第二章

       一


「あっ!」

 水緒が石に足を取られてつまづいて転んだ。

「大丈夫か?」

 流は水緒の手を掴んで助け起こした。

「少し休もう」

 道端の岩に座るように水緒をうながした。


「私のせいで全然進めないね」

「気にするな。急いでるわけじゃない」

 どうせ行く当てはないのだ。

 それに水緒と一緒にいるために保科を追い払ってあの家を出てきたのだ。

 水緒がいなければ意味はない。


 川沿いの道を進んできたら、いつの間にか大きな道に出た。

 更に進むともっと大きな道になった。

 それに伴い、すれ違う人も増えてきた。


「人がいっぱいいるね」

 水緒が流に身体を寄せてくる。

 流はずっと山の中で鬼から隠れて暮らしてきたし、それ以前に母親といた頃も他の者はいなかった。

 水緒も山奥の小さな村で育っている。

 二人ともこんなに沢山の人を見るのは初めてだった。


 水緒の足に合わせて休み休み進んでいると山道になった。

 日が暮れてきたこともあって人通りが少なくなってくる。


「今日はこの辺で……」

 休もう、と言おうとしたとき、殺気を感じて咄嗟に水緒を押し倒した。

 流の頭の上を何かが勢いよく通り過ぎた。

「このまま伏せてろ」

 水緒にそう囁くと素早く立ち上がった。

 目の前に鬼がいた。


「小僧、その娘を置いていけ」

「ふざけるな!」

 そう言うなり流は鬼に飛び掛かった。


 鬼はそれをけると逆に流を殴り付ける。

 流が吹っ飛ばされて太い樹の幹に叩き付けられる。

 肋骨がきしむ。

 鬼が流を無視して水緒に向かおうとした。

 急いで水緒と鬼の間に入る。


ね」

 鬼が低い声で言った。

 流は何も言わずに爪を振りかぶる。

 それを振り下ろすより早く鬼が流を殴り付けた。

 流が地面に転がる。

 鬼が流の身体を蹴り上げる。


「くっ!」

「流ちゃん!」

「死ね!」

 鬼が流の首に爪を振り下ろした。


「流ちゃん!」

 流が鬼の爪を受けようと手を上げ掛けたとき、銀色の閃光が走り、鬼の首が飛んだ。

 驚いて見上ると刀を持った男が立っていた。

 人間だ。

 熊のように大きな男が普通の太刀よりも長めの刀を握って立っている。


 次は俺だ!


 流は急いで立ち上がると身構えた。


「あっ! あの! 違うんです! 流ちゃんは……きゃ!」

 慌てて流に駆け寄ろうとした水緒が倒れた。

「水緒!」

 流が駆け寄ろうとした時、刀をさやに収めた男が水緒の脇に屈み込んだ。

 男が水緒の足に手を伸ばす。


「水緒に触るな!」

 流は水緒と男の間に無理矢理割って入った。

「足を見ようとしただけだ」

 男が言った。

「しかし、こう暗くてはよく分からんな」

 そう言うと左腕で水緒を抱き上げた。

「え? あの?」

「おい!」

 流は男を見上げた。

 子供の流からしたら大抵の大人の男は自分より背が高いが、この男は特に大きい。

 保科より背も高いし身体もがっちりしている。


「人の姿に戻ったな」

 その言葉に手を見ると人間の手をしている。

「次の宿場がすぐそこだ。行くぞ」

 男はそう言うと水緒を抱えたまま歩き出した。

「……どういうつもりだ」

 流が男の後にいて歩きながら言った。

 男の足が早いので流は小走りになる。


「お前、なんであの鬼を倒したのに、俺を殺そうとしないんだ」

「この娘、供部だろう」

「!」

 流と水緒が同時に男を見た。

「お前、人間じゃないのか!?」

 人間ではないのに自分に分からないなんて事があるのか?


「胸元に贄の印が付いている」

 水緒が慌てて着物の胸元をあわせた。

 恥ずかしそうな顔で俯いた。

 頬が赤く染まっている。


「お前は供部を守ろうとしていただろう。人間に危害を加えない者まで殺したりしない。無益むえき殺生せっしょうをする気はないのでな」

「良かった」

 水緒が安堵の笑みを浮かべた。

「…………」

 水緒はあっさり信じたみたいだが流は信用出来なかった。

 殺気はないが、そんなもの出さなくても殺すことは出来る。

 だから殺気はあまり当てにならない。

 流は男が水緒に何かしないか睨みながら歩いていた。


「お前達、名は何という。それがしは桐崎だ」

「水緒です」

「そっちの坊主が流か。どこへ向かっていた?」

「えっと……」

 水緒が流を見た。

「決めてない」

 流が答える。


「家は無いのか? 親は?」

「どっちもない」

「二人共か?」

 桐崎の問いに水緒が頷く。

「なら、それがしと来るといい」

 そう言って道を歩いて行く。


 桐崎が水緒を連れているので仕方なく流も後をいていった。

 夜目よめく流はともかく、桐崎も提灯がないのに暗い山道をつまづく様子もなく進んでいく。

 不意に道の先に灯りが見えてきた。

 夜、こんなに明るい場所は初めてだ。


 近付いて行くと建物が道の両側に連なるようになった。

 障子から明かりが漏れている。


「すごい、人も大きな家も沢山……」

 水緒が目を丸くしてきょろきょろしていた。

 流も周囲の光景に目を奪われがちになる。

 家と家が隙間なくっている。

 こんな建て方をしているのは初めて見た。


「宿場は初めてか?」

「はい」

 水緒が頷いた。

「ここに入るぞ」

 桐崎はそう言うと建物の中に入っていった。

 流が後に続く。


       二


「あら、桐崎様、この宿場は通り過ぎるのでは……」

 宿屋に入ると中から出てきた女が言った。

「いや、ちと事情が変わってな。女将おかみ、二、三日頼む」

「はい。お嬢さんは一人部屋の方がいいですか?」

 女将と呼ばれた女が桐崎に訊ねた。

「駄目だ」

 流が即答した。

「しかし子供とは言え、女子おなごが男と雑魚寝ざこねという訳にはいかんだろ」

 桐崎が困惑したように言った。

「私も流ちゃんと一緒の方が……」

 その言葉に、桐崎は仕方ない、と言うような表情で、

「だそうだから、三人一部屋にしてくれ」

 と言った。


 入り口の一段高くなっているところ――後で知ったが上がりかまちというそうだ――に座って桶に入れられた水で足を洗ってから板の間に上がった。


 三人は女将に案内されて二階の廊下の突き当たりのあまり広くない部屋に入った。

 他に人はいない。

 水緒は目を丸くして辺りを見ている。

 流も周囲を探るように左右に視線を走らせた。

 とりあえず危険はなさそうだ。


「飯が来るまで湯に入ってくるか。二人とも来なさい」

 桐崎は荷物を下ろすと先に立って部屋を出た。


 水緒が桐崎の後に続き、仕方なく流が最後にいていった。

 脱衣場で桐崎は水緒に白い腰巻きのようなものを渡した。


湯文字ゆもじだ。水緒はこれを着けなさい。流はこっちだ」

 そう言って流にふんどしを差し出した。

「褌ならはいて……」

「これは風呂褌ふろふんどしと言って、風呂で付ける褌だ」

 桐崎はそう言うと白い浴衣に着替えた。


「すごい。お湯がいっぱい」

 水緒は相変わらず目を丸くしていた。

「お湯で身体を洗うなんて初めて。流ちゃんは?」

「俺もだ」

「良く洗うんだぞ」

 桐崎はそう言って身体を洗う流や水緒に細かく指示をした。


 湯から上がり脱衣場で身体を拭きながら、

「水緒、随分べっぴんになったぞ」

 桐崎が言った。

「ホント!?」

 水緒が嬉しそうな顔をした。


「江戸っ子は毎日風呂に入るからな。水緒ももっと美人になるぞ」

「毎日お湯に入るんだって。すごいね、流ちゃん」

「江戸の風呂は湯にかるわけではないがな」

 桐崎はそう言ってから流に目を向けた。

「流もいい男になったじゃないか」

「…………」


 部屋へ戻ると食事が運ばれてきた。

 流と水緒はしばらく初めて見る蓋付きの椀や白い飯を見ていたが、やがて桐崎の食べ方を見ながら恐る恐る箸を付けた。


「おじさん、この茶色いお湯、何?」

 椀の蓋を開けた水緒が訊ねた。

「なんだ、味噌汁を知らんのか。これは味噌というものを使った汁だ」

「へぇ。流ちゃん、お味噌汁って食べたことある?」

「ない」

 水緒は味噌汁に口を付けた。

「面白い味。ちょっとしょっぱいね」


 これなら水緒の作る粥の方がいい。


「おじさん、これは?」

「これは漬け物だ。大根を漬けたものだ」

けるって何に? それにこれ、ご飯でしょ。なんで白いの?」

 水緒は食べながらも桐崎を質問攻めにしていた。

 桐崎はイヤな顔一つせず水緒の質問に答えていた。

 流はそんな二人のやりとりを訊きながら飯を食った。

 食べ終えると桐崎は流と水緒に指示しながら布団を引いた。


「さ、もう遅い。寝るぞ」

「待てよ。俺達をどうするつもりだ」

「どうもせん。まぁ、いて言うなら水緒の印を消しに行くといったところだな」

 桐崎が事も無げに言った。

「消せるのか!」

 流は身を乗り出した。

「無論だ。印を付けたままでは危なくて仕方ないからな」

「その後は?」

「お前達には養い親が居ないのだろう。なら、江戸に行こう。それがしの家に来るといい」

 桐崎は流の問いにとことん付き合うことにしたのか布団の上に胡座あぐらをいて座り込んだ。


「江戸!? 水緒の親戚を探しに行くのか!?」

「なんだ、江戸に水緒の親戚がいるのか?」

 桐崎が水緒に顔を向けた。

「分からないけど、江戸で探したらいいんじゃないかって言われたことがあるの」

「何か手懸かりでもあるのか?」

 流と水緒は首を振った。

「水緒は親戚を捜したいのか?」

 流と水緒は顔を見合わせた。


「親戚が見付かっても流ちゃんと一緒にいられる?」

「それは、それがしには何とも……」

「流ちゃんと一緒にいられないなら捜したくないな」

「なら捜さない。それで良いか、二人とも」

「でも偶然会ったりとかは……」

 水緒が心配そうに訊ねた。


「水緒は親戚の顔を知ってるのか?」

 桐崎の問いに水緒は首を振った。

「向こうは水緒の顔を知ってるのか?」

「知らないと思う」


「なら見付からないだろうな。江戸に行けば見付かると言った人は、行ったことがないのだろう。行けば分かるが、当てもないのに捜して見付かるほど狭い町ではない――この宿場より遙かに大きい街だ――し、人の数も多い。手懸かりもなしに見付けるのは無理だ。それにお互い顔を知らないならすれ違っても分からないだろう」


 その言葉に水緒はほっとした表情を見せた。

 流も表情には出さなかったが安心した。

 水緒と一緒にいるために保科を遠ざけて二人でここまで来たのだ。


「質問はもう終いか? なら寝るぞ」

 桐崎はそう言うと掻い巻きの下に潜った。

 水緒もそれに習って流の隣に横になる。

 すぐに桐崎のいびきと水緒の寝息が聞こえてきた。

 宿の者も皆寝付いたようだが沢山の人の気配がして流は眠れなかった。


 翌朝まだ暗いうちから宿の者達は起き出したようだ。

 他の部屋に寝ていた者達も目を覚まして支度を始めたような、ざわついた気配がした。

 隣の水緒を見ると、ぐっすり寝ている。


 大分ってから桐崎が起き、その気配で水緒が目覚めたようだ。

 水緒が目を覚ましたのを確認してから流も身体を起こした。


 朝餉を食べ終えると、

「それがしは行くところがある。帰るまでお前達はここで遊んでいるといい」

 桐崎はそう言って出ていった。


 流と水緒は顔を見合わせた。


「流ちゃん、何か遊び、知ってる?」

 流は首を振った。

 母の元にいた幼い頃なら何かの遊びはしたかもしれないが、それは記憶にない。

 その後はずっと鬼と戦っていて遊んでいるような余裕は無かった。

「水緒は子供の面倒見てただろ」

「うん、でも、お掃除とかしながらだったから、子供達が危ないことしないように見てるのがやっとで……」

「…………」

「…………」

 二人はしばらく黙っていた。


       三


「じゃあ、お話ししようか」

 水緒が言った。

 流は水緒に会うまでずっと一人だったから話すのは得意ではない。

 だが水緒は相手がいなかったから黙っていただけのようで話をするのは好きらしかった。

 流は口下手で、あまりちゃんとした返事が出来なかったが、水緒は気にした様子もなく喋っている。

 流も返事こそろくに出来ないが水緒の声を聞いているのと楽しかった。


「あのおじさん、物知りだね」

「大人はみんなそうだろ」

「でも、あのおじさん、ちゃんと教えてくれるよ」

 確かに水緒の村の大人達は水緒を働かせるだけで、それ以外はほとんど口を利いてなかったようだ。

 遠からず生贄として差し出すことが分かっていたから必要以上に関わらないようにしていたのかもしれない。


「ごめんよ」

 外から声が掛かり障子が開いた。

 女将と呼ばれる女が入ってきた。

「桐崎様に頼まれてね。二人の髪を結いに来たよ」

「髪を結う?」

 水緒が首を傾げた。

 女将はまず水緒の後ろに座ると髪をかし始めた。


「痛た……」

 櫛が髪に引っ掛かる度に水緒が顔をしかめた。

「随分、長いこと髪をかしてなかったんだね」

 女将はそう言って水緒の髪を綺麗に梳かすと、水緒の髪を結った。

「ほら、見違えるほどべっぴんさんになったよ」

「そ、そうかな」

 水緒が照れたように俯いた。

「これはこの妻籠宿つまごじゅく特産のくしだよ。これで毎日髪を梳かすといいよ」

 女将は水緒に櫛を渡した。

「おばさん、有難う」

 水緒は嬉しそうに櫛を胸に抱いた。


「次は坊やだね」

 女将は流の後ろに回った。

 水緒以外の人間に背後に回られるのは嫌だったが、水緒が髪を結っているのに自分が結わないわけにもいかなそうだったので黙ってやらせた。

 女将は二人の髪を結い終えると部屋を出ていった。


 二人が桐崎のことや、江戸のこと、宿場町のことなどを話していると、桐崎が布の包み――風呂敷包みを持って帰ってきた。


「おじさん、お帰りなさい」

「おお、戻ったぞ」

「おじさん、これね、ここのおばさんがくれたの」

 水緒はそう言って女将から貰った櫛を見せた。

「良かったな。それがしも二人に土産を買ってきたぞ」

「土産って何? 買ってきたって言うのは?」

〝土産〟という言葉も〝買う〟という言葉も知らない流と水緒に、桐崎は目を丸くした。


「お前達、ホントに山奥に住んでたんだな。土産というのは出掛けたとき留守番をしてくれた者に持っていく物だ。買うというのは……」

 桐崎は懐から布の袋――巾着きんちゃくと言うらしい――を出すと、そこから金色や銀色の粒のような物を出して見せた。

「これは『かね』と言ってな、何か欲しい物がある時、これと交換して貰うんだ。それを買う、と言うのだ」

「へぇ」

 水緒は珍しそうに金を見ていた。


「ここの宿も無料ただで泊まってるわけではなくて、ちゃんと金を払ってるのだぞ」

「俺達、金なんて持ってないぞ」

「子供に払えなどとは言わん」

 桐崎はそう言って風呂敷を開けた。


「水緒はこれに着替えなさい。流はこっちだ」

 桐崎は二人にそれぞれ着物と帯を渡した。

「綺麗! おじさん、これ、貰っていいの?」

「そのために買ってきたのだ。遠慮しないで着替えるといい」

 水緒と流は部屋の反対側で壁に向かってそれぞれの新しい着物に着替えた。

「おお、水緒。可愛いぞ」

「おじさん、有難う」

 水緒が嬉しそうに微笑んだ。


「流もなかなか男前ではないか」

「うん、流ちゃんもよく似合ってるね」

「…………」

「それからこれが草鞋わらじだ。外に出るときはこれをくといい」

「はい」

 水緒の足の裏は傷だらけだったから草鞋があるのは有難い。

 流は裸足でも平気だったが水緒や桐崎が草鞋を履いているのに一人だけ裸足というわけにもいかないだろう。


「江戸に行くんだろ」

「そうだ」

「なら、なんでいつまでもここに居るんだ?」

「この先に関所がある。お前達は手形を持っておらんだろ。だから今日頼んできたのだ。明日、受け取ることになっとるから出立しゅったつは明後日だな」


 宿を出発した流達は木曽福島というところで関を越えた。

 桐崎は手形を用意したと言っていたが、それでも関所の役人に金を渡していた。


「関を越えるのに金がいるのか?」

 手形だけでは通れないのだろうか。

「それがしの手形には一人旅と書かれているからな。念のために袖の下を渡したのだ」

 桐崎は歩きながら答えた。


「ところで、流、お前はどこの一族だ?」

「え?」

 意外な問いに流が桐崎を見た。

「鬼にも色々な一族がいるだろう」

「……最可族らしい。父親は。母親は成斥族だって訊いた」

「最可族か。村があるのはここから大分離れたところだな。成斥族というのは訊いたことがないが……」

 桐崎が首を傾げた。


「おっさんが知らないだけだろ」

「仕事柄、鬼の一族はほとんど知ってるつもりだがな。成斥族というのは鬼ではないのではないか?」

 その言葉に、そういえば保科は成斥族が鬼だとは言ってなかったことに気付いた。


「あ、流ちゃんの草鞋わらじが……」

 水緒が流の草鞋が壊れているのに気付いて言った。

「駄目になったか。ほれ、新しい草鞋だ」

 桐崎は新しい草鞋を荷物の中から出した。


 草鞋というのはすぐに壊れる。

 聞くところによると普通は一日に二足くらい使い物にならなくなるものらしい。

 だが流達は水緒の足に合わせてゆっくり歩いているので使えなくなるのは一日に一足程度だった。

 その代わり歩みはかなり遅い。


 男だけの旅路ならもっと早いらしい。

 しかし流達は水緒にあわせているので一日数里がいいところだ。


 流達が進んでいくにつれ開けた土手の道に出た。


「流、水緒、あれが富士山だ。見たことあるか?」

 桐崎が遠くに見えている山を指した。

「わぁ! 初めて見た。あれが富士山なんだ。流ちゃんは?」

「俺もだ」

 もしかしたら見たことがあるのかもしれないが、山の名前など教えてくれる相手などいなかったし、鬼との戦いに明け暮れていて景色を見る余裕などなかった。


       四


 徐々に人通りが多くなってきた。

 今まで以上に多い。

 建物も増えてきた。


「おじさん、ここが江戸?」

「いや、ここは大宮宿だ。江戸はこんなものではないぞ」

 桐崎の答えに水緒が目を丸くした。

「ここよりも人が多いの?」

「そうだ。着いたらびっくりするぞ」

 まだ九つ前だったので大宮宿はそのまま通り過ぎた。


 次の蕨宿わらびじゅくで桐崎は泊まるかどうか逡巡したようだが、大宮宿との間にあった立場茶屋たちばちゃやで一休みしたからか水緒がまだ歩けそうだったので次の板橋宿を目指すことにした。


「少々遅くなってしまったな」

 もう辺りは日が暮れていた。

「水緒、歩けるか?」

 流は水緒に訊ねた。

 疲れているようなら背負ってやろうと思ったのだ。

「うん、平気」

 無理をしてるな、と思ったが、とりあえずまだ大丈夫そうだったのでそのまま歩かせることにした。


 不意に殺気を感じた。


「流! 水緒! 気を付けろ!」

 桐崎が抜刀した。

「水緒、俺の後ろに」

 流が水緒を庇うように立った。

 目の前に二体の鬼が飛び出してきた。

「お前らに用はない。その娘だけ置いてけ」

 流は身構えるように立った。


 ここへ来るまで何度か同じようなことがあった。

 水緒は本当に良く鬼を呼び寄せてしまう。


 しかし桐崎は強かった。

 化物討伐で食っていると言うだけあって刀一本で鬼を斬り伏せてしまう。


 片方の鬼が飛び掛かってきた。

 流が水緒を押し倒して伏せるのと桐崎が鬼の首を落とすのは同時だった。


 片方の鬼がやられても、もう片方は逃げる気はないようだった。

 残った鬼が桐崎に向かっていく。

 鬼が腕を振り下ろす。切り裂く気らしい。

 桐崎は体を開いてかわすと鬼の胴を払った。

 鬼が真っ二つになって倒れた。


 そのとき流は別の殺気を感じて振り返った。

 どこからか、もう一体現れた。


「おっさん!」

 流が伏せたまま叫んだ。

 自分で倒しても良かったのだが、鬼になるなと言われてるので桐崎を呼んだのだ。

 桐崎が振り返るのと、知らない男が鬼を斬り倒すのは同時だった。


「もう大丈夫ですよ」

 見知らぬ男が言った。

 流は辺りの気配を探り、安全だと確信してから立ち上がると水緒に手を貸した。

「これはかたじけない。しかし、そこもとはこの前、我らを見ていた御仁ではないかな」

 桐崎が言った。

 そういえばこの前、鬼に襲われたとき木陰から見ていた男がいた。


 鬼が怖くて隠れているのかと思っていたが違ったのか。


「さすが、気付かれてましたか。拙者は山本と申すものです」

 山本は悪びれた顔も見せずに答えた。

「して、何用か」

「実は拙者も鬼に狙われてまして。そこもとの使われているのは退魔刀たいまとうではありませんか?」

 山本は桐崎が腰に差している太刀を指した。

「その通りだ」

「それを譲っていただけないだろうか」

「この太刀を?」

 桐崎は特に驚いた様子も見せずに答えた。

「譲るのはやぶさかではないが、ここでと言うわけにもいくまい。子供達も疲れている」

「おっと、これは失礼」

 そう言った山本に、桐崎は自分の住んでいるところを教えた。


 山本は「お先に失礼」と言って立ち去った。

 行き先は同じ板橋宿なのだが水緒を連れている流達と山本では歩く速さが違うのだ。


「簡単に譲るなんて言って良かったのか?」

 山本という男がああ言う言い方をしたと言うことは特殊な刀なのではないのだろうか。

「いや、この刀を打ってるのは真緋あけ一族という炎のあやかしの一族なのだがな、極度の鬼嫌いで真緋一族が作る刀はみな退魔刀になるのだ」

「じゃあ、その刀は特別って訳じゃないって事か?」

「いや、退魔刀だから特別と言えないことはない。ただえはいくらでも調達出来ると言うだけだ」

 それは特別ではないという事なのではないかと思ったが深く追求はしなかった。

 水緒が疲れた顔をしていたからだ。


「水緒、辛いなら背負ってやるぞ」

 流は水緒の顔を覗き込んだ。

「有難う、流ちゃん。でも、大丈夫だよ」

 水緒は無理をした笑顔を見せた。

 ようやく遠くの方に板橋宿の灯りが見えてきた。


「ここが江戸!?」

 水緒は目を見張っている。


 沢山の人、沢山の店、沢山の大道芸人、大きな橋。

 大きな荷物を背負った男、男の子を連れた二十代半ばくらいの女、供連れの武士、盤台ばんだいを担いだ男、臼を転がしながらきねを担いで歩いている男、その間をかごうようにして行く。

 道は人で溢れて地面が見えないほどだ。


「ここは両国広小路りょうごくひろこうじと言うところだ」

「江戸じゃないの?」

「江戸の中の両国広小路だ。それがしの家まであと少しだが、はぐれるなよ」

 その言葉に水緒は流の着物の袖を掴んだ。


「おじさん、今日はお祭り?」

「そうではない。ここはいつもこうだ」

 桐崎は笑いながら言った。


 両国広小路を川沿いに南下し、かっていた橋を渡らずに水辺を西へ行くと人通りが少なくなり、長い壁が続くようになった。

 ところどころに門がある。

 門と門の間は大分離れていた。

 桐崎はある門の前で立ち止まった。


「ここが、それがしの家うちだ」

 そう言って門の中に入っていく。

 流と水緒も後に続いた。

「おじさんのうちって、他のうちと違うんだね」

 中にあった大きな建物を見ながら水緒が言った。

「いや、これは道場で、それがしが住んでるのは向こうだ」

 そう言うと道場の脇を通って庭から母屋へと向かった。


「さっきの堀が薬研堀やげんぼりだ。あそこを真っ直ぐに西に来ればここだ。道に迷ったら薬研堀はどこか聞けば分かる」

 桐崎がそう言った時、

「桐崎の旦那、遅かったですね。どこかで鬼に喰われたのかと思いましたよ」

 三十代くらいの女が出てきて言った。


「お加代か、すまんな」

 加代と呼ばれた女は桐崎の後ろに立っていた流と水緒に目を止とめた。

「その子達は?」

「途中で拾ったのだ。これから一緒に暮らすことになったのでな。よろしく頼む」

 水緒は桐崎の陰から出ると、ちょこんと頭を下げた。

「こんな潰れそうな道場で二人も養えるんですか?」

「何、わらわ二匹くらいどうにでもなる」

「でも、男所帯だし、女の子の方はあたしが引き取りましょうか?」

「駄目だ」

 流が即答した。


「いや、事情があってな。この二人は一緒じゃないといかんのだ」

「そうですか」

 お加代はすぐに引き下がった。

 後で聞いたのだが、お加代の家も夫婦でかつかつの暮らしをしているらしい。


       五


「この人はお加代さんと言ってな、それがしのうちの家事をやってもらっておるのだ」

 桐崎はそう言うと、お加代に流と水緒を紹介した。


「おばさん、私に家事を教えて下さい。よろしくお願いします」

 水緒はお加代に頭を下げた。

「はいよ」

 流達はお加代が持ってきた桶の水で足を洗って家に入った。


「わぁ、猫だぁ!」

 水緒は居間で丸くなっていた猫を見付けると嬉しそうに近付いた。

 ここまで来る途中の宿場町で何度か猫を見掛けていた。

 初めて猫を見た時、水緒は顔を輝かせて近付いていったが逃げられてしまった。

 水緒はがっかりしながらも桐崎に「あの動物は?」と訊ねて「猫という生き物だ」と教わった。

 流と猫の目が合った。


 ただの猫じゃない!


「水緒! そいつは……!」

「それがしの飼い猫でな、ミケというのだ」

 桐崎が流の肩に手を置いて言葉を遮った。


 そうか……。


 化物退治が仕事の桐崎が化猫に気付かないはずがない。

 危険はなさそうだ。


「こんにちは、ミケちゃん。私は水緒。よろしくね」

 水緒がそう言って撫でると、ミケは気持ち良さそうに目を閉じた。

「そういえば旦那を訪ねてきた人がいましたよ」

「山本殿だろう。家に着くのは今日になると言ってあったのだが、よほどいてるのだろうな」

 桐崎は居間に腰を下ろした。

 お加代が台所へ向かうと水緒も後にいていった。


 流が水緒の後に続こうとすると、桐崎が、

「流、お加代さんは茶を入れに行っただけだ。すぐに戻る。お前も座りなさい」

 と言った。

 一瞬迷った後、桐崎の斜め向かいに座った。


「旦那、お待たせ」

 お加代はそう言って盆に載せて運んできたお茶を桐崎の前に置いた。

「はい、流ちゃん」

 水緒がお加代の真似をして流の前に膝を突くとお茶を置いた。


 旅籠はたごに泊まる度に出されるお茶を飲みながら、なんで普通の水ではなく色と味の付いたお湯を出すのかと思っていたが、水緒が入れてくれたものは美味かった。

 お茶を出すと水緒はすぐにお加代と共に台所へ行ってしまった。

 物音が聞こえるから夕餉でも作っているのだろう。


「水緒の印って言うのはいつ消すんだ?」

 桐崎は江戸に着いたら、と言っていた。

野尻宿のじりじゅくからふみを出しておいたから、後は向こうを訊ねるだけだな」

「ならこんなところに座ってないで早く行こう」

 江戸は中仙道なかせんどうほど鬼は多くなさそうだが印を消せるなら早い方がいい。

 ミケだって桐崎が飼っているとは言っても化猫だ。

 いつ水緒に牙をくか分からない。


「しかし、山本殿が来るかもしれんからな」

「待たせとけばいいだろ」

「いや、今から行ったら暮れ六つを過ぎる。帰りは夜になるぞ。第一、水緒も疲れているだろう」

 水緒を持ち出されると流は何も言い返せなかった。

 それに遅くなると言うことは化物の跋扈ばっこする時間になると言うことだ。


 仕方なく座っていると間もなく山本がやってきた。

 桐崎との交渉の末、退魔刀を手に入れた山本は満足そうに帰っていった。


「留守にしてる間に雪が降ったようだな。流、水緒、雪うさぎでも作ったらどうだ?」

「雪うさぎ?」

 水緒が首を傾げた。

「何だ、知らんのか」

 桐崎はそう言うと流と水緒を連れて庭に出た。

 雪を集めて細長いお椀形にすると千両の実を二つ塊の先の方に付け、その上に笹を二枚乗せた。


「兎になった!」

 水緒が顔を輝かせて言った。

「水緒も作ってみるといい」

「うん」

 水緒は嬉しそうに雪を掻き集めると桐崎の真似をして雪うさぎを作った。

「私にも出来たよ、流ちゃん!」

 水緒が嬉しそうに言った。

「もう暗いから続きは明日にしなさい」

 桐崎はそう言って流と水緒を連れて家に入った。

 家に戻ると水緒は台所へ行った。


 しばらくすると、

「おじさん、流ちゃん、お待たせ」

 水緒が夕餉の膳を運んできた。


 お加代は夕餉が出来るとすぐに帰っていったらしい。

 水緒が三人分の膳を並べると食事が始まった。


「流ちゃん、どう? 美味しい?」

 水緒は箸も取らずに流が飯を口に運ぶのを見ていた。

「これ、みんな水緒が作ったのか?」

「お加代さんから教わったの」

「そうか」

 水緒が作ったものだと思うと安心して食べられる。


「あのね、江戸では兎や雉は食べないんだって。料理の仕方教わろうとしたんだけど……」

 水緒が肩を落とした。

「ふぅん。ま、別に兎や雉が好きなわけじゃないから」

「そうなの?」

 流が兎や雉を好きなのだと思っていたらしい。

「他に食うもんがなかっただけだ」

「そうなんだ」

 桐崎は流と水緒のやりとりを面白そうに見ていた。


「流はホントに水緒が好きなんだな」

「好きって、なに?」

「そうだなぁ。側にいると嬉しいものかな」

「私、流ちゃんが好き。おじさんもミケも、あ、お加代さんも好き」

 水緒の好きなものが自分以外にもあったことに流は不機嫌になった。

「いや、流と水緒の場合は『好き』じゃないな」

 流の機嫌が悪くなったのに気付いた桐崎が慌てて言った。


「どうして? 私、流ちゃんのこと好きだよ」

「お前達の場合は、惚れてる、だな」

「惚れてる? 好きとは違うの?」

 水緒が首を傾げた。


「惚れてるというのは、相手のことがとても好きで大切に思ってると言うことだ」

「そうなんだ。じゃあ、私は流ちゃんに惚れてるんだ」

 桐崎は流が不機嫌になったのを察して、お前達、と言ったが、水緒の方は惚れているとまではいってないのではないかと思った。


 惚れると言うには水緒はまだ子供過ぎる。

 いつか水緒は自分に惚れることがあるだろうか。

 江戸は人が多い。

 その中にいる流以外の誰かに惚れるかもしれない。

 その時、自分はどうなるだろうか。


 翌朝、水緒は起きると庭に出て夕辺作った雪うさぎの前でしゃがんで眺めていた。


「もっと作ればいいじゃないか」

 千両の実も笹も十分にある。

「うん、でも、この実ね、小鳥が食べるんだって。雪うさぎに使っちゃったら小鳥が食べられなくなるから」

 無くなったら雪うさぎに付いてるのを食べるのではないかと思ったが流は黙っていた。

 水緒は眺めているだけで満足そうだったからだ。


 朝餉が終わると桐崎は約束通り、水緒の印を消しに連れて行ってくれた。

 両国広小路に出ると両国橋を渡った。


「すごいね。こんなに沢山の人が乗ってるのに壊れないなんて」

 水緒は足下の両国橋を見ながら目を丸くしていた。

 はぐれないように流の袖をしっかり掴んでいる。


 両国橋を渡ったところにも町人の家はあったが、すぐに武家地になった。


 しばらく歩いたところで桐崎が立ち止まった。


       六


 看板が掛かっており、そこには「よろず御祓おはらい承ります」と書かれていた。


 桐崎が玄関でおとないをうと、

「おお、生きて戻ったか」

 総髪の男が出てきた。

 髪や髭に白いものが混じっているが、それほど年は取ってなさそうだ。


「流、水緒、この人は小川禅定ぜんじょう殿だ」

 桐崎は小川に流と水緒を紹介した。

「その娘か?」

「印がついてるのはこの子だ。それとこっちの坊主も頼む」

「え?」

 流と水緒が同時に桐崎を見上げた。


「その坊主が鬼か。長くこの仕事をしているが、子供の鬼というのは初めて見たな。鬼は生まれたときから大人なんだと思っていたぞ」

 小川はそう言って笑った。

「おっさん、どういうことだよ」

「いや、鬼けの結界が張られてるところは意外と多いからな。そう言うところに入れないと困るだろ」

 確かに入れなければ鬼だとバレてしまう。

 そう言うところをけようにも流には結界が張ってあるかどうかは分からない。


「そんなことが出来るのか?」

「まぁ、儂に任せなさい」

 小川はそう言うと奥へと入っていった。

 流達が後に続く。

 通された部屋は変な匂いがした。


「なんかいい匂いがするね」

「これは香の匂いだ」

 桐崎が説明した。


 小川がごちゃごちゃした絵――曼荼羅まんだらというそうだ――の前に座り、水緒に対座するように言った。

 水緒が前に座ると、小川は間に置かれた白い台の上の灰が入った器で香を焚いた。

 ぶつぶつと何やら言っていたかと思うと、突然、

「喝!」

 と怒鳴った。

 その瞬間、

「っ!」

 水緒が胸元を押さえた。


「水緒!」

 思わず流が立ち上がった。

「心配いらぬ。印は消えたぞ」

 水緒はそっと自分の胸元を覗いてから流を見上げた。

「ホントだよ、流ちゃん。印が消えてる。おじさん、有難うございました」

 ほっとして、座り直そうとすると、

「次はお前だ。丁度いいからそのままここへ来なさい」

 小川が手招きした。


 流も水緒の時と同じような手順で、最後に、

「喝!」

 と怒鳴られて終わった。

 一瞬、衝撃を感じた気がしたが何ともなかった。


「終わった。もういいぞ」

 そう言われて流は水緒の隣に移った。

「流、水緒、それがしは小川殿と話がある。お前達はいても楽しくなかろう。帰り道が分かるなら先に帰っても良いぞ。なんなら両国広小路を見物してもいい。但し、迷子にはなるなよ」

 桐崎の言葉に、流は水緒を連れて小川の家を出た。


「どうする? 両国広小路を見ていくか?」

「うん。見てみたい」

「そうか。じゃ、ちゃんと掴まってろよ」

 その言葉に、水緒は流と手を繋いだ。


 二人は両国広小路に向かった。

 やはり何度見てもすごい人出だ。


「村ではお祭りの時でもこんなに沢山の人はいなかったよ」

 水緒が辺りを見回しながら言った。

 祭りはどこかの村の近くを通り掛かった時ちらっと見ただけだが、確かにこれほどではなかった。


 水緒が驚くのも無理はない。

 まるで別の世界に来たようだ。

 しかも、ここは江戸の一部でしかない。

 桐崎の言うとおり、当てもなく水緒の親戚を捜すのは無理だろう。


 金を持っていなかった二人は主に大道芸を見て回った。

 大道芸と言っても芸を見せて観客から金を貰うものもあれば、興味を惹くような口上を述べて客を集めておいてから物を売ったりするものなどもあった。


 芸のうち、水緒がもっとも夢中になったのが手妻てづまだった。

 何もないところから物を出したり、消したり、数を増やしたりしている。

 流には絡繰からくりが分かったが、水緒は本気で不思議がっていた。

 客が大分少なくなってきたので手妻をしていた芸人が片付け始める。

 それを期に流と水緒もその場を離れた。


 辺りを見回すと、芸人は引き上げ始めていたし店も閉店の準備を始めている。

 空は東の方から暗くなり始めていた。


「大変! こんな時間! 夕餉の支度しなきゃ!」

 流は慌てている水緒と共に桐崎の家へ向かった。


 夕餉の席に着くと、桐崎が改まって話し始めた。


「流も水緒もこれで普通の人と同じになった。明日からは普通に生活してもらう」

 水緒は手を膝の上に置いて真剣に聞いている。

 流は先に食べようかと思ったが、水緒が話を聞いているのに自分だけというのもどうかと思って黙って聞いていた。

「流は明日からそれがしの道場で剣術を始めなさい」

「なんで俺が……」

「お前が鬼になるのはそうしないと戦えないからだろう。だが鬼の姿を見せたら街には住めなくなる。江戸だけではなくてもどこでもだ」

 なら山奥に住めばいいだけの話だ。

 桐崎はそんな流の思いを読んだらしい。


「水緒も連れて行くのか? 誰もいない山奥に住んで水緒は幸せか?」

「え? 私? 私は流ちゃんと一緒なら別に……」

「剣術を覚えて剣で戦えるようになれば鬼の姿にならなくてむ。ずっと水緒と街で暮らしていけるのだぞ」

 流は黙り込んだ。

 桐崎の言うとおりだ。

 人間の桐崎や山本でさえも鬼を倒していた。

 強くなれば鬼の姿にならずにむし水緒を守ることも出来る。

「分かった」

「よし、では、明日からそれがしのことは師匠と呼ぶように」

「おじさん、私は?」

「水緒はお加代さんに家事を習うと良い」

「はい」


 夕餉が終わり、水緒は食器を片付けると夕辺と同じように三人分の布団を並べて引こうとした。


「水緒は今日から隣の部屋に一人で寝なさい」

「駄目だ。水緒は俺がいないと……」

「水緒はもう印を消したし、この家も結界を張り直した」

 さっきまでは流を入れるために一時的に結界を消していたそうだ。

「水緒一人でも襲われる心配はないし、隣の部屋なら何かあってもすぐに駆け付けられる。流はそこの部屋だ」

 桐崎が水緒の隣の部屋を指した。

「はい」

 水緒は素直に自分の布団と掻い巻きを隣の部屋に持っていった。


 なら、いいか。


 桐崎と一緒になってからほとんど寝てない。

 水緒以外の人間が一緒だとどうしても眠れないのだ。

 桐崎とも別に寝るなら後で水緒の部屋に行けばいい、と思った時、

「流、水緒、互いの部屋へ行くのは禁止だからな。一人で寝なさい」

 と、釘を刺されてしまった。


 流は言い付けを破っても気にならないが、水緒は後ろめたさで眠れなくなるに違いない。

 流は仕方なく諦めた。


 翌日から流達の桐崎家での生活が始まった。

 流はまず木刀で素振りをするところから始めた。

 水緒はお加代に大体のことを教わり一人でも家事が出来るようになったが、それでもお加代は通ってきた。

 お加代には桐崎から貰う手間賃が必要だったからだ。

 家事に慣れてくると水緒はどこからか水茶屋の仕事を見付けてきた。


「水緒、仕事などしなくても小遣いくらい、それがしが出すぞ」

「でも、江戸の人ってみんなお仕事してるみたいだから」

「水緒、俺だって仕事はしてないぞ」

「流ちゃんは、剣術がお仕事でしょ。剣術が上手くなったらおじさんのお仕事手伝うんだから」

「そうだとしても今は……」

「今は見習い期間。私もそうだよ。お仕事覚えるために今は雑用してるの。ね、一緒でしょ」

 水緒の言葉にそれ以上言い返せなかった。

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