから取り立てて言う必要はないと考えたのかもしれない。


 花火もそうだったが江戸中の人間が毎年見ているならえてくちにするようなことではないと考えても不思議はない。


 流にとってはむしろ江戸の暮らしの方が当たり前ではないのだが、流と出会ってから桐崎と知り合う前までの僅かな期間を除けば水緒は規模の違いこそあれ人間達の中で暮らしていたのだから流と水緒では〝当たり前〟が違うという事が分からず、流が何を知っていて何を知らないのか判断が付かないのだろう。


 そうなると流の方から聞くしかないのだが何を知らないのかが分からないと訊ねようがない。

 流自身ですら〝知らない〟という事を〝知らない〟のでは水緒では尚のこと何を〝知らない〟のか分からないだろう。


 最初は危険な目にわないように送り迎えをしているつもりだったが、一所懸命になって説明してくれているのを聞いているうちに護衛は口実で、実際はただ水緒と一緒にいたいだけだと気付いた。


 送り迎えをすればその分だけ長く側に居られる。

 水緒は誰にでも――人間だけではなく桐崎の家にいる化猫や道端の犬にも優しいが、自分には特別優しいような気がするのは自惚うぬぼれなのだろうか。

 一緒に過ごすうちに記憶を失う前の自分が水緒をどう思っていたのか分かってきた。


 今までこんな風に優しくしてくれた者は一人も居なかった。

 人間は鬼を恐れているはずなのに水緒は優しい。

 鬼だと知っていて尚ずっと一緒にいてくれたのだ。

 そんな水緒だから好きになった。

 きっと後にも先にもこんな気持ちになるのは水緒だけだ。


        二


 その日はまだ聞いたことのない職業の者が通り掛からず、流は質問を思いあぐねていた。

〝知らない〟という事を〝知らない〟ものの事は質問のしようがない。

る〟という事すら知らない事は聞くことも出来ない。

 質問するにも知識が必要なのだ。


 流は思案に暮れながら黙って歩いていた。

 水緒は何も言わずにいてくる。

 流が口を開くのを待ってくれているのだ。


 ひょっとしたら水緒は質問が口実だという事に気付いているのかもしれない。

 五年以上も一緒にいたのだ。

 当然、流のことはよく知っているだろう。

 人を疑わない性格だから本当に聞きたいことがあると思っていることも考えられなくはないが。


 母が居なくなって一人になってからは誰かと口を利くことなどなかったから話をしたことがない。

 それは水緒と出会ったばかりの時も同じだったはずだし、その頃に戻ったのなら流があまり話をしないという事も分かっているだろう。

 水緒の表情を窺う限り、流が黙っていても平気そうだ。

 この五年間も流の方から話すことはほとんどなくて慣れているのかもしれない。

 黙っていても問題ないのなら無理に話さなくてもいいだろう。

 流はそう考えて思い付いた時だけ質問することにした。


 夕方、水緒を迎えに行くために家を出ようとした時、

「流、まだ話が終わってないのか? いつ頃の話まで聞いた?」

 桐崎に声を掛けられた。


「しばらく前に昔の話は五年前ここに来たところまでで終わった。けど、あの店の辺りはよく男共が女に絡んでる。水緒一人じゃ危ない」

 流がそう答えると桐崎は黙り込んだ。

 それについては桐崎も同じ事を考えていたのだろう。

「流、これは以前のお前にも言ったことだが、水緒は人間だ。お前より先に死ぬ」

 鬼の流にとっては水緒が死んだ後の時間の方が遥かに長い、と。

 流はその言葉に息を飲んだ。


 そんな事は考えたことも無かった。

 水緒が無事でいさえすればずっと一緒にいられると思っていた。

 年老いた人間もいるが、流も水緒と同じように年を取っていくのだと思い込んでいた。


 記憶を失う前、桐崎と知り合った時は流と水緒は既に仲が良すぎて引き離すのは無理だった。


 だが、幸か不幸か流は記憶を失った。

 それと共に水緒への想いも消えた。

 水緒のことを忘れたままでいれば、いなくなった後の心配をしなくても済む。

 桐崎はそう言った。


「妖でも鬼でもいい。あるいは人間でも、とにかく他の者と親しくなることを覚えなさい。水緒がいなくなっても一人にならずに済むように」

 桐崎はそう言うと奥へ戻っていった。


 こういう事だったのか……。


 桐崎が水緒から流を引き離そうとしていた理由。

 記憶を失う前は今以上に水緒に惚れていたのだとしたら尚のこと水緒がいなくなったあと流がどうなるか分からない。

 まず間違いなく水緒の方が先に死ぬから流のためを思って離れさせようとしていたのだ。


 水緒と知り合うまでは一人だったのだから他の者などいなくても困らない。

 問題は水緒がいなくなることだ。

 他の誰がいなくなろうと平気だが水緒だけは別だ。


 先にそう言ってくれていればと思わないでもないが、事前に忠告されていれば水緒に近付かなかったかと言われたら疑問だ。

 一緒に暮らしていなくてもどこかで出会ってしまっていたら同じだったのではないだろうか。

 少なくとも最初に流と水緒が出会った時は偶然だったはずだ。


 夕方、水茶屋に向かっていると鬼の女が路地から出てきた。


「やぁ」

 女が声を掛けてくる。

 無視して通り過ぎてから桐崎に言われたことを思い出した。

 だが水緒以外の誰かと親しくしたいとは思わない。

 そもそも水緒と知り合う前は一人で鬼との戦いに明け暮れていたが、それで困ったことはなかった。

 水緒はないと不自由だからではなく、流が側に居たいと思っているから一緒にいるのだ。

 それとも流の方が交流を持とうとしないから他にそう思う者がいないだけで付き合ってみれば一緒にいたい相手が出来るのだろうか。


「あんた、本当に何も覚えてないのかい? ここであたしを助けてくれたんだよ」

 女が言った。

 流が水緒に話した、女を助けた場所というのはここらしい。

「忘れたのは頭でも打ったからかい? それとも呪いかい?」

 流は黙っていた。

 仮に答える気があったとしても理由は知らないのだから答えようがない。

「やっぱり保科にやられたのかい?」

 女の言葉に足を止める。


「保科? 保科を知ってるのか?」

「やっぱり保科あいつに襲われたのかい!?」

「いや、この前、保科って鬼に会っただけだ」

「あたしらを狙ってるのは保科だよ。よく無事だったね」


 水緒の話とは大分違う。

 ただ水緒は誰かのことを悪く言ったりしないし、相手の言葉は素直に信じるから騙されていただけという事は有り得る。

 水緒は信頼しているような感じだったが保科の態度を見る限り、向こうは水緒に好意を持っているようではなかった。

 祟名は大事に思われている相手が言わないと効果がないと言う話だから祟名を言って殺そうと思っているなら取り入ってくるはずだ。


 仮に昔は流の身方だったとしても五年の間に事情が変わったと言う事も考えられる。

 水緒が保科と言っていたからあの鬼が昔一緒に暮らしたことのある保科と同じ鬼なのは間違いないだろうが流は全く覚えていないのだから信用は出来ない。

 保科というあの鬼の事は警戒しておいた方がいいだろう。


「保科は何故俺達を狙うんだ?」

「前にも言ったけど、混血だからだよ」

「混血?」

「あたしは母さんが可支入族なんだ。あんたは? どの一族との混血なんだい?」

 流は答えなかった。


 水緒から母親の一族の名前は聞いたが鬼の自称などどうでもいい。

 なんと名乗ったところで鬼は鬼だ。

 流にとってこの世にいるのは三つだけ。

 水緒と敵とそれ以外だ。

 水緒でも敵でもないなら自分とは関係ない。


「あたしの名前も忘れちまったのかい?」

 女が訊ねた。

 忘れる忘れない以前に知っていたかどうかも怪しいが黙っていた。

 襲ってこないなら、それ以外ということになるが、それはそれでどうでもいい相手という事だ。

「あたしはつねだよ」

 つねはそう言った後、水茶屋に入って言った。


 帰り道、突然水緒が息を飲んだ気配がして振り返ると足を止めて顔を強張こわばらせている。

 水緒の視線の先を見ると誰かが走り去っていく。

 走っていく者にぶつかられた人間が顔をしかめたり怒鳴ったりしている。


「知り合いか?」

「あ、その……おじ様の門弟の方」

「俺が稽古場であいつに何かしたのか?」

「お稽古の話は聞いたことないから……」

 水緒の言葉に流は素直に頷いた。


 今でさえ、水緒と桐崎以外、ろくに口も聞いてないのだ。

 水緒への想いがもっと強かった頃は他の者とは一切関わっていなかっただろう。

 当然、関係のない者など話題になどするはずがない。

 流は納得して話はそれで終わったと思っていた。


 夕餉の後、流が部屋にいると台所から声が聞こえてきた。


「水緒、どうした?」

 桐崎だ。

「何か悩んでいることがあるのではないか?」

「それは……」

「お前のことだから流に関係あることではないか?」

 桐崎の問いに水緒はしばらく躊躇ためらった後、

「あの……流ちゃんが記憶を無くした日の事で……」

 と切り出した。


       三


 あの日、水緒が水茶屋にいる時に男が店にやってきて店の外に呼び出されたらしい。

 相手は顔見知りだし、桐崎のことで相談があると言われた。

 仕事とは関係のない話を店内でするわけにはいかないし、桐崎の話と言われたら聞かないわけにもいかない。

 それで店のすぐ近くなら大丈夫だろうと思って外に出た。

 そして半間ほど離れた途端、男達が駆け寄ってきてあっという間に連れ去られてしまったというのだ。


 寺に連れ込まれて男達が全員鬼だと分かった時は喰うためだろうと思ったのだが、鬼達は水緒が逃げないように取り囲んでいただけだった。

 その時、鬼の一人が「あいつが呼んでくる」と言っていたらしい。


 話を聞いて、もしやと思っていたら案の定、流が駆け付けてくると同時に祟名を言うように迫られた。

 鬼は名前は言っていなかったが、その男は女にハマって金に困っているから報酬を弾めば何でもすると言っていた。

 だから流を呼びに言ったのはおそらく水緒を店の外に誘い出したのと同じ男だろうとのことだった。


「名前を言ってなかったのに話を聞いて呼び出した男だと思った……」

 心当たりがあるのか桐崎が口を噤んだ。

「それがしの門弟だったのなら何故今まで黙っていた」

 桐崎の声が険しくなった。

 確かあの時、水緒は仕事中に店の外に出たところをさらわれたと言っていた。

 知り合いに呼び出されたとなると話は違ってくる。


「もしかしたら偶然かもしれないと思ったものですから……」

 目の前で女が連れ去られても助けない者は珍しくない。

 特に相手が集団となれば尚更だ。

 殺される危険をおかしてまで助けたところで何の得にもならない。

 流も水緒以外の人間なら助けないだろう。

 というか実際助けたことはない。

 男が水緒を呼び出したこととさらわれたことに関係があるのか確信が持てなかったのも無理はない。


「今日になって鬼とグルだったのかもしれないと思うようなことがあったのか?」

「その方と今日、帰り道で会ったのですが、流ちゃんを見て驚いて逃げていったんです」


 水緒の言葉にハッとして部屋を飛び出すと台所に駆け込んだ。


「水緒! それ、あいつか!?」

「流ちゃん、聞いてたの!?」

 水緒が「しまった!」と言うように口を押さえた。

「お前、見たのか?」

「後ろ姿だけ。水緒から師匠の門弟の一人だって聞いた」

「門弟だと分からなかったのか?」

「最近来てないって」

「……あの時、てっきり流は後先考えずに飛び出していったから、それがしに何も伝えなかったのだと思っていたが……」

 桐崎がそう言って黙り込んだ。


 門弟が鬼の手先だと知らなかったのなら水緒の元に行く前に桐崎に伝えてくれと言っただろう。

 水緒を鬼から助けたいなら流よりも腕の立つ桐崎がいた方が確実なのだ。

 単に助けなかったと言うだけならあんなに慌てて逃げる必要はない。

 水緒と流を鬼に売ったから仕返しを恐れたのだろう。


「あの辺は人が多いので今日は偶々会っただけかもしれませんが……」

 確かに店が多く建ち並んでいる盛り場なのだから偶然ということもなくはない。

 だが、まだ金に困っているなら水緒が無事で、また店に出ていると聞き付けて再び狙っていると言うことも考えられる。


 水緒は途中で意識を失ってしまったし、流も記憶がないから水緒をさらった鬼を全て倒したかは知りようがない。

 逃げた鬼が居たならまた水緒を捕まえに来るかもしれない。

 流のことは狙っていなくても水緒は供部だ。

 喰うために襲ってくることは十分考えられる。

 覚えている限り流は常に鬼に襲われ続けてきたのだし、最後には水緒を喰うにしてもついでに流を呼び出して殺してから、と考えても不思議はない。


 水緒が供部だと知っているかどうかはともかく、錦絵に描かれるほどの美女なのだから鬼だけではなく人間に対しても高く売れる。


 金さえ積めば鬼の片棒を担ぐのも平気な男なのだ。

 下見だったことも念頭に置いて警戒した方がいいだろう。


「そういう事なら送り迎えは必要だろうな。流、明日からは水緒の送り迎えをするように。仕事が入った時は流を早めに迎えに行かせるから水緒も店の人にそう言っておきなさい」

 桐崎の言葉に流と水緒は頷いた。


 水緒が夕餉を片付けを始めたので、流と桐崎は居間に移動した。


「あの男、門弟だって事は師匠も知ってるってことだよな。見当が付いてるんだろ」

「流、襲われた時ならいざ知らず、それ以外では手を出すな」

「また水緒を狙ってくるかもしれないのに!?」

「あの男が荷担したというあかしがないのに手を出せばお前の方が罪に問われる。街に住んでいられなくなるんだぞ」

 流は別に街に住めなくても構わない。

 鬼に襲われる心配がないという以外、決まりがうるさい人間の街に住みたいと思う理由がない。


「水緒と一緒にいられなくてもいいのか? それとも人里離れた山奥に水緒を連れていくのか? 山の中に住むことになったら水緒は苦労することになるぞ」

 桐崎の言葉に流は返答に詰まった。


 流のために殺されそうになるまで拷問に耐えたくらいだ。

 山奥の暮らしがどれだけ大変でも弱音はかないだろうが、我慢をいるようなことはしたくない。

 何より山の中は町中より鬼に襲われやすい。


 流は運良く大ケガをして倒れてから回復するまで別の鬼に襲われることがなかったから死なずに済んだがこの先もそんな幸運が続くとは限らない。

 そして他に守れる者が居ない場所で流が動けなくなった時に襲われたら身を守る術のない水緒は殺されてしまう。


 江戸に辿り着くまでの話の方がその後の五年間より長かったのも一つには水緒が供部で、村を出た後は頻繁に鬼に襲われていたからと言うのもあるのだ。

 贄の印とか言うものがあったせいでもあるらしいが、無くても供部は普通の人間より鬼を引き寄せやすい。

 流自身も狙われているのだから山の中では二人共長生き出来ないだろう。

 となると水緒を人里離れたところに連れていくわけにはいかないし、流が水緒と離れたくないなら町中で暮らせなくなるようなことは出来ない。


「水緒が狙われているかもしれないなら送り迎えは止むを得まいが……」

「なんだ」

「水緒に深入りしそうになったら、それがしが言ったことを思い出せ。水緒がいなくなったら耐えられないほど入れ込んだら辛い思いをするのはお前の方なのだからな」


 夕方、流と水緒は家に向かって歩いていた。

 送り迎えをしていいというお墨付きをもらったから質問を考える必要はなくなったので黙って歩いていてもいいのだが、せっかくなのだから水緒と話がしたい。

 しかし誰かと話をしようと思ったことがないから何を言えばいいのか分からない。


 とりあえず、それを聞いてみるか。


「前も送り迎えしてたんだろ」

「うん」

「いつも何を話してたんだ?」

「大抵は私がその日の水茶屋であったことを話してた」

「今日は何があった?」

「無理して聞かなくていいよ」

 水緒が苦笑した。

「別に無理はしてない。質問が思い付かないが水緒と話がしたいから」

 流がそう言うと水緒が嬉しそうに微笑わらった。

 それから水緒は話を始めた。

 記憶を失う前、近付くのを止められていなかった頃はいつもこういうやりとりをしていたのだ。


 水緒の言葉に耳を傾けているだけで気分が良くなる。

 人間の言う「楽しい」とか「嬉しい」とか言う言葉の意味がよく分からなかったが、これが「楽しい」とか「嬉しい」とか言うものなのだろう。

 以前の流はこれが当たり前の毎日だったのだ。

 一緒にいるだけでこんな気持ちになるのだから水緒から離れろと言われても無理に決まっている。

 他の何かで「楽しい」とか「嬉しい」と思ったことはないのだから。


       四


 翌日も鬼の女――つねが路地からやってきた。

 どういう知り合いだったのか探るために無視して素通りしてみた。

 特定の話題があったのならそれを話すはずだし、そうでなくても親しかったのなら何か言ってくるはずだ。

 そうでないなら以前の流も無視していたと言う事になる。


「毎日暑いね」

 返事をしなくても女は何も言わなかった。

 なら答える必要はないのだろうと判断して黙っていた。

 女が流の後をいてくる。

「このセミの鳴き声、ようやく慣れたよ」

 つねが言った。

 これはセミというものの鳴き声だったようだ。

 母に教わったことがあったかどうかは分からないが流は知らなかった。

 水緒か桐崎から教わったのかもしれないが覚えてない。

 夏に聞こえてくる音の名前を知っている必要があるのかどうかよく分からないが。

 帰りに水緒に聞いてみよう。


「あたしが住んでたところにいたセミは鳴き声が違うんだよ」

 それがなんだ、としか思えないので無視した。

「あの子……」

 流が振り向いて睨み付ける。

 つねは慌てた様子で、

「錦絵の話をしたかっただけさ。あんたが描いてもらえっていうから、あたしも描いてもらったんだよ」

 と言った。


 つねの言葉に流は眉をひそめた。

 そんなやりとりをする程度には親しかったのか?

 今でさえ興味ないのに以前の流が他の女にそんな事を言うだろうか。


 この女はかなり馴れ馴れしい態度を取ってくるが、それは親しかったからなのか?


 水緒や桐崎の知らないところで仲良くしていたのだろうか。

 この女は鬼だし保科のことも知っていたようだから情報を得るために会っていたという事は考えられる。

 だがそれを秘密にしておく必要があっただろうか。

 桐崎は物忘れの前も他の鬼や妖と親しくしろと勧めていたと言っていた。

 だとしたら鬼と会うことを隠したりする必要はない。

 少なくとも桐崎には話していたはずだが、そんな知り合いがいるとは聞いていない。

 水緒がいないところで会うような鬼がいると知っていたら桐崎は水緒に近付けないようにはしていないだろう。

 この女のことを教えて、こいつと仲良くするようにと言っていたはずだ。


「あたしの錦絵が出ればあの店は閑古鳥かんこどりが鳴くと思ったんだけどね」

 つねの口調に微かな腹立ちが混じっている。

 そういえば水緒の店の女も新しい錦絵が出たから客が減ると思っていたと言っていた。

 新しく錦絵に描かれたのは、つねだったらしい。

 確かに今でもつねの店より水緒の店の方が客が多い。

 というか、水緒は描かせてほしいと言われたと話していた。

 宣伝になるから店の方も快諾した、と。

 頼めば描いてくれるものなのかどうかも後で水緒にする事の一つ質問として心にめ置いた。

 流が返事をしなくても、つねは何か色々と話していて働いている水茶屋に到着すると店に入っていった。


 夕餉の時、

「師匠、俺に鬼の知り合いを作れって勧めてたんだよな」

 流は桐崎に訊ねた。

「そうだ」

「俺は鬼の知り合いの話をしたことがあったか?」

「保科とか言う鬼の事か?」

「江戸に住んでる鬼の女だ」

「いや、聞いてない。知り合いがいたのか?」

「私のお店の近くで働いている方で最可族に狙われているそうです」

 水緒が言葉を添えた。


「水緒も知ってるのか?」

「以前、その方に話し掛けられたのですが流ちゃんに近付くなと言われたので詳しくは……」

「流が近付くなと言ったのなら身方ではないと言う事か」

「それは分かりません。流ちゃんはあの方を狙った最可族が襲ってきたとき側にいたら危険だからと言っていたので……」

 水緒の言葉に桐崎は納得したような表情を浮かべてから、ふと首を傾げた。


「その女は何故最可族に狙われておるのだ?」

「混血だからって言ってた」

「では流を狙っているのも混血だからなのか?」

 流に聞こうとして覚えていないという事に気付いた桐崎が水緒の方を向いた。

「流ちゃんが狙われている理由は聞いた事ありません」

 水緒が申し訳なさそうに言った。


 水緒に自分の事を全て話しておいていれば聞くことが出来たのだろうが、おそらく流は話をするのが苦手なのと水緒の話を聞く方が好きだから詳しいことは何も教えていなかったのだろう。

 次に物忘れした時に備えて今後は何かあったら全て話しておく方がいいのかもしれない。


「最可族が身内同士で殺し合っているという話は聞いたことがないから、わざわざ狙ってきているのだとしたら理由があるはずだが……混血のせい?」

 桐崎が眉をひそめる。

「混血は理由にならないのか?」

「血が混ざらないようにしたいのなら一族同士で子をなせばいいだけだろう」

「ですが、他の一族を好きになってしまうことがあるのではありませんか? 流ちゃんやあの女の方のご両親もそれで一緒になったのでは」

「無いとは言い切れんが、そんなのは珍しくないからな。最可族だけそんな事をするものなのかどうか」

「流ちゃんを待っている時、私を捕まえていた最可族が流ちゃんを殺せば自分が次の長になれると言っていました」

「長?」

「はい、ですから混血を殺すと長になれるという事はないですか?」

 水緒の言葉に桐崎は益々困惑した表情になる。


「そんな理由で一々身内を殺していたら一族がいなくなってしまうだろう」

「鬼なんて理由もなく誰かを襲うものだろ」

「いや、敵対している一族ならともかく、同じ血を引く者を殺し回るなんて話は聞いたことがないぞ」

「師匠が知らないだけだろ」

「まぁ確かに鬼同士の争いは人間とは関係ないから、それがしが知らないだけかもしれぬな」

 鬼でも化猫でも人間に害をなさないなら桐崎は気にしない。

 だから流やミケを家に置いているのだ。


「その鬼は他に何か言ってたか?」

「ああ」

「なんと言ってた?」

 桐崎が身を乗り出す。

「覚えてない。一人で何か喋ってた」

 流の言葉に桐崎は溜息をいた。

「流、次に会った時は話をちゃんと聞いておきなさい。狙いが分かれば事前に対策を講じておけるし、場合によっては阻止することも出来るんだ。未然に防げれば水緒も巻き添えを食らう心配がなくなるんだぞ」

 水緒の安全のためと言われてしまうと嫌だとは言えない。


 午前の稽古が終わると出掛けるまでの繕い物中や店に着くまでの間、流は水緒の側にいてずっと話を聞いていた。

 水緒は桐崎に止められていたから黙っていただけで本当はお喋りが好きらしい。

 ずっと楽しそうに話していた。

 水緒の嬉しそうな表情を見ているだけで流も嬉しくなる。


 夕方、水緒の水茶屋に向かっていると路地から、つねが出てきた。


「今日も暑いね」

「ああ」

 流が返事をするとつねが驚いたような表情になった。

 今日も無視されると思っていたのだろう。

「俺達が狙われるのは混血だからだって言ってたな」

「そうだよ」

「なんで混血を狙うんだ?」

「嫌いだかららしいよ」

「そんな理由で?」

 流が呆れた表情を浮かべたからだろう。


「ホント、鬼って野蛮だよね。最可族は特に凶暴で血に飢えてるって話だよ。災禍さいか族って言うくらいだからね」

「…………?」

 流が怪訝そうな表情を浮かべたのを見たつねは、

「最可族の『さいか』ってのはホントはわざわいのうずって書くんだよ」

 と言った。


 母親が最可族ではない、自分はそんな理由で小さい頃から狙われてきたのか。

 流は自分から誰かを傷付けたいと思ったことはないから何故そんな理由で殺そうと考えるのか理解出来ない。


 水緒と二人だけで過ごしていければそれでいのに……。


 つねは他にも何か色々話しているが最可族についてそれ以上詳しいことは知らないようだし、鬼とは関係なさそうだったので聞き流した。

 何を話していたのかは知らないが適当に返事をしていたらつねは上機嫌で店に入っていった。


       五


 毎日、流が水茶屋へ向かう途中つねがやってきて何か話している。

 良くきもせずに喋り続けていられるものだと思ったが、考えてみたら水緒もずっと話をしている。


 水緒の話なら楽しいと思えるが、つねの言葉は全く耳に入ってこないからセミとやらと大して違わない。

 セミの声は夏にしか聞こえないが、この女は秋になっても消えないだろうから違いは夏だけか、それ以外の季節も聞こえるかだけだ。


 つねとはいくら一緒にいても「楽しい」とか「嬉しい」とかいう気持ちにならない。

 水緒は話の内容だけではなく、声も心地いいし、表情も可愛い。

 つねも錦絵に描かれたくらいだから綺麗な部類に入るのだろう。

 流には顔の美醜びしゅうはよく分からないのだが。


「あ、流ちゃん」

 流に気付いた水緒が笑顔を向けてきた。

 流が片手をげると、水緒が店の奥に声を掛けた。

 そのとき初めてつねが消えていることに気付いた。

 セミの声が意識しないと聞こえないのと同じようなものだろう。

 要するにてもなくても同じという事だ。


 水緒は店から出てくるとその日あったことを話し始めた。

 その時、不意に頭のてっぺんに何かが掛かった。

 手で触れてみると水のようなものだった。


「あ、それセミの……」

 水緒が苦笑いしながら手拭いを取り出して手を伸ばしたが届かない。

 流が屈むと水緒が拭いてくれた。

「すまん」

 流が礼を言うと水緒は微笑わらって手拭いをしまった。


「セミっていうのはミーンミンミンって言うこの音を出してる……」

「うん、虫だよ。木に止まってる……ほら、そことか……」

 そう言って水緒が近くの樹を指した。

 よく見ると木に一寸ほどの何か止まっている。

 あれが鳴き声の主らしい。


「シャシャシャっていうのがクマゼミ、カナカナカナって鳴いてるのはヒグラシで、ツクツクホーシって鳴くのがツクツクホウシ」

 名前が違うのは何か理由があるのかと思ったが、水緒に聞いてみたら首を傾げながら「鳴き声が違うからだと思う」と困ったような表情で答えた。

 水緒も理由は知らないらしい。

 話を聞く限り毒にも薬にもならない無害な生き物のようなのに何故わざわざ名前を付ける必要があるのか理解出来なかったが、とりあえず水緒との話のネタにはなった。


 翌日、水緒の水茶屋に向かっていると、

「あっちいっとくれ!」

 つねの声が聞こえてきて目を向けると男達に囲まれていた。

 視線が合うと、

「助けとくれ!」

 と、つねが助けを求めてきた。

 面倒だし放っておこうかと思ったが、もしかしたらそのうち鬼について何か新しいことを掴んでくるかもしれない。


 そう考えて男達に、

「失せろ」

 と声を掛けた。


「んだと!」

「あっ!」

 男達が同時に声を上げた。

 男の一人はすごんでいるが、もう一人は驚いている。

 驚いているのはこの前流が水緒の店から放り出した男だ。


 また女に絡んでるのか……。


 凄んだ男が流に殴り掛かってこようとしたが、声を上げた男が肩に手を掛けて止める。


「待て、そいつはめとけ」

 そう言うないなや男はすぐに逃げ出した。

 それを見た男達も、

「覚えてろ!」

 という捨て台詞と共に後に続いた。


「助かったよ」

 そう言ったつねを無視して歩き出す。

「あんたに助けられたのはこれで二度目だね」

 二度? と首を傾げてから記憶を失う前に助けたらしいと言う話を思い出した。

 今でさえ迷ったくらいなのに以前の自分がよく助けたものだ。

 水緒達だけではなく、この女の話を聞いていてもそんなに親しかったとは思えないのに。

 水緒のように控え目な性格なら自分からは言わなかっただけと考えることも出来るが、この女にそんな慎みがあるようには見えないのだが実際には黙っているだけで親しかったのか?

 とても自分が好意を持ちそうな女には見えないのだが。


「まぁあいつらに絡まれたのはあんたのせいでもあるんだし当然さね」

「あんな連中は知らない」

「今のヤツらは錦絵を見てやってきた連中だよ。断ろうと思ってたのに、あんたが描いてもらえっていうから引き受けたらこの様さ」


 水緒が破落戸に狙われたのも錦絵のせいだった。


 絵より本物の水緒の方が綺麗だし、錦絵なんてろくなもんじゃないな。


 水緒の絵を常に持ち歩けるのはいのだが、それだって水緒がいつも側にいてくれるなら必要ないのだ。


「俺が無理強いして描かせたならともかく、そうじゃないなら関係ない」

「でも錦絵のせいでもう何度も絡まれたんだよ」

「お前は鬼なんだから人間がたばになって掛かってきたところでどうということはないだろ」

「そりゃ、そうだけど……」

 剣術の稽古より小川に師事して結界の張り方を習ったら水緒と山奥で暮らせないだろうか。

 そんな事を考えながら水緒の水茶屋の前に着くといつの間にかつねはいなくなっていた。

 つねの店は数軒手前だからそこで自分の店に入っていったのだろう。


 店は相変わらず繁盛していて水緒は忙しそうだった。

 中々客が途切れず、水緒が出てくるまでいつもより時間が掛かった。


「流ちゃん、お待たせ。ごめんね」

「気にしなくていい。それより疲れてないか?」

「大丈夫だよ。ありがと」

 水緒はそう言って微笑わらった。


 男共がよってくるのも無理はないと思える可愛らしい笑顔だった。

 実際、道行く男達が水緒を振り返って笑顔の先にいる流に羨ましげな目を向けている。

 流としては顔に惚れたわけではないからこんなに可愛くなくても良かった、と言うよりむしろ見目みめが良くない方が望ましかったのだが。


 辺りを警戒するように見回していると道端に白い花が咲いていた。

 さっきの水緒の笑顔のようだ。

 そう思ってその花を摘むと水緒に差し出した。


「これ」

「ありがとう!」

 水緒は本当に嬉しそうに微笑わらって花を受け取ると大事そうに胸の前で持った。

「そんなに嬉しいか? ただの草だぞ」

「草じゃないよ。流ちゃんが私のために摘んでくれたお花だよ」

 だとしても摘んだだけなのに何故そんなに喜んでいるのか分からなかった。

 欲しければ自分で摘むことだって出来るのに。


 家に戻って桐崎が水緒が持っている花に目をめた。


「なんだ、またその花か」

「あ、おじ様」

 水緒が慌てた様子で止めようとする。

「また? もしかして前にも渡したことがあるのか?」

 流が訊ねると水緒は懐から手拭いを出した。

 それを開くと乾燥した同じ花が挟まれていた。

「これ、春にお花見に行った時に流ちゃんがくれたの」

 水緒はそう言うと、

「おじ様、これも押し花にして下さい」

 と桐崎に頼んだ。


 桐崎が花を紙に挟んで上に本を載せたのを見ると水緒は夕餉の仕度をしに台所へ行ってしまうと、

「櫛や簪ならやめておけよ」

 桐崎が言った。


「櫛? 簪?」

「ああ、そうか。今は知らないんだったな」

「櫛や簪とはなんだ」

「女が身に着ける物だ。前にお前が水緒にあの花を贈った時、あんなに喜ぶならもっと高価なものにすれば良かったと言って買おうとしてたんだ」

「買わなかったのか?」

「それがしが止めたんだ」

「どうして」

「贈り物で大事なのは値段ではないからだ。少なくとも水緒は高価な物ほど喜ぶというわけではない」


 それは何となく理解出来る。

 金や物で釣れるなら祟名を言うように迫った時、殴るより報酬を弾むといった方が早かっただろう。

 実際、水緒と流を呼びだした男は金に目が眩んで二人を売ったのだ。

 だから水緒への贈り物が金で買った物では意味がないというのは分かる。

 とはいえ、偶々目に止まった花であんなに喜んでくれるならもっとちゃんとした物を贈れば良かったと考えたのも理解出来た。

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