第四章

       一


 ある日、午後の稽古が終わり片付けをしていると「桐崎殿」という言葉が聞こえてきた。

 門弟達は桐崎のことは師匠と呼ぶから桐崎殿というのは流のことだ。

 どうやら流の話をしているらしい。


「山崎殿、桐崎殿には水緒さんという許嫁が……」

「ちょっと遊ぶくらいで大袈裟な」

 山崎と呼ばれた男は小森の言葉を遮ってそう言うと流の方へやってきた。

「桐崎殿、これから皆で深川の見世みせり出すのだが一緒に行かないか?」

「店? 何の?」

「岡場所です」

 小森が囁いた。

「水緒と何か関係あるのか?」

「普通の女性にょしょうはそう言うのを嫌がりますから、水緒さんもそうではないかと……」

「俺は水緒の迎えがあるから」

 流はそう言って道場を後にした。

「今から水緒殿の尻に敷かれてるようでは……」

 山崎が小声で仲間に囁いた。

 流は人間には聞こえない音でも聞こえるから山崎の言葉も耳に届いていたが、別に他人に何を言われようと気にならない。


 水茶屋へ向かっていると途中にあの鬼の女が立っていた。

 確か、つねとか名乗っていたような気がする。

 流が無視して通り過ぎると並んで歩き出した。


「消えろと言ったはずだ」

「だからあの時ちゃんと消えたじゃないか。ずっと消えてろとは言われなかったからね」

「じゃあ、ずっと消えてろ」

「もう礼はした。あんたの指図は受けないよ。ねぇ、あんたの名前は?」

 流はそれ以上何も言わずに足を早めた。

 つねが足早にいてくる。

「あの女……」

 つねが言いかけた途端、流は足を止めて振り返った。

「水緒に手を出したらお前を殺す」

 流の殺気立った様子に、つねが思わず後ろに後退あとずさった。


「べ、別に、手を出すとは言ってないだろ。ただなんで人間なんかとつるんでんのかと思ってさ」

「お前には関係ない」

 そう言うとまた歩き出した。

「なんでこんな町中に人間の格好して住んでんだい?」

「お前だって住んでるだろ」

「あたしは最可族の刺客から隠れるためさ。あんたは?」

「別に」

 水緒がいるからだが自分の弱点をわざわざ教える気はない。


「あんたを狙ってるのも保科ってヤツかい?」

 その問いに流は足を止めた。

「保科?」

「知らないのかい? 最可族の刺客の後ろで糸を引いてるのは保科って男だよ」

「なんで仲間を狙うんだ?」

「仲間じゃないよ。奴らにとってはね。最可族は混血を嫌悪してて、純血じゃないヤツを殺して回ってる。あんたも混血で狙われてるのかい?」

 その問いには答えず流は黙って再び歩き出した。


 保科が刺客をあやつっている?


 しかし保科の流に対する忠誠は本物だった。

 つねはともかく自分を襲わせていたとは考えづらい。

 まぁもう保科はいないのだし、つねがどうなろうとどうでもいい。


 そう思った時、

「ね、手を組まないかい?」

 つねが言った。

「手を組む?」

 流はつねを見た。

「狙われてるのはあたしだけじゃないんだ。可支入かしり族の母さんも狙われてるんだよ。あんただって戦うなら数が多い方がいいだろ」

「俺は一人の方がいい」

 流はそう言うと足を早めた。

 つねは後に一人取り残された。


 水緒が夕餉の支度のために台所へ行くと流は桐崎に身を寄せた。


「何だ、流」

 桐崎が不審そうに流を見た。

「岡場所って何だ?」

「岡場所? 女と遊ぶところだが、それがどうした」

「遊ぶって何をして?」

「何って、女と遊ぶと言ったら意味は一つしかないだろう」

 その意味が分からない。

双六すごろくをしたりするのか?」

「いや、大人の遊びだ」


 なんだそれは……。

 大人と子供で遊びが違うのか?

 と言うか、大人も遊ぶものなのか?


「水緒が嫌がるのはどうしてだ?」

「お前、水緒に岡場所へ行くと言ったのか!?」

「言ってない。ただ岡場所へ誘われた時、小森が水緒は嫌がるだろうって言ってた」

「そりゃ、女としてはいい気分ではないだろうな。自分がいるのに他の女と、その……。まぁ、水緒は悋気りんきを起こすようには見えないが」

 いつもはっきり物を言う桐崎にしては歯切れが悪い。

「つまり岡場所って言うのはどういうところなんだ?」

「要するに……奥田が水緒にやろうとしていたことをする店だ」

「女に暴力を振るうのが遊びなのか!?」

 それでは鬼と同じではないか。

「いや、暴力を振るったのは水緒に言うことを聞かせるためで本当にしたかったのは別の事だ」


 よくは分からないが奥田が水緒を殴ったのは本来なら親しい男女がするようなことをしようとして水緒が断ったからで、岡場所というのは力尽くで言うことを聞かせるのではなく、代わりに金を払ってそこにいる女とする場所という事らしい。

 なぜ親しい相手とすることを金を払ってまで親しくない相手としようとするのか理解出来ない。

 流は水緒以外の女には興味がないから、本来なら水緒とするようなことを他の女としたいとは思わない。


 それに水緒は、桐崎の言うとおり悋気は起こさないだろうが悲しむのではないだろうか。

 水緒が悲しそうだと流も悲しくなるし、嬉しそうだと自分も嬉しい。

 だから水緒を悲しませるようなことはしたくない。

 金を払ってまでするなんて論外だ。

 それくらいなら櫛や簪を買って水緒に贈る方がいい。


「夕餉が出来ました。流ちゃん、おじ様、何のお話をしてたんですか?」

 水緒がまず桐崎の分の膳を持ってきた。

「あ、門弟達の事だ」

 桐崎が慌てて誤魔化ごまかした。

「そうですか」

 水緒はそれ以上聞かなかった。

 流は内心ほっとした。

 行ったわけではないとはいえ岡場所の話をしていたなどと言うことは知られたくない。

 もっとも水緒は岡場所がどういうところか知らないかもしれないが。


 数日後、水茶屋へ迎えに行くと水緒が錦絵を差し出した。


「これ、私の錦絵」

 流は錦絵に目を落とした。

 水緒の立ち姿だった。

 身体は正面を向き顔は後ろを振り返ろうとしていた。

「どうかな?」

 水緒が流を見上げた。

「良く描けてるんじゃないか?」

 江戸中の男が見に来るには十分なほどに。


 ふと、つねの話に保科が出てきたことを思い出した。

 保科は江戸に来ているのだろうか。

 もし来ていてこの錦絵を見たとして、水緒だと分かるだろうか。

 保科は頭がいい。

 子供の頃に会っただけでも、成長した姿を思い描けば水緒だと分かってしまうのではないだろうか。

 保科が流に危害を加えるとはこれっぽっちも思っていない。

 しかし水緒に対しては違う。

 流のためだと思えば殺すのを躊躇ためらったりしない。

 錦絵が保科の目に止まらないといのだが。


       二


 その日は珍しく流の迎えが遅くなり、水緒と二人、逢魔おうまときの帰り道を歩いていた。


「うぅ……」

 流はうめき声を聞いた。

 声の方を振り返ると水緒もそちらを見た。

 道端に何かがうずくまっている。

 妖だった。

 名前は知らないが異形いぎょうの者だ。

 小さな子供くらいの大きさだった。


「大変! ケガしてる! 早く手当てしないと!」

 水緒は流が止める間もなく妖に駆け寄った。

「水緒! そいつは妖だ! 化物だぞ!」

「でも、ケガしてるよ」

 水緒は妖の前に膝を突くと手拭いを裂いて傷に巻こうとした。

 その手を妖が払う。

「人間、触るな……儂は妖だ」

「水緒、聞いただろ。そいつは化物だ。放っておけ」

「でも、ケガしてるんだよ。放っておけないよ」

 そう言うと裂いた手拭いを妖の傷に巻いていった。


「大丈夫?」

 水緒が妖を覗き込んだ。

「う……」

「ここにいたら誰かに殺されちゃうね。流ちゃん手伝って」

 水緒がそう言って妖を持ち上げようとした。

 流は渋々水緒に手を貸して妖を持ち上げると、側にあった小さな稲荷の祠の裏に運んだ。

「治るまでじっとしてて。ここなら見付からないと思うから」

「水緒、早く帰ろう」

「うん」

 水緒は何度か心配そうに稲荷を振り返りながら帰路にいた。


 翌朝、流が素振りをしていると、水緒が辺りを見回しながら、こそこそと出てきた。


「水緒、どうした」

「きゃ! あ、流ちゃん」

 水緒は手拭いに包んだものを抱えていた。

 匂いで握り飯だと分かった。

「それ、あいつに持ってくのか?」

「うん、ご飯食べないとケガが治らないでしょ。流ちゃん、おじ様には内緒にしておいて」

「分かった。気を付けろよ」

「うん、ありがと」

 水緒はそう言うと家から出て行った。


 いていこうかと思ったが何となく、あいつは水緒には危害を加えないような気がしたのでめておいた。

 あの妖に自分と同じ匂いを嗅いだのだ。

 自分が水緒の優しさに心を奪われたように、あの妖も水緒に惹かれたような気がした。


 その日の午後、水緒の迎えに行く途中、路地からつねが出てきた。

 この前もこの道から出てきたからこの辺に住んでるのかもしれない。


「そろそろ暑くなり始めるね」

 つねが流の隣を歩きながら言った。

 流は返事をしなかった。

「あんたは江戸に住んでどれくらいだい? あたしはもうすぐ三年になるんだ」

 つねは流の態度を気にした様子もなく話を続けた。

「江戸は人が多いだけあって、最可族にはそう簡単に見付からないのがいいね」

 などと言っているうちにつねが働いてる水茶屋まで来た。

「じゃあね」

 つねはそう言って店に入っていった。


 その数件先の水緒の働いている店に行くと、いつも以上に繁盛していた。

 錦絵を見てやってきた者達だろう。

 大勢の男達でごった返している。

 水緒は忙しそうに動き回っていた。

 それでも、すぐに流に気付くと嬉しそうに微笑わらった。

 何人かの客が水緒が笑顔を向けた相手は誰なのかと振り向く。

 流は隅の方の席に腰を下ろすと水緒の仕事が終わるのを待った。


 朝、水緒がこっそり握り飯を持って祠へ行き、夕方流が迎えに行く途中でつねがやってきて一人で喋って去って行き、その後、水緒と一緒に家に帰るという日が何日か続いた。


 ある朝、水緒は白い花のついた小枝を持って帰ってきた。


「水緒、それは?」

「あそこに行ったらあの妖さん、いなくなっててこれが置いてあったの」

「水緒への礼か」

「やっぱりそうなのかな」

 水緒は花の枝に目をやった。


 二人で家に入ると、お加代が何やら騒いでいた。


「どうしたんだ?」

 流が桐崎に訊ねると、

「ここ何日か、飯が減っているというのだ」

 と答えた。

 流と水緒は顔を見合わせる。

「きっと誰かが盗みに入ってるんですよ!」

 お加代が言った。

「あ、あの、それは……」

「俺が食った」

 水緒を遮って流が言った。

「お前が?」

「違うの、おじ様! 私が持ち出してたの! ごめんなさい!」

 水緒がそう言って頭を下げた。


「何だ、野良犬にでもやってたのか?」

「犬じゃなくて……」

「犬でも猫でも良い。怒らないからそう言う時はちゃんと断りなさい」

「はい。ごめんなさい」

 水緒が謝った。

「流ちゃん、ありがと」

 そう言うと夕餉の支度のために台所へと入っていった。

 台所から、

「水緒ちゃん、ごめんよ」

 と言っているお加代の声が聞こえてきた。


 午後の稽古が終わり、片付けをしていると誰かの「最近、土田を見ないな」という声がした。

 流が片付けをしながら聞くともなく聞いていると、この前岡場所へ行ってから女にハマって通い詰めているらしい。

 他にも何か言っていたが、水茶屋に行く時間なのでさっさと片付けると着替えて道場を後にした。


 やはり今日もつねがやってきて色々と喋りだした。

 一人で良く喋るものだと思うが、考えてみると水緒も流に色々話している。

 水緒の話ならいくら聞いても飽きないが、つねの話は全く耳に入らなかった。

 いつ、つねがいなくなったのか気付かなかったが水緒の働いている水茶屋に着いた時には姿がなかった。


「ね、流ちゃんに女の子の知り合いる?」

 帰り道、水緒が流に訊ねてきた。

「水緒以外いない」

「お客さんが、流ちゃんと女の子が一緒に歩いてるの見たって言ってたの」

 その言葉に首を傾げた。

 流には全く心当たりがない。

 見間違えではないのかと返事をし掛けてようやく思い当たった。


「ああ、あれか。あれは知り合いじゃない」

 そう言ってから、何か説明しなくてはいけないような気がして、

「鬼の女で最可族に狙われてるらしい。俺が一緒の時に一度襲われた」

 と付け加えた。

「流ちゃんが助けてあげたの?」

「助けたわけじゃない。襲ってきたから倒したら勝手に感謝して礼だとか何とか言ってきたんだ」

「そうなんだ」

 水緒は流の説明に納得した様子で、それ以上つねのことには触れずに今日あったことを話し始めた。


 稽古が終わり、流は片付けをしていると門弟達が紙を見せ合いながら興奮した様子で話していた。

『水緒』という名前が会話の端々に混ざっているから門弟達が持っている紙は水緒の錦絵だろう。

 もう門弟の中で持っていない者はいないようだ。


       三


 水茶屋に向かっていると、つねがやってきた。

 いつも通り無視して通り過ぎた時、桐崎に言われたことが脳裏をよぎった。

 水緒がいなくなった後のことを考えておけと言われたが、想像しただけで息が苦しくなる。


 他の誰かと親しくしたいとは思わない。

 保科ですら信用はしたものの離れたくないとは思わなかった。

 水緒のいない世界で生きていくくらいなら死んだ方がマシだ。

 流は不死身ではないはずだ。

 死なない者をわざわざ殺しに来るはずがない。

 鬼達が殺しに来るという事は死ぬという事だ。

 それなら水緒を失った後、もし自分で死ぬことが出来なかったら鬼が殺しに来たとき抵抗しなければ死ねるだろう。

 だから水緒がいなくなった後のことなど心配する必要はない。

 流はそれ以上考えないことにした。


 金のない門弟達ですら誰もが持っているくらい錦絵が売れているのだから、当然水緒が働いている水茶屋は日がつごとに客が増えていっている。

 店内に入りきれない客達が店の外から一目水緒の姿を見ようと中を覗いていた。

 辺りを探ってみたが妖の気配はしない。

 とはいえ水緒の場合、人間の男も脅威になり得るのは奥田で証明済みだ。

 ただでさえ江戸は男の方が多くて女が少ない。


 早く別の錦絵を出して男共にはそちらへ行って欲しいのだが売れている最中に次は出さないだろう。

 何より錦絵というのは絵を元に複数の版木を彫って様々な色を重ねていくことで多彩な色使いの絵にしているのだ。

 絵師が絵を描いて、それを元に版木はんぎを彫って、紙に色を載せて、という手順が必要なのだからそう簡単に次から次へとは出せない。

 それ以前に錦絵に描いて売れるような綺麗な娘を見付け出してこないといけないというのもある。


 いつものようにつねは路地から出てくると流に向かって何やら話をしていた。

 流は無視したまま歩き続ける。


「実は次はあたしを錦絵に描きたいって言われたんだけどさ。断っ……」

 つねの言葉に流は顔を上げると振り返った。

「描いてもらえばいいじゃないか」

「えっ……!?」

 つねが驚いたような表情を浮かべた。

 返事をしたことも答えた内容も予想外だったのだろう。

「……描いてもらった方が良いと思う?」

「ああ」

 今の客が他所よその店に行ってくれるなら誰でもいい。

 江戸っ子は流行り物に敏感だから新しい錦絵が出ればすぐにそちらに行くはずだ。

「じゃ、じゃあ、描いてもらおうかな。あんたも買ってくれるのかい?」

「いいや」

 流が素っ気なく答えた時、つねの店の前に差し掛かった。

「じゃあね」

 つねはそう言って店に入っていった。


 数日後、夕暮れの道を流と水緒は歩いていた。

 店が繁盛しすぎてしまって最近はいつも遅くなってしまうのだ。

 人気ひとけの無い道を歩いていると、二人の前に男達が立ち塞がった。


「どけ」

 流がそう言うと、

「おぇは帰っていいぜ。用があるのはその娘だからな」

 男が言った。

「こっちはお前らに用はない。失せろ」

 流が男達を睨み付ける。


「こっちはあんだよ」

「ケガするぇにとっとと帰んな」

 目の前の男がそう言っている間に別の男が水緒に手を伸ばす。

 流が無言で殴り付けた。


「野郎!」

「やっちまえ!」

 男達が同時に流に殴り掛かってきた。

 流が目の前の男の鳩尾に拳を叩き込む。

「ぐっ……」

 男が胃液をまき散らしながらよろける。

 その男が倒れる前に横にいた男の頬を殴り付け、即座に反転すると背後の男の顔面に拳を叩き込んだ。

 残った男が慌てて逃げ出そうとしたが、その前に流が襟首を右手で掴んだ。


「待て、何が狙いだった」

「わ、悪かった。許してくれ!」

「許して欲しいなら理由を言え。言わないなら……」

 流はそう言って左手で鯉口を切った。

 男の顔面が蒼白になる。


「す、すまねぇ。出来心だったんだ! 錦絵を見て、それで……」

「錦絵を見たからなのか?」

「あ、茶屋にも行った。そしたら錦絵よりもずっと綺麗だったから、それでつい魔が差しちまったんだ」

 男が早口で答えた。

「ホントにすまねぇ! 二度としねぇ。だから許してくれ」

「流ちゃん、離してあげて」

 水緒が取り成すように言った。

「ホントに二度と水緒には近付かないか。お前の仲間達も近付かせないと誓えるか」

「誓う! 約束する!」

 この男は人間だし、本当に水緒が可愛かったからちょっかいを出しに来ただけのようだ。

 流が手を放すと男は走り去った。


「水緒、大丈夫か?」

「うん、ありがと」

 二人は再び歩き出した。

 この調子では他にも絡んでくる者がいるかもしれない。

 早く次の錦絵が出てくれるといのだが。

 水緒よりももっと綺麗な女なら尚いい。

 そっちの方が綺麗だからと水緒の茶屋に戻ってこなくなるくらい美人の錦絵が出てくれることを願った。


 数日後、水緒の迎えに水茶屋へ向かっている時、人混みの中に保科の姿が見えた気がして咄嗟とっさに物陰に隠れた。

 気配を殺して辺りを窺っていたが保科の姿は見当たらない。

 保科とは五年前に会っただけだ。

 大人は数年程度ではあまり面変おもがわりしないし、一緒に過ごしたのは短期間だったから見間違いかもしれない。

 しかし、つねを狙っているのは保科だと言っていた。

 話の真偽はともかく、つねが保科を知っていたと言う事は江戸に来ているのかもしれない。

 今後はもっと身の回りのことに気を配った方がいいだろう。


 帰り道、流は周囲に目を配りながら歩いていた。

 水緒は今日水茶屋であったことを話している。


 こうやって水緒と二人、静かに過ごしていられればそれでいい。

 他の事は何も望まないから自分達をそっとしておいてほしい。

 流はそれだけを切に願っていた。


「今度、近所の水茶屋の人の錦絵が出るんだって」

 水緒が言った。

「普通なら別のお店の看板娘の錦絵は有難くないんだけど、さすがに今は忙しすぎるから少し減った方がいいってお店の人が言ってた」

 同感だ。

 この前の男達は二度と来ないだろうが、他の男達が同じ事を考えて水緒を襲ってくるかもしれない。

 ただでさえ水緒は供部だから普通より妖に襲われやすいのに、このうえ人間の男達にまで狙われたりしたら危険が増すばかりだ。

 男共には一日も早く他の店に行って欲しい。


       四


 ある日、路地から出てきたつねが浮かれた様子で近付いてきた。

 いつもと同じく無視して通り過ぎる。


「待ちなよ」

 つねはそう言ったが流はそのまま水茶屋へ向かう。

「待ってってば」

 小走りに追い掛けてきてつねは流の前に紙を突き出した。

 流が歩きながら紙を一瞥する。

 つねを描いた錦絵だった。

「ほら、やるよ」

「いらん」

「なんでさ。買わないって言ったのは金がなくて買えないからだろ」

「欲しくないからだ」

 見向きもせずに答えた流につねは言葉を失ったらしく足が止まった。

 流はそのまま先を急ぐ。


 つねはすぐに追い掛けてくると、

「やるって言ってんだから受け取りなよ」

 と流の前に錦絵を突き出した。

「ねぇ、ほら」

 受け取るまで付きまとってきそうな勢いだ。

 流は溜息をいた。

「本当に受け取るだけで良いのか?」

「ああ」

 つねの言葉に流は紙を受け取った。


 そのまま錦絵を道に捨てる。

 錦絵が風で飛ばされていく。

 つねが息を飲んだ。


「な、なんてことするのさ!」

「受け取るだけで良いと言ったから受け取っただけだ。ずっと持ってるとは言ってない」

「だ、だからって……」

「欲しくないと言ったはずだ」

 その答えにつねは唖然とした様子で流を見ていた。


 数日後、流が水茶屋に向かっているとつねが男達に囲まれていた。


「あ、ちょうど良かった。助けとくれよ」

 つねの言葉を無視して通り過ぎる。

「ちょ、ちょっと! 助けてって言ってるだろ」

「へっ、腰抜けめ」

「残念だったな」

 男達が口々に言ったがそのまま素通りした。

 他人に何を言われようが気にならない。

 関係のないことに首を突っ込む気はない。


「ま、待ちなよ」

 流に追い付いてきたつねが言った。

 どうやら自分で男達を倒してきたようだ。

 鬼にとって数人程度の人間など敵ではないのだから当然だろう。

「なんで助けてくれないのさ」

「助ける理由がない」

「この前は助けてくれたじゃないか」

「あれは俺を狙ってきたと思ったからだ。お前が狙いだと分かってたら助けなかった」

 流がそう言うと、つねは愕然がくぜんとした様子で目を見開いた。

 足を止めたつねを置いて流は水茶屋に向かった。


 次の日、つねは路地から出てこなかった。

 ようやく消えたのだと思って水茶屋に行くと、つねが水緒に話し掛けようとしているところだった。

 流が急いで間に割って入る。


「水緒に近付くなと言ったはずだ」

「流ちゃん?」

「な、なんだい、話すくらい……」

「駄目だ」

「女を束縛する男は嫌われるよ」

「他の事はともかくお前は駄目だ」

 流はそう言うと水緒の腕を掴んで水茶屋から離れようとした。


「り、流ちゃん、どこに行くの!?」

「帰るんだ」

「お店に断ってからじゃないと……」

「なら早く言ってこい」

 流はそう言うとつねを睨み付けた。

「失せろ。お前は鬼だ。殺したところで誰からも文句は出ない。水緒に近付こうとするなら容赦しない」

 流が左手で鯉口を切る素振りを見せると、つねは何も言わずに立ち去った。


「流ちゃん、お待たせ」

 水緒が出てくると一緒に歩き始めた。

「水緒、二度とあの女に近付くな」

「どうして?」

「あいつは鬼だ。しかも最可族に狙われてる。最可族が襲ってきたとき側にいたら巻き込まれる」

「でも……」

「お前は供部だ。あいつを殺しに来た最可族に気付かれたらお前も襲われる。そうなったら近くにいる他の人間達も巻き添えになるんだぞ」

 自分だけならともかく他の人間が巻き込まれると聞けば水緒は距離を置くはずだ。

「下手に人間じゃない者に近付いて供部だと悟られるようなことはするな」

「うん、分かった」

 水緒は素直に頷いた。


 水緒を迎えに行くために門を出ると門弟の一人が駆け寄ってきた。

 確か土田と言ったはずだ。

 岡場所にハマったとかで最近稽古には来ていなかった。

 今日も稽古には出ていない。


「桐崎殿、大変です! 水緒殿が!」

 土田が声を掛けてきた。

「水緒に何かあったのか!?」

 流が土田に詰め寄った。

「鬼にさらわれて……」

 土田が寺の名前を言った。

 そこに水緒が連れ込まれるのを見たらしい。

 沢山の鬼が居て自分一人では敵いそうにないと思って助けを求めに来たという。

「お前はおっさ……師匠に伝えてくれ!」

 流は土田にそう言うと寺に向かって駆け出した。


「水緒!」

 流が寺に駆け込むと水緒は無事だった。

 水緒が無事なのを見て安心したものの、これだけ沢山の鬼がいるのに供部の水緒を喰っていないという事は目的は流だろう。

「流ちゃん、逃げて!」

「黙れ!」

 鬼が水音の方を叩いた。

「きゃ!」

「よせ! 俺が目当てなんだろ! 水緒を放せ。俺のことは好きにしていい」

「流ちゃん!」

 水緒の顔が逃げろと言っている。


「ほら、あいつがああ言ってるんだ、早く言いな」

 鬼の言葉に水緒は口を噤んで顔を背けた。

「早く言え!」

 再び鬼が水音の頬を張る。

 高い音が響いた。

「っ!?」

 水緒が唇から血を流す。

 祟名を言えと迫っているのだ。

 水緒は口を開こうとしなかった。


 鬼が再び水緒を殴る。

 それでも黙っていると、また。


「やめろ! 水緒を放せ!」

 流が駆け寄ろうとすると鬼が長い爪を水緒の首に突き付けた。

 流の足が止まる。

「近付いたらこの娘を殺す」

 鬼はそう言うと水緒の髪を掴んだ。

「さぁ、早く言え!」

 鬼がそう言っても水緒は口を開こうとしない。

 今度は拳で水緒を殴る。

 鈍い音が聞こえた。


「ぐっ!?」

「水緒!」

「言え!」

 鬼が二度、三度と水緒を殴る。

 それでも水緒は言わなかった。

 殴られる度に水緒の顔から血が飛び散る。

 腹を蹴られたとき、血を吐いた。

 臓腑ぞうふをやられたのかもしれない。


「水緒!」

 流が駆け寄ろうとする度に鬼が水緒に爪を突き付ける。

 そして何度も水緒を殴り続けた。

「水緒! もういい! 言え! 大丈夫だ!」

 そろそろ桐崎が駆け付けてくるはずだ。

 今までは流が死んだら水緒も喰われるからと思ってこらえていたが、桐崎が来れば流が殺されても水緒は助かる。


       五


「水緒! 言え!」

 その言葉に水緒が視線を向けてきた。

「流ちゃん、逃げて……」

 水緒がかすれた声で言った。


 これ以上耐えきれずに祟名を言ってしまう前に……。


 水緒の目がそう言っていた。


 最後まで耐える気だ……。


 水緒はきっと口が裂けても言わない。

 万が一に備えて逃げろと言っているだけで、例え殺されても言う気はないのだ。

 鬼が手を振り上げる。

 これ以上は水緒の体がたない。

 こいつらを全員始末する以外、水緒を助ける道はない。


 流は鯉口を切って抜刀した。

 鬼が水緒に爪を突き付けたが無視した。

 どの道これ以上殴れたら死んでしまう。

 流が近くにいた鬼を斬り倒すと、他の鬼達が一斉に襲い掛かってきた。


「早く言え!」

 と言う声と共に鈍い音が聞こえた。

「っ!?」

 水緒が短い悲鳴を上げる。

「水緒!」

 流は焦ったが鬼達が多すぎて中々水緒に近付けない。


 こんなことならもっと早くこうすべきだった。


 流は悔やんだ。

 水緒の着物はもう血塗れだ。

 顔は腫れ、痣だらけで見る影もない。

 それでも水緒は必死で耐えている。


「どけ!」

 最後の一体を倒して水音を掴んでいる鬼に駆け寄る。

 鬼は舌打ちすると水緒を放り投げて流に襲い掛かってきた。

 流が持っていた刀を投げ付ける。

 鬼がそれを上に弾く。

 その隙に懐に飛び込むと脇差を抜刀して斬り上げた。

「ーーーーー!」

 鬼が叫び声を上げる。

 そのまま脇差しを横に払って鬼の首をねる。


 流は水緒に駆け寄ると抱き起こした。

 かろうじて生きているがもう虫の息だ。


「水緒!」

 このままでは水緒が死んでしまう。

 どうしたらいいのか分からない。

 流にはケガを治せるような能力ちからはない。

 救いを求めて辺りを見回した時、以前水緒が助けた妖が近付いてきた。


「水緒を喰いに来たなら渡さない!」

 例えこのまま死んでしまうとしても妖に喰わせる気はない。

 水緒が死体になっても守り続ける。

 流は水緒を強く抱き締めた。


「その娘を助けてやってもいい」

「ホントか!?」

 予想もしなかった言葉に流が妖を見る。


「その娘をくれるなら助けてやる」

「水緒を助けてくれるんじゃないのか!?」

「無論、助ける」

「なら渡せと言うのはどういう事だ」

「その娘と一緒になりたい。お前と同じようにその娘と暮らしたい」

「それは……」


 流は躊躇ためらった。

 渡したらどちらにしろ水緒を失う。

 だが他に方法はない。

 このままでは水緒は死んでしまう。

 どうせ失うなら水緒が生きている方がいい。


「本当に水緒を助けてくれるのか? 水緒を喰ったりしないと誓えるか?」

「無論だ」

 妖がそう答えると流は唇を噛み締めた。

 それから水緒を体から離し掛けてから顔を上げた。

「俺も一緒に行ったら駄目か?」

 とわずかな望みを掛けて訊ねた。

 流は別に妖が一緒でも構わない。

 水緒の側に居られればそれで良いのだ。

 流がそう言うと妖は黙り込んだ。

 やがて妖は溜息をいた。


「ケガを治してもその娘の心は儂のものにはならない。儂には鬼から助ける力もない」

 だから影から見ていたのだろう。

「喰う気はないが他の鬼に襲われても助けられない」

「だったら……」

 流が一緒なら水緒を守れる。

「その娘は儂にも優しくしてくれるだろうがお前を想うようには思ってくれないだろう……」

「…………」

「……代わりにお前がその娘と過ごした間の記憶を寄こせ。せめて記憶だけでも良いからその娘にしたわれたい」

「それで水緒を助けてくれるのか!?」

「ああ」

「やる!」

 流の即答に妖が戸惑った表情を浮かべた。


「分かっておるのか? 記憶を渡したらお前はその娘を忘れてしまうんだぞ」

「構わない。水緒が助かるならそれでいい」

「……そうか。やはり儂はお前にはかなわない」

 妖がそう言って流の目を見た。

 その瞬間、流は意識を失った。


「流ちゃん! しっかりして、流ちゃん!」

 流が目を覚ますと知らない女が顔を覗き込んでいた。

 どうやらこの女の膝に頭を乗せているようだ。


「流ちゃん……良かった」

 女が安心したように言った。

 流がわずかに頭を傾けて辺りを見回す。

 山奥に居たはずだが、ここは山の中とは思えない。

「ここは……」

「覚えてないの?」

 女が戸惑ったように訊ねた。

「お前は?」

「え……!?」

 女が流の問いに目を見開いた時、

「流様!」

 大人の男の声がした。


 こいつ鬼だ……!


「流様、御無事ですか!?」

 鬼が流の側に片膝を突いた。

「お前は誰だ!」

 流が身構えると鬼が戸惑った様子を見せた。

「流ちゃん、保科さんのことも覚えてないの? 大丈夫?」

 女が心配そうにそう言って流の額に手を当てる。

 温かくて柔らかい手だった。


「流様、とりあえずこちらへ。宿を取ってありますので」

「誰が鬼なんかにいてくか!」

「流様……」

 鬼が困惑したような表情を浮かべる。

うちに帰ろう。おじ様なら思い出す方法、分かるかもしれないよ」

 女が言った。

うち? お前の?」

「私のって言うか、流ちゃんと私が一緒にお世話になってる家だけど……」

「駄目です! その家は鬼の討伐を生業なりわいにしている家です!」

「でも流ちゃんはずっと一緒に暮らしてましたけど無事ですよ」

 流は保科という鬼を無視して女の方を向いた。

「行こう」

 流はそう言って上半身を起こした。


「流様! 危険です! いつ寝首をかれるか……」

「鬼の方がよっぽど危険だろ。鬼の討伐を生業にしてるって事は人間なんだろ。だったらお前よりずっと安全だ」

 この女は人間だから少なくとも危害を加えられる心配はない。

「あ、あの、流ちゃん、保科さんや流ちゃんは鬼じゃなくて最可族って言うんだって……」

「関係ない。鬼は鬼だ」

 そう言った後、さっきから引っ掛かっていたのが何か気付いた。

 体の感覚が違う。

 立ち上がると地面が覚えているより遠い。

 背が高くなっているのだ。

 掌を見ると大きくなっている。


「どういうことだ? 今は大人の姿なのか?」

「流ちゃん、大人になったことも覚えてないの? 大丈夫? おじさまに頼んでお医者様を呼んでもらおう」

 女が心配そうな表情で言った。

 それから、

「忘れちゃったなら私の名前も覚えてないよね。私は水緒」

 と名乗った。


 そう言われてから水緒が自分の名前を知っていたことに思い当たった。

 自分が名乗ったのでなければ水緒が名前を知っているはずがない。

 ということは覚えていないだけで水緒は間違いなく知り合いと言う事である。

 目が覚める前の記憶は山の中で鬼と戦っていたことだ。

 川辺で水を飲んだ後のことは覚えていない。


 それより前は少しずつ成長していっていたのだから気を失った後に突然大人の姿に変化へんげしたとは思えない。

 だとすればあれから時がったのだろう。

 大人になるくらい長い時が。

 周りを見ると鬼の死体が転がっている。


「この鬼達は……」

 鬼の体に流と同じように字が書いてあったが死んでいるなら害はない。

「流ちゃんが戦ってたんだよ」

 水緒が言うとおりなら鬼達を倒した後に何らかの理由で流は意識を失ったのだろう。


 まだ何か言っている保科という鬼を無視して水緒と一緒に、自分達が暮らしていたという家に向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る