第一章 ー後編ー

       四


 水緒は目を見張り口を押さえて流を見ていた。


 これで完全に嫌われた……。


 そう思ったとき水緒が駆け寄ってきた。


「流ちゃん! ひどいケガ! ごめんね。私のせいで。ごめん……」

 水緒が再び泣き出した。

 流は自分の腕を見た。

 長い爪。

 今は鬼の姿をしているはずだ。


「村へ行こう。早く手当を……」

「水緒!」

 水緒の言葉を遮って男の声がした。

 振り向くと村人達がいた。

「あ、村長さん、あの、流ちゃんは私を助けてくれ……」

「なんてことしてくれたんだ!」

 村人達は敵意を持った目で流と水緒を睨んでいた。

 鬼が退治されて喜んでいるようには見えない。


「お前は鬼の仲間だったのか!」

「違う! 水緒は……!」

「ああ、赤鬼様、おいたわしや」

 老婆が倒れている鬼を拝んでいるのを見て流は困惑した。


 どうなってるんだ?


「面倒を見てやった恩を忘れて! なんて子だい!」

「飯一杯で水緒を散々働かせておいて何言ってんだ!」

 流は拳を振り上げようとした。

「流ちゃん、やめて。村の人には良くしてもらってたの」

 水緒が流の拳を掴んだ。

「出ていけ!」

 女がそう言うと誰かが石を投げた。

「っ!」

 石が水緒のこめかみに当たって血が流れた。

「貴様ら!」

「流ちゃん、駄目」

 水緒は村人に襲い掛かろうとした流の胸に抱き付いて引き留めた。

「お願い、やめて」

 流は渋々下ろした拳を握り締める。

 村人を一睨みすると水緒を連れて山を下りた。


「流様、その傷は……!」

 家で流の帰りを待っていた保科が驚いて立ち上がった。

「山の上で鬼と戦った」

「その娘を奪うためですか?」

「そうだが」


 なんで分かったんだ……?


 保科は流を座らせると傷の手当てを始めた。


うまそうな娘ですね。その娘を喰えば傷などたちまち……」

「何言ってんだ! 俺は人間なんか喰ったことないぞ!」

「しかし、その娘は供部くべでしょう」

 保科は流の傷の手当てをしながら言った。

「くべ?」

にえです」

「確かに生贄にされそうにはなってたが……」

 訊ねるように水緒を見たが、水緒も知らないらしく不思議そうな顔をしていた。

「供部は、生贄にもっとも適した人間ですよ。普通の人間より旨く、僧侶や神官を喰ったときと同じくらいの力も得られるという……」

「誰が人間なんか喰うか! お前も喰うなよ」

「それでは何のためにわざわざ戦ったんですか? あの鬼とかち合わないようにと結界を張っておいたのですが」

 保科は理解できない、と言う顔をしていた。

「水緒とずっと一緒にいたけど喰いたいなんて思ったことないぞ」

 流は水緒に聞かせるように言った。

「今はどうです? 旨そうでしょう」

「いいや」

 流は首を振った。

 水緒にしろ他の人間にしろ喰いたいなどとは思わない。


「贄の印がどこかに付けられてるはずですが」

 その言葉に水緒が胸元を押さえた。

 どうやらそこに印とやらが付けられているようだ。

「供部に贄の印?」

「念のためでしょう。間違えて他の人間を襲わないように」

「この山に鬼がいることは知ってたのか?」

「勿論です」

 保科が当然、と言う顔をした。


「なんであの鬼は村を襲わなかったんだ?」

「贄がいたからですよ。何年かに一度贄を喰わせる代わりに村を守らせていたんです。だからあの村には他の化け物もいなかったでしょう」

 その言葉に、ようやく村人の言動の理由が分かった。

 保科が人間を喰っているところを見たことのなかった理由も。

 村人を喰いたければ先にあの鬼と戦わなければならないから面倒だったのだ。

 それ以外の人間を喰おうにもここは山奥だから人が通り掛からない。

 だから保科は人間を喰わずに兎などを捕まえていたのだ。


「流ちゃん、どうしよう。あの鬼がいなくなったら村は襲われるの?」

 水緒が青くなった。

「どうしたらいいんですか!? 教えてください!」

 水緒が保科に勢い込んで訊ねた。

「心配しなくても他の鬼を連れてきますよ」

 保科が事も無げに言った。

 その口振りからすると、よくあることのようだ。

 それでまた贄と引き替えの平和を得るのか。


「帰った方がいいのかな」

「馬鹿なこと言うな!」

「でも私が贄にならなかったら他の人が贄にされちゃうんでしょ」

「その通りですが、どちらにしろ贄が必要なのは一度きりではありませんから、あなたが喰われた後も別の人間が贄にされますよ」

 保科が平然とした表情で答えた。

「痛っ!」

 流が声を上げると薬を塗っていた保科が手を止めた。

「流ちゃん、大丈夫?」

「これくらい、いつものことだ。水緒も傷痕見ただろ」

「私のせいで、また傷が増えちゃったね」

「気にしなくていい」

 そう言うと保科の方を向いた。

「保科、魚獲ってきてくれ」

「食料なら兎が……」

「水緒の分だよ」

「え! 私は……」

「分かりました」

 保科はすぐに立ち上がって出ていった。

「お前だって飯食わなきゃなんないだろ。ここには米がないし」

「迷惑掛けてごめんね」

「気にするな」

「ありがと」


「流様、何故あの娘が家の中で食事をして、我々が外で喰わなければならないのですか!」

「水緒に聞こえる。もっと小さな声で話せ」

「これだけ離れてたら人間には聞こえません!」

 保科が珍しく憤慨していた。

 流と保科は家から離れた場所で兎を食っていた。

 無論、生のまま丸囓りである。

 そんな姿を水緒には見られたくないので家の外で喰っているのだ。

 鬼でも受け入れてくれた水緒なら気にしないかもしれないが流の方が気になってしまって食えない。

「流様は夕辺ケガをして帰ってこられたばかりではありませんか。本来ならまだ寝ていた方が……」

 保科はしつこくぶつぶつ言っていた。

 今朝、流が水緒のために魚を獲りに行ったことも気に入らないらしい。

 兎を食い終えると二人は家に戻った。


 家に入ると、中が綺麗になっていた。

 二人がいない間に掃除をしたらしい。


「お帰りなさい」

 おけを拭いていた水緒が顔を上げて微笑んだ。

 やはり水緒がいるだけで全然違う。

「流様、私は出掛けてきます。何か必要なものはありますか?」

なべ

「は?」

 保科は流の言葉がすぐには理解出来なかったらしい。

 困惑した表情浮かべた。

「だから、鍋。あと、包丁と米。あ、それと茶碗。水緒は?」

「え!? あ、針と糸があれば流ちゃんの着物がつくろえるけど……」

「……畏まりました」

 保科はむすっとした顔で出ていった。


「保科さん、怒ったんじゃない?」

「何かるかって聞かれたから答えただけだろ」

「そうだけど……」

「気にするな。それより俺も出掛けるけど、お前は外に出るなよ。化物に襲われるかもしれないからな」

 保科がこの家は結界が張ってあると言っていたから中にいれば化物は襲ってこないはずだ。

「家の周りも駄目? 食べられる草を取りに行きたいんだけど」

「家からあまり離れなければ」

 多分大丈夫だろう。

「分かった。行ってらっしゃい」


       五


 魚を獲って帰る途中、保科と一緒になった。


「流様、鍋などを調達してまいりました」

 保科がむすっとした顔で報告した。

「俺が持とうか」

「いえ、結構です。それよりあの娘、喰わないならどうするおつもりですか?」

「どうって?」

 言ってる意味が分からなくて保科を見上げた。


「流様はただでさえ狙われてるのに、その上贄の印を付けた供部など連れていたら、自分の居場所を狼煙のろしを上げて教えてるのと同じですよ」

「なら尚更一人に出来ないだろ。水緒一人になった途端に襲われるのは目に見えてるじゃないか」

 流は自分に言い聞かせるように答えた。

「何も流様が守る必要はないでしょう」

「水緒は俺を助けてくれたんだ」

「あなたも助けたんですからおあいこです」

「水緒がいたからって困ることはないだろ」

 答えになってないのは分かっていたが子供が大人に口で勝てるわけがない。

「あの娘、本当に身寄りがないのですか?」

「え?」

 どきっとした。

 それは考えたくなくて無理矢理頭の隅に追いやっていたことだ。


「どういう意味だ?」

「あの娘の話し方、山奥の村の子供のそれではありませんよ。それなりに身分のある家の娘なのでは?」

 身分の高い家なら親族もいるだろう。

 格式のある家柄は家を存続させるために子供を沢山作るものだ。

 水緒の祖父母、あるいは伯父、伯母がいてもおかしくはない。

「一人に出来ないというのなら、あの娘の親族を捜しましょう。話し方でどの地方の人間かは分かります。それなりの家なら警護の人間もいるでしょう」

「……分かった」

 そこまで言われたら駄目だとは言えなかった。

 こんな山奥で化け物に襲われる心配をしながら暮らすのが幸せなわけがない。

 水緒のことを思うなら親族を捜した方がいいに決まっている。


 それでも……。


 心の中に重くて大きい石が置かれたような気がした。


「わぁ! お鍋! お茶碗! お米! あ、針と糸もある!」

 水緒は嬉しそうに顔を輝かせた。

「保科さん、有難うございます!」

「いえ」

「私もね、草、一杯摘んだの。これから夕餉を作るね」

 水緒は嬉々として台所に立った。

「流様」

 保科が流に声を掛けた。

 自分達も食事にしようというのだ。

「水緒、ちょっと出てくる」

「はい、行ってらっしゃい」


 外で食べて戻ってくると水緒がにこにこして待っていた。


「夕餉、出来たよ」

「私達は……」

 言い掛けた保科の脇腹を突いて黙らせた。

「三人分、あるのか?」

「うん、ちゃんと作ったよ」

「そうか。じゃあ飯にしよう」

 流が板の間に上がって座り込むと保科も渋々従った。

 水緒は三人分の器に身をほぐした魚と草を入れたお粥をよそった。

「お代わりもあるからね」

 その粥は前に水緒の家で食べたのと同じ味がした。

 水緒の家を出たのはそんなに前ではないはずなのに懐かしかった。


 翌朝、水緒が作った朝餉を食べ終えると保科に呼ばれた。

 水緒は竈で器を洗っている。

 その音を聞きながら板の間に保科と向かい合って座った。


「流様、読み書きはどれくらい出来ますか?」

「簡単な字なら」

 何しろ母に教わったのだから大分前だ。

「それでは、まずこれから始めましょう」

 そう言って古びた本を取り出した。

 どうやら昨日はこれを調達に行っていたらしい。

 背後に水緒の気配を感じた。

 洗い物が終わったのだろう。

 後ろから流が持っている本を覗き込んでいる。


「読めるか?」

 流は水緒に本を見せた。

「うーん、少しなら」

「女はその程度で十分です」

 保科が言った。

「そうか?」

 読めるものなら読めた方がいいと思うのだが。

「下手に賢いと嫁の貰い手がなくなります」

「え!」

 水緒が慌てて後ろに身を引いた。

「心配しなくても水緒なら貰い手はいくらでもいるだろ」

「そ、そうかな。でも、やっぱり、漢字読める子なんて生意気だよね。私、お掃除する」

 水緒は逃げるように竈の方へ行ってしまった。

 流は仕方なく本に目を落とした。


 水緒と一緒なら勉学も悪くないと思ったのに……。


 水緒が食事を作るようになってから流は兎や雉を喰わなくなった。

 流は生の兎や雉より料理された食事の方が好きだったからだ。

 保科には量が足りないらしく、流が魚を獲りに出ているときに動物を捕まえて喰っているようだった。


 ある日、流が魚を持って帰る途中、視線を感じた。

 咄嗟に身構えたが襲ってくる気配はなかった。


 数日過ぎた。

 相変わらず見られているような感じはするが襲ってくる気配はない。


 朝餉を終え水緒が食器を洗っている時、

「流様、お気を付け下さい」

 保科が小声で言った。

「分かってる」

 最可族なのか新しく村の人間が呼んだ鬼なのかは分からない。

 もしかしたら水緒に引き寄せられた別の鬼なのかもしれない。

 とにかく誰かが流達の様子を窺っているのは保科に言われるまでもなく気付いていた。

 しばらく水緒は外に出さない方がいいだろう。

 草が無くても魚と米さえあれば大丈夫だ。

 なんなら流が草を摘んでもいいのだ。


「水緒」

 流は水緒に声を掛けた。

「何?」

「しばらくこの家から出るな。草を摘みに行くのも駄目だ」

「うん、分かった」

 水緒は不思議そうな顔をしたが素直に頷いた。


 その日、流が魚を獲って帰ってくると水緒が本をぱらぱらとめくっていた。


「あ、お帰りなさい! 勝手に見てごめんね」

 水緒が慌てて本を元のところに戻した。

「一日中家にいたら退屈だろ。お前も保科に習えばいいじゃないか」

「でも……流ちゃんは、生意気だって思わない?」

「思わない。漢字が読めるくらいで生意気だなんて思う方がどうかしてるだろ」

「そう」

 水緒は安心したように微笑んだ。

 そのとき家の外に保科の気配がした。

 帰ってきたのだ。

「女だって字は読めた方がいいし、計算だって出来た方いいぞ」

 流は保科に聞こえるように言った。

「じゃあ、私も習おうかな」

「そうしろよ」

「あ、保科さん、お帰りなさい」


 その日から水緒も一緒に漢字や計算を習い始めた。

 保科は女に知識など必要ない、などと言っていた割りには水緒にも丁寧に教えている。


 流は最近になってようやく保科に気を許せるようになった。

 保科は頭が硬いが悪いヤツではない。

 真面目なだけなのだ。

 流のことを大事に思っていると言うことも分かった。

 自分の主の息子だからではなく流自身を思ってくれている。

 だから危害を加えられるかもしれないと警戒する必要はない。

 それが分かったから気を許せるようになった。

 流のことを大切に思っているから、流の気持ちを尊重して水緒を側に置いておくことを許しているし喰おうとしたりもしない。

 もっとも保科はかなり我慢しているようだ。

 外で動物を喰ってくるのも水緒の代わりなのかもしれない。


       六


 ある日、流が魚を獲って帰ってくると水緒が家にいなかった。

 水緒が自分の言い付けに背いて家を出るはずがない。

 開いた本が板の間に出しっ放しになっている。

 出掛けるにしても水緒なら片付けてから行くはずだ。


 水緒に何かあった!


 流は急いで家を飛び出した。

 喰われたのではない。

 血の匂いはしない。


「きゃっ!」

 闇雲に走っていると水緒の悲鳴が聞こえた。

「水緒!」

 声のした方に向かうと女の鬼が水緒の腕を掴んでいた。

 水緒は地面に倒れている。

 かすかに血の匂いがした。


「水緒!」

 流の声に水緒が顔を上げた。

 頬が赤く張れ、唇の端が切れている。

 鬼に叩かれたのだ。

「貴様!」

「流ちゃん! 逃げて!」

 水緒が叫んだ。

「お黙り!」

 鬼が水緒の腹を蹴った。

「ぐっ!」

「やめろ! 水緒から離れろ! 目的は俺だろ!」

「そう。そこで大人しく立っていればこの娘は離してやろう」

 流は怪訝に思って眉をひそめた。


 立っていれば?

 仲間がいるのか?


 だが他に鬼の気配はない。

 鬼は水緒を無理矢理立たせると、髪を掴んで顔を上げさせた。

 紙を水緒の目の前に突き付けた。

「これを読みな」

 水緒は目をらそうとしたが鬼は強引に紙を見せた。

「読めって言ってんだよ! 字が読めるのは知ってるんだよ!」


 そう言うことか……。


 何かの呪文を水緒に言わせようとしているのだ。

 何故自分で言わないのかは分からないが。

 人間じゃないと駄目とか、何か理由があるのだろうか。


「さぁ、早くしな!」

 鬼が水音の髪を掴んで左右に振った。

 しかし水緒は頑なに口をつぐんでいる。

「お前、供部だろ。言わなきゃ、指を一本ずつ喰ってくよ」

 水緒がきつく目を閉じる。

「ただの脅しじゃないよ!」

 鬼はそう言うと水緒の右手を掴んで口に近付けた。

「やめろ! 水緒! 言え!」

 流がそう言っても水緒は首を振った。


「水緒! 呪いってのは修行しなきゃ効果が出ないんだ! だから大丈夫だ!」

「あの小僧もああ言ってんだ、早く言いな!」

 鬼が水音の手首を掴んでいる腕に力を入れた。

「痛っ……」

 鬼は焦っているようだった。

 保科が助けに来る前に片付けたいのだろう。

「水緒! 早く言え! 頼む!」

 水緒が目を開けて流の方を見た。

「流ちゃん……」

「早く!」

「ぞく、きゅう」

 鬼に髪を引っ張られているせいで水緒が苦しそうな声で言葉を絞り出した。

 ああは言ったものの、効かない呪いをあそこまで強要するはずがない。

 きっと何かある、と身構える。

 だが何も起きない。

 鬼も流が無事なのを見て怪訝そうな表情を浮かべる。


「もう一回!」

「水緒! はっきり言え! 大丈夫だから!」

「ぞくきゅう」

 その言葉を聞いてハッとした。


 腕に書かれた文字だ!


 流は自分の腕を見下ろした。

 川で魚を獲っているときに袖をまくっていたから、その時に見られたのだろう。


「くそ!」

 鬼は水緒を突き飛ばすと流に飛び掛かってきた。

「伏せて!」

 保科の声に流は伏せた。

 矢が飛んできて鬼の額を貫いた。

「ーーー……!」

 鬼が絶叫を上げて倒れた。

 保科は駆け寄ってくると刀で鬼の首を落とした。


「流様、ご無事でしたか?」

「ああ、助かった」

 そう言ってから倒れている水緒の側へ駆け寄った。

「水緒! 大丈夫か!?」

 倒れている水緒を抱き起こした。

「うん、平気。流ちゃんは?」

「俺は大丈夫だ」

「良かった」

 水緒は安心したように微笑んだ。

 赤く腫れている頬と、切れた唇から流れている血が痛々しい。

「とにかく、帰ろう」

 流は水緒を立たせると保科と共に家に向かった。


「保科、聞きたいことがある」

 流は板の間で保科と向かい合って座っていた。

 水緒は流の後ろで腫れた頬を濡れた手拭いで冷やしている。


「俺の腕に書かれてるこの文字に何か意味があるのか?」

 袖をまくって保科に突き付けた。

「字? どこ?」

 水緒が後ろから覗き込んできた。

「これだよ」

 流は文字を指した。

「字なんて見えないよ」


 え……?


 水緒は見えない振りをしてたんじゃなくて本当に見えてなかったのか?


「それは最可族だけにあり、一族の者にしか見えません」


 そうだったのか……。


「それで? 何なんだよ、これ」

「それは祟名たたりなです」

「たたりな? なんだそれ」

「文字通り、最可族をたたるための名です」


 その昔、最可族と、それを滅ぼしに来た人間達との間で大きな争いが起きた。

 力で劣る人間は呪術を使った。

 呪術師が最可族に呪いを掛けた。

 最可族に祟名を与え、その名を呼ばれると死ぬようにしたのだ。

 その時は誰にでも祟名が見えた。

 祟名は一人一人違い、身体のどこかに表れる。

 最可族は人間に祟名を呼ばれて次々に倒れていった。


 水緒が息を飲んだ。

 きっと流を呪う言葉を口にしてしまったのを気にしているのだろう。


 それに対して最可族の長は命と引き替えに「祟名が見えるのは同じ最可族だけ。その祟名を持つ最可族が大切に思っている相手が唱えなければ死なない」と条件を付け加えた。

 そうしてようやく人間達を退しりぞけたのだ。


「最可族を大事に思っている相手じゃなくて、最可族の方が大切に思っている相手なのか?」

「はい」

 保科が頷く。


 そんな馬鹿な……!


 背後で水緒がますます落ち込んだ気配を感じた。

 水緒は自分が流にとって大事な存在ではないと思ったのだろう。

 だがそれは違う。

 流には水緒より大切な相手はいない。

 しかしそれは口にしなかった。

 そんなことを言ったら保科が水緒に何をするか分からない。


「最可族は他の鬼よりも力が強いのでそう簡単には倒せません」

 一対多ならなんとかなるが、鬼が徒党ととうを組むのは人間の村を襲うような時くらいで、そう言う場合でも人間一人に複数で襲い掛かったりすることはまずないから集団戦は苦手なのだ。

「そのため最可族を殺そうとする者は最可族に取り入って祟名を言うことで殺そうとします」


 だから最可族は親しい者にも祟名を知られないようにしているらしい。

 同じ最可族にはなるべく見せないようにしているし、祟名が見えない者にわざわざ教えたりはしないそうだ。

 流の場合、水緒ですら何も起きなかったのだから他の者が言ったところで効果がないだろうが、今回のように水緒に言わせようとしてくることは十分考えられる。

 どうせ今後も水緒に呼ばれても何も起きないだろうがそれを知らない者は水緒を狙うだろう。

 水緒を危険にさらさないようにするためには祟名を知られないようにした方がいい。


「水緒はなんで外に出たんだ?」

 流は振り返って水緒を見た。

「流ちゃんが大変だから来てくれっていう保科さんの声が聞こえたの。それで慌てて外に出たら、あの……」

 水緒は「鬼」という言葉を飲み込んだ。

 保科から「鬼」は蔑称だと聞いたからだろう。

「そうか。もうだまされるなよ」

 とは言ったものの水緒のことだから、流か保科の声音で「助けてくれ」と言われたら出てしまうだろう。


「江戸へ行ってみませんか?」

 いつまでここにいるのか、と言う流の問いに、意外な答えが返ってきた。

「江戸? なんで?」

「その娘の親戚を捜すのでしょう」

 そういえばそうだった。

「私の親戚? でも、お母さんは死んだし、お父さんがいるって話も……」

「捜せばどこかに親戚がいるはずです。供部を最可族の村に連れて行くわけにはいかないでしょう」

 確かに狼の群れの中に兎を連れていくようなものだ。

「しばらくは最可族の村へは帰れそうにありませんし」

 まだ流を受け入れる準備が出来ていないというのだ。

 どんな準備かは知らないが。

「ですから、その間にその娘の親戚を捜しましょう」

 と言っても明日いきなり出掛ける、と言うわけにもいかないので、二、三日中に、と言うことになった。


       八


 翌日、川で魚を獲っていると男女の二人組が近付いてきた。


 こいつら鬼だ!


「小僧、おぬし、最可族か?」

「何か用か」

「ここらで最可族が供部を飼ってると聞いたのでな」

 水緒を狙ってきたのか!

「全部横取りしようとは言わねぇ。腕一本くらいは残してやるから素直に出しな」

「ふざけるな!」

 魚を放り出すと男に突っ込んでいった。


 腕を振り下ろす前に男に腹を蹴り上げられた。

 足の爪で腹が大きく切り裂かれた。

「ぐっ!」

 流が地面に転がったところに女が待っていた。

「さっさと渡さないからだよ」

 女は流の腹を爪で突き刺した。

「くそ!」

 流は腹を刺されながらも腕を振り上げて女の顔に切りつけた。

「っ! このクソガキが!」

 女が爪を振り下ろすのを転がってける。

 しかし男が待ち受けていて脇腹を思い切り蹴り上げられた。

 足の爪が流の脇腹を切り裂く。

 また転がされ、そこにいた女に蹴られて背中が裂けた。

 もう流は身体中血まみれだった。

「死にな!」


 女が流の首目掛けて爪を振り下ろそうとした時、

「ぎゃ!」

 どこからか飛んできた矢が女の額を貫いた。

「ぐわ!」

 続いて男の鬼の胸に矢が突き刺さった。

 倒れた二人の鬼に保科が駆け寄ってくると刀で首を切り落とす。


「流様!」

「ほ、しな……水緒……あいつら……」

 流は何とか声を絞り出した。

「話さないで下さい。今、家に……」

「あいつ、ら……み、水緒を……狙っ……」

「あの娘なら家にいます」

 保科が言い終える前に流の意識は途切れた。


「流ちゃん!」

 その声に流の意識が戻った。

 保科に抱えられて入ってきた流を見て水緒が声を上げたのだ。

 水緒が慌てて引いた布団に保科が流を横たえた。

「流ちゃん……」

 水緒が心配そうな顔で流を覗き込む。

 大丈夫だ、と言ったつもりだったが、声になっていなかったようだ。


 水緒の無事な姿を見て安心した流が目を瞑り、そのまま眠ろうとした時、

「水緒さん、薬草を採りに行くので手伝ってもらえませんか?」

 保科の声が聞こえた。

「はい」


 薬草……?


 流が薄目を開けて見ると保科の後を水緒がいていくところだった。


 何か変だ。


 遠退とおのきそうになる意識を無理矢理引き戻して必死で考えた。

 戸を開けようとしている保科とその後ろにいる水緒。

 二人とも手ぶらだ。


 保科に持てないほどの量の薬草をりに行くのに、なんで二人とも籠を持ってないんだ?


 保科が水緒を見下ろした。


 あの目付き、どこかで……。


 息が苦しい。

 傷が熱い。


〝この娘を食べれば傷などすぐに……〟

 食べれば……?

 そうだ!


 以前鬼が水緒を見た目付きだ。


「保科……」

 痛みをこらえて出来る限り大きな声で言ったつもりだったが蚊の鳴くような声しか出なかった。

「あ、保科さん、流ちゃんが呼んでますよ」

 水緒が気付いて保科に声を掛けた。

「気のせいですよ」

「ほ、しな……ここ、へ…………」

 今度はさっきより大きな声を絞り出した。

「流様」

 保科が顔をしかめる。

 一瞬逡巡した後、保科がやってきた。


「流様、安静になさっていて下さい。今、薬を……」

「私、流ちゃんに付いてましょうか?」

 流の枕元にやってきた水緒が保科を見上げて訊ねた。

「それは……」

 保科が言い淀む。


 やはり薬というのは水緒のことだ。


「ほし、な」

 流は保科を見上げた。

「こ、こから……出、てい、け」

「流ちゃん!?」

「それは……流様……」

 保科は何故そう言われたのか察したらしい。

「俺が、お前……の、たた、り名……を、言っ、たら……お、前は、死、ぬか……」

「無論です」

「お、れに……それ、を、たし、かめ……させ……るな」

 そこまで言うと、大きく息をいた。

 息が苦しい。

 気が遠くなりそうだ。

 でも、ここで意識を手放したら二度と水緒に会えなくなる。

「流様」

「出て、いけ……」

「……畏まりました」

 保科は黙って戸口に向かった。


「保科さん! 流ちゃん、保科さん、ホントに行っちゃうよ!」

 水緒が流を覗き込んで言った。

「保科さ……」

 引き止めようとした水緒の手を掴む。

「流ちゃん?」

 水緒が振り返った。

 流は握った手に力を込めた。

「流ちゃん」

 水緒は座り直すと自分を掴んでいる流の手に、もう一方の手を重ねた。

 水緒の温かい手の感触に流はようやく安心して意識を手放した。


 次に流が目を覚ますと水緒が自分に寄り添うようにして眠っていた。

 手は握ったままだ。

 水緒に自分に掛けられているきを掛けてやろうとしたが、それは流の血を吸って赤黒く、ごわごわになっていた。

 流が動いたことで水緒が目を覚ました。


「流ちゃん……、傷の具合はどう?」

 目をこすりこすり訊ねた。

「もう少し寝てれば治る」

「良かった」

 水緒が安心したように微笑んだ。

 そのとき水緒の腹が鳴った。

 水緒の頬が赤くなる。

 流は水緒の手を離した。

「腹減った。まだ米あるんだろ。飯、作ってくれ」

「うん」

 水緒はすぐに立ち上がった。

 しばらくすると水緒が粥を持ってきた。

 何も入っていない粥だったが、水緒が無事だったからこそ作れたものだと思うと旨かった。


「お米、もうすぐ無くなっちゃうよ」

 水緒が言った。

「ここを出よう」

 保科が置いていった地図を見ながら言った。

 水緒のことは鬼達の間に知れ渡ってしまったようだ。

 今後は流を狙う最可族の他に、供部である水緒を狙う鬼達まで次々にやってくるだろう。

 これ以上ここにいるのは危険だ。


「ここにいたら駄目なの?」

「鬼に俺達の居場所を知られた。これ以上ここにいるのは危ない」

「行く当てはあるの?」

「無い。川に沿って道があるから、それに沿って行ってみよう」

「うん。分かった」

 水緒は素直に頷いた。

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