第五章

       一


「物忘れ!?」

 桐崎という男が目をいた。

 水緒に連れてこられたのはこの男の家で、名前は桐崎というのだと水緒が教えてくれた。


 水緒の話によると、水緒が鬼に捕まってしまい流が助けに行ったらしい。

 流が駆け付けた後、水緒は鬼に殴られて意識を失い、目が覚めたら流や鬼達が倒れていたというのだ。


 流が気付いたとき周囲には鬼の死体が転がっていた。

 水緒に鬼が倒せるとは思えないから流が戦って倒したのは間違いないだろう。


「水緒はケガしてないが、あの血の付き方は返り血とは思えないから鬼に傷付けられたのは事実だろうな。なぜ傷がないのかは謎だが」

 桐崎が考え込むように言った。

「とりあえず明日、小川に見てもらって思い出す方法がないか探してみよう」

 桐崎はそう言ってから、

「流、何故水緒のところに行く前に、それがしに伝え……」

 叱ろうとして、

「覚えてないのでは言っても仕方ないな。説教は思い出してからだ」

 と言った。


 水緒は甲斐甲斐かいがいしく世話を焼いてくれた。


 家に着いた時、まず着替えを出してくれた。

 流の着ていた物は血で汚れていたからだ。

 夕餉だと言って出してくれた飯は旨かった。


 母と暮らしていた頃はこういう飯を食っていたのかもしれないが、流が覚えているのは山の中で捕まえた雉や兎を生で食っていたことだけだ。

 炊いた米や火を通した料理など初めてだった。

 水緒や桐崎によると五年前からこういう飯を食っていたらしい。


 その後、水緒が流の自室だという部屋に案内してくれて布団の引き方などを教えてくれた。


 水緒が出て言った後、流は部屋の中を見回した。

 部屋の隅に低い台が置いてある。

 台の下に積まれていた本を取り出すと奥に小さな箱があった。


 開けてみると中に小さな袋が入っている。

 手に取るとかなり重い。

 石でも入っているのかと思って開いてみると銀色の粒が入っている。


 何故こんなものが隠すように置かれていたのかと考え込んでいると、

「流ちゃん、入ってい?」

 襖の外から声が掛かった。


「ああ」

 流が返事をすると水緒が襖を開けて入ってきた。

「なぁ」

「なに?」

「これはなんだ?」

 流が銀の粒を見せる。

「あ、そうだよね。私達、お金のこと知らなかったもんね」

 水緒はそう言って金の説明をしてくれた。


 それから、

「これ、乾いたから」

 水緒の差し出した着物を見て不思議そうな顔をしていたからだろう。

「流ちゃんの着物。洗ったのが乾いてたから、明日はこれ着て」

 水緒はそう言って着物を置いた。


「分かった」

 そう返事をすると水緒は少し躊躇ためらってから、

「身体は大丈夫?」

 と心配そうに訊ねてきた。

「特に問題はないが」

 流がそう言って腕を動かして見せると、

「もし具合が悪くなったら遠慮なく言ってね」

 といたわるように言って出ていった。


 話を聞いた感じだと流が鬼だという事は知っているようだった。

 それなら鬼の身体が丈夫なことやケガはすぐに治るという事も知っているのではないかと思うのだが、何故あんなに心配そうにしているのだろうか。


 今まで流にあんなに優しくしてくれた者は誰もいなかった。


 翌朝の午前中、桐崎は稽古があるとかで流は水緒と過ごした。


 朝餉が終わると水緒はすぐにでも小川という者のところへ行こうと桐崎にせがんでいたが、約束も無く訪ねていってもるか分からないから連絡をしてからでなければ無駄足になるかもしれないとさとされて仕方なく連絡を待つことにした。

 大人になるまでの記憶がないだけで流自身は別に困っていないのだが水緒はやけに心配している。

 水緒は人間の暮らし方を一つ一つ覚えているか訊ね、知らないことは全て丁寧に教えてくれた。


「物忘れ?」

 小川と言う男が驚いた表情で聞き返す。

 水緒が桐崎にしたのと同じ話を小川にもした。

 小川が考え込んだ。


「水緒は流の祟名を知っておるのか?」

 しばらくして小川が訊ねた。


 水緒がびくっとする。

 どうやら知っているらしい。


 だが……。


「祟名ってなんだ?」

 流が聞いた。

「ここに書いてある字」

 水緒が流の着物の袖の上から左手首の近くを指した。

 流が袖をまくる。

「これの事か?」

「書いてあるのか?」

 桐崎が訊ねる。

「見えないのか?」


 こんなにはっきり書いてあるのに。


「それは最可族にしか見えないんだって」

「じゃあ、お前達には見えないって事か?」

 流の問いに水緒が頷いた。

 表情からすると桐崎と小川にも見えないようだ。


「水緒はケガをしたようだと言ったな」

「傷はないようなのだが口から喉に掛けて血が付いていたからな。あれはおそらく血を吐いたのだろうが、あれだけ大量に吐血したら普通は生きていられないな」

「つまり水緒が助かった事と流の記憶が無くなった事は関係あるかもしれないのか」

「問題は……」

 桐崎と小川は視線を交わすと黙り込んだ。

「お前達は先に帰りなさい」


「どういう事ですか?」

 台所の方から水緒の声が聞こえてきた。

 どうやら二人は流には聞こえないと思っているらしい。

 人間なら聞こえない距離でも鬼には聞こえると言うことを知らないようだ。

「流ちゃんのお世話は私が……」

「水緒、祟名は最可族が大切に思っている相手に言われないと効果がないのだろう」


 そうなのか……。


「お前にはこくだが流にとっては良かったのではないか? 今の流には大切な相手がいない。それなら誰に祟名を呼ばれたところで死ぬ心配がない」

 確かにその通りだ。

「流がまたお前に惚れたりしないようにこのまま離れた方がいいのではないか?」

 桐崎の言葉に水緒が黙り込んだ。

「どうした」

「流ちゃんは私のこと、そこまで好きなわけではなかったのかもしれません」

「そんなはずなかろう」

 桐崎がバカバカしいという口調で言った。


「でも……」

「どうした」

「私、呼んだことがあるんです」

「え?」

「昔、鬼に捕まって言うように迫られて……」


 水緒が流と出会ったばかりの頃の話をした。

 人間には見えないはずの祟名を水緒が知っていたのも鬼に家と迫られたことがあったかららしい。


「水緒が呼んだのに何事も無かった?」

 桐崎が怪訝そうな声で言った。

「あの時は知り合ったばかりだったからかもしれません」

「今回は? 呼んだのか?」

「分かりません。言うようにって何度も殴られているうちに気を失ってしまって……」

「それで大量に血を吐いたのか。お前、本当に身体は大丈夫なのか? 痛みを我慢しているのではなかろうな」

 その問いに水緒は首を振ったのだろう。

 だが桐崎は心配しているような気配を感じる。


「私、意識が朦朧もうろうとしている時に言ってしまったのかもしれません」

 初めて水緒を見た時、見えている場所には傷一つなかったが着物は全身血塗ちまみれでところどころ破けていた。

 呼んでしまったとしても散々痛め付けられた末のことだ。

 そこまで祟名というものを呼ぶのを拒んだのだとしたら水緒は相当流のことを想ってくれているのだろう。


「もし言ってしまったのなら流ちゃんが無事なのは私のことが大切ではないからかもしれません。それで記憶を失うだけで済んだのかも……」

 水緒が沈んだ声で言った。


 鬼がそこまで無理に迫り、水緒の方も意識を失うまで拒み続けたくらいなら、流が水緒を大事に思っていなかったとは考えづらい。

 痛め付けてでも言わせようとしたのははたから見ても分かるくらい大切にしていたからのはずだ。

 水緒がずっと心配そうにしていたのは記憶を失ったのは自分が祟名を言ってしまったからかもしれないという負い目もあったようだ。


       二


「それは小川殿とも話したが、死ぬか何も起きないかのどちらかで、それ以外は聞いたことがないと言っていたぞ」

「でも、流ちゃんが最後に覚えているのは私と知り合う直前みたいで……。私と会ってからの記憶が無くなっているなら、それは私のせいではないでしょうか」

 水緒の言葉に桐崎は考え込んだらしい。

「もしかしたら祟名を呼んでしまったから流ちゃんは私が嫌いになってそれで忘れたのかも……」

 水緒はそう言って黙り込んでしまった。


 最後に覚えているのは河原で倒れたことだ。

 その話をした時、水緒は何も言わなかった。

 ああいうことは何度もあったから本当にあれが水緒と知り合う直前だったのかどうかは知りようがない。

 ただ、どちらにしろ意識を失った直後に知り合ったというなら、水緒は恩に着せないように黙っていただけで流が倒れているところを助けてくれたのではないだろうか。


「とにかく、あの話は白紙に戻す」

 桐崎がそう言った。


 あの話……?


「え、おじ様、それは……!?」

「流は覚えてないんだ。それを流に無理強いするのか?」

 桐崎がそう言うと水緒が廊下を走っていく足音が聞こえた。


 それから桐崎が近付いてくる音がしたかと思うと、

「流、ちょっと良いか」

 と部屋の前の廊下から声を掛けてきた。

「なんだ?」


 流が襖を開けると「こっちへ」と言われて書斎に連れていかれた。

 目の前に、難しそうなことが書かれた本が出される。


「どの程度覚えている?」

「なんにも」

「では最初からやり直しだ」

「やらないといけないのか?」

「ここで暮らしていくならそうだ」

 つまり勉強するか出ていくかのどちらかと言うことだ。


「勉学だけではない。人間の決まりを覚えて守ってもらう。人間としてここで生活するか、なんの束縛もない暮らしかどちらかを選びなさい」

「……決まりって言うのは今日水緒に教えてもらったような事か?」

「それは暮らし方だろう。そうではなく人間の決まりだ」

「例えば?」

「ここで暮らすなら、それがしを師匠と呼び、剣術の稽古をして武士としての礼儀作法も身に着けること」

 なんだか色々面倒臭そうだ。


「あんた……」

「師匠だ」

「……保科とか言う鬼が化物討伐を生業にしてるって言ってたが」

「そうだ」

「なら、ここにいれば鬼に襲われることがないのか?」

「この屋敷は結界が張ってあるから中にいる限りはそうだが、ここで暮らすなら化物討伐の手伝いをしてもらうから全く戦わないというわけにはいかぬぞ」

「けど寝てる時に襲われる心配はないんだな?」

「そうだ」

「飯は?」

「無論、食わせる」

 流は考え込んだ。


 ここなら何かの気配を感じる度に身を隠す必要はない。

 鬼に警戒しながら兎や雉を探し回らなくてもすむ。

 勉強や稽古がどの程度なのかにもよるが、とりあえず試してみて山の暮らしの方がマシだと思ったら出ていけば良い。

 流はそう考えて桐崎の指示通りに本を開いた。


「ではここから……」

 桐崎の説明を聞いても全く理解出来ない。

「分かったか?」

「さっぱり」

「この部分は知っていただろう」

「いや、知らない」

「つまりここまでは他の誰かに教わっていたと言うことだな」

 桐崎にどこからなら分かるのか訊ねられて本の内容は全く知らないというともっと易しい本を探しに行った。


 朝は夜明けに起こされた。

 桐崎から木刀の持ち方から教わったが、剣術はすぐに出来るようになった。


「身体の方は覚えているようだな」

 桐崎が言った。

 かたを教わっただけで打ち込まれた時、どう動けばいかは聞かなくても分かった。

 これは流が五年間掛けて稽古してきた成果で、習い始めたばかりの頃にはこんなに上手く出来なかったらしい。


「となると、やはり頭の中の記憶だけが無くなったのだな」

 桐崎が考え込むように言った時、水緒がやってきた。

 目が赤い。

 だが、桐崎はそれを見ても何も言わなかった。

 夕辺はかなり水緒の身体を心配していたような感じだった。

 だとすると目が赤いのは体調とは関係ないのだろうか。

 記憶を失う前は人間と関わったことが無かったから判断が付かない。


「おじ様、流ちゃん、朝餉の仕度が出来ました」

 水緒はそう言うとすぐに俯いて母屋に戻ってしまった。

「よし、流、飯にするぞ」

 桐崎に言われて稽古場に木刀を置きに行くと母屋に向かった。

 やがて水緒と加代が朝餉の膳を持ってきた。


 朝餉が終わると桐崎に言われて庭で素振りをしていると水緒がやってきた。


「流ちゃん、そろそろお稽古の時間だよ」

 と言って手拭いを差し出した。

 流が受け取ると水緒は何も言わずに戻っていった。


 稽古場に入ると桐崎に呼ばれた。


「お前と水緒は許嫁という事にしてあるから誰かに聞かれたら話を合わせろよ」

 と桐崎に言われた。

「許嫁ってなんだ?」

「将来夫婦めおとになるという約束をしたものと言うことだ。だがそれは縁談を断るための口実だからな」

「なんで断るのに理由が必要なんだ?」

「承諾出来ないのはお前が鬼だからだ。向こうはお前を人間だと思って申し込んできてるんだからな」


 鬼だとバレてしまったら街では暮らしていけなくなる。

 人間の中で生きていくには鬼だということは隠しておかなければならない。

 鬼は人間より寿命が長いから頃合いを見計らって住み家を変えなければならない。

 同じ家に住み続けるわけにはいかないから人間と家族になるわけにはいかないのだ。

 それは子供も同じである。

 縁談による縁組みをするような家は跡継ぎを作らなければいけないが流の子供は半分鬼である。

 つまり子供も人間より寿命が長いから流の血を引く子を跡継ぎにするわけにはいかないのだ。

 だから跡継ぎとなる子供が必要な相手と縁組みさせるわけにはいかない。

 理由も無く縁談を断ると揉めることになるからもう相手がいるということにしてあるとのことだった。


「それだと水緒はどうなるんだ?」

「水緒が嫁ぐような年頃になったら他の口実を考える」

 桐崎の言葉に流はあっさり頷いた。


 稽古の後の片付けが終わり、母屋に戻ると水緒が布を手に何かをしていた。


「何してんだ?」

 流の問いに水緒が驚いたように顔を上げた。

 側に来ていたことに気付かなかったらしい。

「着物、仕立て直してるの」

「仕立て直す?」

 首を傾げた流に水緒は古い着物を直してまた着られるようにすることだと教えてくれた。


「流ちゃん、この色、どう思う?」

 水緒が仕立て直し中の着物を持ち上げて訊ねた。

「どうって?」

「こういう色、流ちゃんに似合いそうだと思って……」

 水緒が俯いた。

「気に入るかどうか心配だったならなんで先に聞かなかったんだ?」

「記憶が無くなる前の流ちゃんはなんでも着てくれてたから」


 着られればそれで十分なのだから当然だろう。

 色にこだわったりはしない。

 記憶が無くなったからと言って考え方や好みが変わるとは思えないのだが。

 随分気を使ってくれているようだが祟名を呼んでしまったかもしれないことをそんなに気にしているのだろうか。

 それとも本当は祟名を言ってしまったからそれが後ろめたいのだろうか。


 しかし大ケガをするまで我慢した末に耐えかねて言ってしまったのなら仕方ないだろう。

 流に対してそこまでしなければいけない義理はないはずだ。

 普通なら脅されただけでも言ってしまうだろうし、我慢したとしてもそんなに酷いケガを負う前に言うのではないだろうか。

 どちらにしろ流は無事だったのだからそこまで気にする必要はないと思うのだが。

 記憶が無くなっても特に困ってもいない。

 水緒が気を配ってくれているから不自由していないと言うのはあるにしても。


「聞きたいことがあるんだが」

「なに?」

 流は前夜のことを話した。

「もしかしてお前から学問を教わってたのか?」

「それは保科さんだよ」

「あの鬼の?」

 その問いに水緒が頷く。


「流ちゃんと私に保科さんが教えてくれてたの」

「お前も一緒に教わってたのか? ならお前も分かるって事か?」

「保科さんが教えてくれてたところまでなら」

「…………」

 保科は間違いなく鬼だった。

 それなのに水緒を喰わずに学問を教えていたというのが謎だった。

 流は人を喰ったことも、喰いたいと思ったこともないが、自分以外の鬼はみな人を喰ってた。

 流が喰わないのだから保科が喰わなくてもおかしくないのかもしれないが、正直そんな鬼が自分以外にいるというのは信じがたい。


 いつからの記憶が無くなったのかは分からないが、覚えている限り流は十歳くらいの見た目をしていた。

 今は十五歳くらいの姿をしているようだ。

 水緒もそれくらいの歳に見える。

 度々〝五年〟という年数が出てくることから考えても知り合ったのは水緒が十歳くらいの頃。

 水緒が言っていたとおり、失ったのは水緒と知り合った頃からで間違いないだろう。


 その五年間に何があったのか気になる。

 屋敷の外に見える山は遥か彼方だ。

 流がいたのがここから見えている山だとしても相当離れている。

 あの山の更に向こうの山だとすれば何日も掛けてここまでやってきたと言う事だ。

 江戸という名前など聞いたことすらない街まで何日も掛けて旅してくることになったのは何故なのか知りたかった。


 何から聞こうか考えあぐねていると、

「それじゃ、私は出掛けるね」

 水緒がそう言って立ち上がった。

「そうか」

 流が頷くと一瞬、悲しげな表情を浮かべた。

 水緒はすぐに顔をらすと部屋から出て言った。


 水緒が帰ってきたのは夕方だった。

 それから夕餉の仕度を始めた。


 次の日の朝、桐崎が流の世話をするという人間を連れてきたが知らない者を近付けたくないし、今のところ特に困ってはいないから断った。


 昼頃、水緒はどこかへ出掛けていった。

 その次の日もやはり午後はいなかった。

 聞きたいことがあるのだが毎日行き違いになってしまって話をする時間がない。


       四


「水緒」

 家を出ようとしていた水緒に流が声を掛けた。

「どうしたの?」

「いや、いつもどこへ行ってるんだ?」

「水茶屋だよ。私はそこで働いてるの」

「働く?」

「お仕事をしてお金をもらうことだよ」

「なら行かないといけないって事か?」

「うん」

「じゃあ、いていっていいか?」

「私は構わないけど……」

 桐崎がい顔をしないから躊躇ためらっているのだろう。

「聞きたいことがあるんだ。行かないといけないなら歩きながら話すしかないだろ」

「そう言うことなら」

 水緒がそう答えると二人は並んで歩き出した。


 水緒は後ろに下がろうとするから流が隣に並ぼうとすると、女は後ろにいていないといけないからと言われてしまった。

 一々振り返って話すのは面倒なのだが人間の決まりは守れと言われているから仕方が無い。


 流と水緒が知り合った頃の話を聞いているうちに水茶屋に着いてしまった。

 仕事中は話が出来ないと言われた。

 働くとはどんな事をするのかと思って外から眺めていたら客に茶を入れた茶碗や食い物を載せた皿を持っていき、客が帰るとそれらを片付けている。

 周りには他にも似たような店があるのに水緒が働いている店だけやけに客が多かった。

 満席で入れない者達が外で待っている状態だ。

 他の店ならすぐに茶を飲めるのに何故みな水緒の働いている店に入りたがるのか不思議だった。

 仕事が終わると水緒は急ぎ足で出てきて流のところに来た。


「流ちゃん、どうして待って……あっ!?」

 言い掛けた水緒が声を上げた。

「なんだ」

「あ、その……てっきり言わなくても帰ると思ってたから……もし、お店が終わった後も話があるなら帰る頃に来てって言えば良かったって……」

「ああ、けど家にいてもすることがないし」

 流の言葉に水緒が黙り込んだ。

「俺は何かしてたのか?」

 そう訊ねると水緒は首を振った。

「私が家にいない間、何をしていたのかは知らないから、おじ様かお加代さんに聞かないと……」


 それはそうだ。


 流だって今日まで水緒が出掛けている間、何をしていたのか知らないのだ。


「でも、多分、素振りとか、書見しょけんとかしてたんじゃないかと思うけど」

「しょけん?」

「あ、読書。つまり本を読むこと。おじ様から学問を習ってるでしょ」

「習ってるが……まだ難しい本は読めないから。一緒に習ってたって言うからお前に教わろうかと思ったんだが」

「教わってたのはそんなに長い期間じゃないから私が教えてあげられることはあんまりないと思うけど……」

 水緒はちょっと考えてから、

「じゃあ、剣術の稽古が終わってから出掛けるまでの間だけ。おじ様にも教わってるなら多分そんなにないと思うし」

 と言った。


 流は頷くと、水緒の話の続きを聞き始めた。

 水緒と出会ってから桐崎と知り合うまではそれほど長い期間ではなかったと言っていたが、それでも桐崎が出てくる前に家に着いてしまった。


 帰ると水緒はすぐに台所で夕餉の仕度を始めた。

 桐崎は台所に入るなとは言わなかったから行ってみたら水緒は一人で仕度をしている。


「水緒」

「流ちゃん、どうしたの?」

「いや、話が出来そうなら続きを聞こうと思って」

 水緒は頷くと話し始めた。

 といっても長くはなかった。

 仕度はすぐに終わってしまったからだ。


 夕餉の後は流は学問を教わる必要があるから話は出来ない。


 まぁ、明日聞けば良いか……。


 翌日、剣術の稽古が終わって母屋に戻ると水緒が待っていて勉強を教えてくれた。

 内容が簡単だからなのか、水緒の教え方が上手いからなのか分かりやすかった。

 これなら最後まで水緒に教わりたいのだが流が桐崎に教わっていたような難しい内容は分からないと言う。


 水茶屋へ行く時間になると水緒と一緒に屋敷を出た。

 水緒は昨日の続きを話してくれた。


 水茶屋に着くと水緒は昨日と同じくらいに仕事が終わると言った。

 一度帰って出直した方がいいということだろう。


 日が傾いてきたので水緒の働いている水茶屋に向かっていると路地から女が出てきた。


 こいつ鬼か……。


 女が一瞬顔を強張こわばらせる。

 首に字が見えた。


 最可族とか言う鬼か……。


 女は流を警戒しているようだが襲ってくる様子はないのでそのまま通り過ぎた。


「ここしばらく見なかったけど、どうしたのさ」

 その言葉に流は足を止めて振り返った。


 この鬼は知り合いなのか?


 流は女を探るように見た。

 女の方も怪訝そうな表情で流を見返している。


 話し方は馴れ馴れしいが警戒している素振りが見え隠れしている。

 水緒はもちろん、桐崎や小川もこういう態度は取らなかった。

 つまりこの女は流を身方だと思っていないのだ。


 この女は鬼だ。

 それも最可族とやらの。

 まだ水緒の話を全て聞いたわけではないが、今までに聞いたことを考え合わせると流は鬼の中でも特に最可族に狙われているらしい。

 だとしたら物忘れのことは知られない方が賢明だろう。

 流が歩き始めても女はそこに突っ立ったまま様子を窺っていた。


 水緒と人通りの多いところ――盛り場と言うらしい――を歩いていると男とすれ違った。

 その瞬間、男が水緒の懐から何かを抜き取る。

 流が即座に腕を掴んでひねり上げた。


「いででで……」

 男の手から小さな袋が落ちて鈴の音がした。

 地面に目を落とすと袋には小さな青い鳥のようなものと鈴が付いている。


 あれは……。


「あ、私のお財布」

 水緒が自分の懐に手をやって無くなっているのを確認すると財布を拾い上げる。

「こいつはどうすればいいんだ?」

 流の質問に水緒が答える前に別の男が駆け寄ってきた。

「あんちゃん、お手柄だったな」

 男がそう言って財布を盗ろうとした男のもう一方の腕を掴む。

 流が訊ねるように水緒に視線を向けると、水緒が頷いたので手を放した。

 男が男を連れていく。


「流ちゃん、ありがと」

「今のは?」

「え、ああ」

 流が捕まえたのが掏摸すり、それを連行したのは御用聞きという罪を犯した人間を取り締まる役目の者だと教えてくれた。

 掏摸は人の財布を盗むという罪を犯したから御用聞きに掴まったと言う事らしい。


 家に戻ると台所に行く前に自分の部屋に戻った。

 机の上の財布を手に取る。

 中に入っているのは以前、水緒が教えてくれた金というものだが持ち歩く必要はないと思っていたので置きっぱなしにしてあったのだ。

 金が無いと買い物が出来ないと言われたが飯は食わせてくれるし、着物が破れるような目にもわないのに何枚もある。


 何故何枚もあるのか聞いたら、洗ったり、ほつれたりしているのをつくろっている時の替えだという。

 そう言われてみればどれも綺麗で汚れが付いていない。

 記憶を失う前に流が着ていた着物は破れたり布と布のつなぎ目の糸がほどけたりしていたがここにはそんな状態の物はない。

 良く見ると裂け目のあるものもあるが、裏に布を当てて目立たないようにってある。


 だから金は必要ないと思って部屋に置いていた。

 その財布にはさっき水緒の財布にあったのと同じ青い鳥が付いている。

 互いに同じ物を持ち歩いていたのだ。


        五


 夕餉の席で桐崎が、

「流、明日の夕方は出掛けるなよ」

 と告げた。


「なんで?」

「お仕事だよ、流ちゃんの」

 水緒が言った。

「仕事?」

「化物退治が流ちゃんのお仕事なの。流ちゃんはそれでお金を稼いでるんだよ」

「水緒が水茶屋で働いてるようなものか?」

「うん、私は水茶屋。流ちゃんは化物退治がお仕事」

 と水緒が教えてくれた。


 つまり台の下にあった金はそれで貰った金だったということか……。


 水緒の話を聞くのが楽しみになっていたのだが仕方ない。


「流、お前、水緒の送り迎えをしておるようだが……」

 討伐先に向かっている途中で桐崎が言った。

「午前中は稽古だし、午後は水緒は働きに行ってていないんだから話を聞きたかったら一緒に行くしかないだろ」

「話?」

「俺の記憶が無くなってからのだ。師匠と会う前のことは水緒に聞かないと分からないだろ。それとも水緒から聞いてるか?」

「いや、詳しいことは……」

 桐崎が知らないなら水緒に聞くしかない。

 家にいる時間が合わないのだから話を聞くためには水茶屋への往き来を一緒にするくらいしかない。

 桐崎では教えられないことだからめろとは言えなかったようだ。


 広い庭のある屋敷で流と桐崎、小川は依頼人と一緒にいた。


「ど、どうしても儂はここにいなければならないのか?」

 依頼人が震える声で言った。

 それはさっきから流も疑問に思っていた。

「化物はあなた様のところに来ます。離れたら襲われても助けられませぬがよろしいですかな」

 小川がそう言うと依頼人は小声で何やら呟いていた。

 流が首を傾げる。

 屋敷には結界が張ってあると言っていた。

 それなら屋敷の中では襲われないのではないだろうか。

 討伐をしなければならない流達は中に入ってしまうわけにはいかないだろうが。


 不意に気配を感じて流は柄に手を掛けた。

 次の瞬間、怨念の塊が依頼人目掛けて突進してくる。

 依頼人の周囲に張った結界にぶつかる寸前、流は抜刀と同時に剣を一閃させた。

 怨霊がちりとなって消える。


「流! 何をしておる!」

「何って、これが仕事なんだろ」

「そうなんだが……」

 桐崎は迂闊だったという表情で溜息をいた。

「よくやった。家の者から金を受け取ってくれ。もう帰って良いぞ」

 依頼人はそう言うと上機嫌で屋敷に戻っていった。


「何がマズかったんだ?」

「あれは依頼人に死に追いやられた者達の怨念の塊だ」

「きちんとりさせないと何度でも同じ事をやってもっと被害者が増えるだろう」

「今のは被害者の怨念なんだろ。なら被害者がいなくなったら仕事が無くなるだろ」

「物忘れをしてもやはり鬼は鬼か……」

 小川が呆れ顔で言った。


「わざわざ怨霊など生み出さずとも化物はいくらでもおる。仕事には困らん」

「依頼人が他の者を苦しめるのを止められるならその方が良い。次からはそれがしが良いと言うまで手を出すなよ」

「分かった」

「嫌な仕事であったな」

「今日は飲んで帰ろう」

「流、行くぞ」

 桐崎と小川の言葉に流は素直にいていった。


 桐崎と小川は騒々しい店に入っていた。

 水緒が働いている店の客もお喋りはしているがここまでの喧噪けんそうではない。

 こんなうるさい店によく平気で入れるものだ。


「いらっしゃい」

 そう言って女が近付いてきた。

 離れた場所からでもキツい臭いがする。


「あら、こちらは初めて見……」

 女が隣に座ろうとする前に流は椅子から立ち上がって後ろに飛び退いた。

「流、どうした」

 桐崎と小川が目を丸くする。

「臭い」

「え……」

「何か臭うか?」

 桐崎達と女が臭いを嗅ぐように辺りを見回す。


「その女、すごく臭い」

 流がそう言った瞬間、桐崎と小川が愕然とした表情になり、女は目を吊り上げて物凄ものすごい形相になった。

「ここはうるさいし、臭い。俺は帰る」

 流はそう言うと呆気に取られている桐崎達を残して店を出た。


 店を後にして歩き出してから帰り道が分からない事に気付いた。

 記憶を失う前は道を知っていたのだろうが江戸に来る前のことは忘れてしまったのだから道も分からない。

 道も水緒に教わった方がいいようだ。


 散々迷って家に辿り着いたのは大分遅くなってからだった。

 戸を開けると、奥から足音が近付いてきた。


「お帰りなさい」

「え、起きてた待ってのか? 師匠が先に寝てろって言ってただろ」

 待っていると分かっていたらあんな店には行かなかったのに。

「あ、もしかしてお店に寄ってきた?」

「分かるのか? もしかしていつも行ってたのか?」

「そうじゃなくて、白粉おしろいの匂いがするから」

「白粉?」

 流が首を傾げると水緒が化粧と言って顔を白くしたり唇や頬を赤くしたりするために色を塗ることだと教えてくれた。

 やけに白い顔をしていると思ったら、あれは白い粉を塗り付けていたらしい。

 あの白い粉が臭いの元だったようだ。


「あんな臭いもの、よく付けられるな」

 流が顔をしかめると、

「お化粧、好きじゃない?」

 水緒が訊ねた。

「臭くて我慢出来なかったから先に帰ってきた」

「そうなんだ」

 水緒が少し安心したような表情になる。


「じゃあ、何も食べてないの? お腹いてない?」

 化物討伐自体は疲れるようなことではなかったが夜遅いから腹は減っていた。

「食い物があるのか?」

「今、作るから待ってて」

 水緒はそう言って台所へ向かったので流もいていった。


「足りた?」

 流が夜食を食い終わると水緒が訊ねた。

「ああ」

「良かった。疲れたでしょ。私はここを片付けるから先に休んで」

 別に疲れてはいなかったが水緒がそう言うので部屋に戻った。


 翌朝、いつもより遅い時間になってから慌てた様子で水緒がやってきた。


「遅くなってごめんなさい。朝餉が出来ました」

 水緒が謝る。

「寝坊なんて珍しいな」

 桐崎が笑いながらそう言った。


 そうか、夕辺は遅かったから……。


 今までは早く寝ていたが昨日は流の帰りを待っていたから夜更かししたので寝坊したのだ。


 けど……。


 討伐の仕事はずっと前からしていたと聞いている。


 それなのに寝坊が珍しいという事は今までは遅くまで起きていたことはなかったと言う事なのか?


 流が物忘れになったのをまだ自分のせいかもしれないと気にしているのかと思い掛けてから夕辺帰ってきたときのことを思い出した。


 そうか……。


 今までは水緒が起きて待っていると分かっていたから流はすぐに帰っていたのだ。

 だから水緒は夜更かしをすることもなく、寝坊もしなかったのだ。


 しかし桐崎もそれは知っていたはずだ。

 それなのに何故桐崎達は流をあんな店に連れていったのだろうか。

 水緒に嫌がらせをしようとしたわけではなさそうだが。

 人間の考えることは理解に苦しむ。

 流は首を傾げた。


       六


 稽古の後の勉強は水緒ではこれ以上は分からないというので終わった。


 水緒は水茶屋に行くまでの間、つくろい物をするようになった。

 今までは流に教えるために後回しにしていたらしく大分まってしまったているようだ。

 繕い物をしながらでも話は出来るというので水茶屋に行くまでの時間も続きを聞いた。


 夕方、水緒の水茶屋に行くと、あの鬼の女が水緒に話し掛けているところだった。

 女の方は親しげな態度だが水緒は困ったような表情を浮かべている。


「水緒」

「流ちゃん」

 水緒がホッとした表情を浮かべたのを見て二人の間に割って入ると鬼の方を向いた。


「何をしている」

「何ってお塩を借りに来ただけだよ。あたしの店はそこだから」

 鬼の女は数軒先の店を指した。

 女はかすかに身構えている。

 流の反応を窺っているようだ。


「本当か?」

 水緒の方を向いて訊ねた。

「ホントに忘れちまったんだね」

 その言葉に流は僅かに眉をしかめた。

 出来れば知られたくなかったのだが。

「塩は渡したのか?」

 水緒に聞くと頷いた。

「だったら用は済んだだろ。水緒、仕事中だろ。早く戻れ」

「うん」

 水緒は逃げるように店内に戻っていった。


「お前も働いてるんなら仕事中じゃないのか。なんでこんなところで油を売ってるんだ」

「あたしはこれからさ。仕事前に借りに来ただけだよ」

 女は肩をすくめると、

「あ~、忙しい、忙しい」

 とわざとらしく言いながら踵を返した。

 流が見ていると女は数軒先の店に入っていった。

 店の入口付近にいた客が、

「お団子一つ」

 と注文すると、

「あいよ」

 と答えていた。


 あの店で働いているのは本当らしい。


「流ちゃん、お待たせ」

 女が店に入っていくのと入れ違いに水緒が出てきた。

「水緒、あの女は知り合いか?」

「ううん」

 水緒が首を振った。


「流ちゃんは知ってたみたいだけど」

「どんな知り合いか言ってたか?」

「流ちゃんがあの人と一緒にいる時、最可族に襲われたみたい。それで流ちゃんが助けてあげたら感謝されたって」

「どうしてあの女と一緒だったかは聞いたか?」

「ううん、前にあの人が話し掛けてきた時、流ちゃんに近付くなって言われただけ」

「近付くな? 俺がそう警告したのか?」

「うん」

 水緒が頷いた。


「なら俺の物忘れのことも言ってないよな」

「あの後はさっきまで会ってないから。けど……」

「けど?」

「その時は私は供部くべだから、最可族に狙われてる人と一緒にいたら周りの人が巻き添えになるからって言ってた」

「くべ?」

 聞き返した流に水緒が供部の説明をした。


 そういえば流が最初に水緒を助けたのは生贄にとして喰われそうになった時だったと言っていた。

 水緒は母親共々村に生贄用に買われてきたらしいと。

 供部について詳しく聞くと人間も鬼も大した違いは無いように思えてくる。


 流は水緒にあの鬼の女については詳しく言ってなかったようで、顔見知りらしいと言う以上のことは分からなかった。

 あの鬼は馴れ馴れしい割りには警戒が仄見ほのみえていて親しかった者の態度ではない。

 それは水緒や桐崎達を見ていれば分かる。

 小川は流の事を「鬼は鬼だ」などと言ってはいるがだからといって警戒はしていない。

 流は意味のなく他者に危害を加えたりしないと知っているから側に居るからと言って用心したりしないのだ。

 警戒するのは流のことを知らないと言うことだから、あの鬼は顔見知り以上の者ではなかったのだろう。


 翌日の夕方、流が水茶屋の前で水緒を待っていると、

「最近、また来るようになったけど、喧嘩でもしてたの?」

 店の中で誰かの声がした。

「あ、そういうわけでは。流ちゃんも忙しいので……」

 水緒が答えているのが聞こえた。


 鬼の女も流をしばらく見なかったと言っていた。

 桐崎が流から離れろと言ったから黙っていただけで流はずっと水緒の送り迎えをしていたのだ。

 流は近くで騒いでいる男達に目を向けた。

 男達が女に絡んでいる。

 この前の掏摸もそうだが、この辺ではあの手の揉め事をよく見掛ける。

 水緒も一人だとあの手合いに絡まれるかもしれない。

 だから流は心配で送り迎えをしていたのだろう。


「流ちゃん、お待たせ」

 水緒がそう言いながら店から出てきた。

 流は水緒と一緒に歩き出す。

 話を聞いていると、ようやく桐崎が出てきた。


 二人が行く当てもなく彷徨さまよっているときに桐崎と知り合ったらしい。

 江戸に来たのは桐崎が住んでいるからとのことだった。

 ここで暮らし始めてからは今のように流は剣術の稽古、水緒は水茶屋で働き始めた、そこで話は終わった。


「え……。俺達が知り合ってから師匠に会うまで一年もってなかったんだろ」

「うん」

「それなのに、師匠に会った後はそれだけで終わりなのか? 五年間、話すようなことは何も起きなかったのか?」

「江戸に来る前は流ちゃんも狙われてたし、私も供部の上に贄の印があったから何度も鬼に襲われたけど、江戸ではこの前まで鬼に襲われたこと無かったから。討伐に行った時の話は流ちゃんから聞いたことないし」

 そう言われれば流も記憶を失った後、この前の化物退治以外では一度も戦っていない。

 鬼もあの女しか見ていない。

 つまり江戸では鬼や妖のたぐいより人間の方が遥かに危険なのだ。


 夕餉を告げに来た時、水緒は躊躇ためらいがちに、

「あの……もうすぐ川開きなのですが……」

 と桐崎に言った。


「もうそんな季節か」

 桐崎が答えた。

「川開き?」

 流がどちらにともなく訊ねた。

「花火を沢山打ち上げるの。花火って言うのは、えっと……」

 水緒が口籠くちごもる。

 言いづらいことがあって口に出来ないというより、どう説明したら良いか分からなくて困っているという感じだった。


「見た方が早いだろうが……水緒も見たいだろう」

「いえ……一人で見ても楽しくないと思いますから」

「どちらにしろ夜一人で行かせるわけにはいかんが……」

 桐崎が考え込んだ。


 そうか……。


 今まで流は水緒と一緒に行っていたのだ。

 桐崎は水緒と流を親しくさせたくないのだろう。

 この前盗み聞きした内容からして記憶が無くなる前の流は水緒とかなり親密だったようだが、それはあまり好ましくなかったからまた同じ事になるのを危惧きぐしているようだ。


「私は家にいますからおじ様は流ちゃんを連れていってあげて下さい」

「いや、しかし……」

「あの音はここからでも聞こえるのでしょう。教えてあげないと流ちゃんはびっくりすると思います」

「そうか。雷のような音だからな。天気が良いのに突然そんな音がしたら驚くだろうな。敵襲だと思われて暴れられても困るな」


 そんなにすごい音がするものなのか……。


 だとするとこの前桐崎達に連れていかれた店よりもうるさいという事だろう。

 正直そんな騒々しい場所にわざわざ行きたいとは思わないのだが知らないと敵襲と思ってしまうかもしれないのなら見るだけ見ておいた方がいいだろう。

 何故人間はそんなものを好むのか理解に苦しむが。


「ではこうしよう。それがしと流と水緒の三人で行こう」

「初めて江戸に来た時みたいですね」

 水緒が懐かしそうに言った。


 そうか……。


 水緒も山奥で暮らしていて花火は見たことがなかったのだから江戸に来て初めて見たのだろう。

 その時はまだ子供だったこともあって桐崎が流と水緒を一緒に連れていってくれたようだ。

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