ひとすじの想い

月夜野すみれ

第一章 ー前編ー

       一


 山の中で二体の鬼が戦っていた。

 小柄な青い鬼と、それより二回りは大きい赤い鬼。

 二体とも傷だらけだった。


 小柄な青鬼はりゅうという名だった。

 角は生えていないが、肌は青く、爪は恐ろしく長い。

 大きい鬼は頭に二本の角があった。

 流は大きな鬼が腕を振り上げた時、相手の懐に飛び込み喉元に手を突っ込むようにして爪を突き刺した。

 そのまま横に手を払うと鬼の首がおかしな方向にねじれた。

 大きい鬼は首から血を流しながら倒れた。

 流は近くの樹に手を付いた。


 喉、渇いた……。


 流は木で身体を支えながら斜面を転がるようにして降り、河原へ向かった。

 水を飲むと後ろに倒れ込んだ。

 こんなところを別の鬼に見付かったら今度こそ殺される。


 流は常に鬼に襲われ、その度に戦ってきた。

 どうして襲われるのかは知らない。

 多分鬼とは他の鬼を襲うものなのだろう。

 流の方から襲ったことはないが。

 とにかく気付いたら鬼に襲われて、それに応戦する、と言う日々が続いていた。

 もう、いつからだったか思い出せない。

 ただ自分はまだ子供らしいからそんなに昔からではないと思うのだが。

 そんなことを考えながら、いつしか意識を失っていた。


 目を覚ますと流は家の中にいた。

 起き上がって周りを見回す。

 古くて粗末な狭い小屋だった。


「あ、起きた?」

 振り返ると十歳くらいの童女どうじょわんを持って立っていた。

 着ているのは粗末なぎの当たった膝までの着物だった。


 流は自分の手を見た。

 人間の手だ。

 見た目が人間に戻っているらしい。


 水に映る自分の顔を見た感じだと流は人間の姿の時は十歳くらいの子供に見える。

 他の鬼は知らないが流は普段は人間と同じ見た目をしている。

 大ケガをした時だけ鬼の姿になる。

 自分の意志では変えられない。

 この童女は人間の姿で倒れていた流を見つけたのだろう。


 流のき出しになった左腕の手首の近くには『族救』と言う文字が書かれている。

 流を襲ってきた鬼達も大抵身体のどこかに文字が書かれていて、それは鬼ごとに違った。

 鬼の身体には文字が書かれているものらしい。

 字が書いていない鬼もいたが、見える部分に書いてなかっただけなのか、字がない鬼もいるのかは分からない。

 しかし童女はまるで字が見えないかのように振る舞っている。

 漢字だし子供だから文字だとは思ってないのかもしれない。

 あるいは字が読めないか。

 貧しい人間の中には読み書きを教わっていない者がいるからこの童女もそうなのかもしれない。


「これ、おかゆ。少なくてごめんね」

 流は椀に目を向けた。

「それ、お前のじゃないのか?」

「あ、私はいいの」

 と言ったとき童女の腹が鳴った。

 童女が恥ずかしそうに俯いた。

「お前が食えよ」

 流が断ろうとすると、

「いいの、食べて。傷が早く治るように」

 と言って椀を差し出した。

 童女の手はひどく荒れている。

 この様子では流が食わずにいても自分だけ食ったりは出来ないだろう。

「じゃ、半分ずつだ。器、もう一個あるか?」

「うん」

 童女は立ち上がってかまどの方へ戻ると、欠けた器を持ってきた。

 流は童女が持ってきた器に粥を移すと二人で食った。


 粥はすぐに無くなった。

 童女は二人分の器を持つと竈のそばの桶で洗い始めた。


「ね、名前、なんて言うの?」

 童女が訊ねた。

「流」

「私は水緒みお

 水緒が振り向いて笑顔を見せた。


 そのとき、

「水緒!」

 いきなり障子しょうじが開いて女が入ってきた。

「あ、おばさん」

「なんだい、この子は!」

 女は流を指した。

「河原でケガして倒れてて……」

「この村には余所者よそものを養う余裕なんてないよ!」

「でも……」

「口答えすんじゃないよ! とにかく食料は一人分しか渡さないからね!」

 女はそう言うと障子をぴしゃりと閉めて帰っていった。

「流ちゃん、ごめんね。気を悪くしないで。悪い人じゃないの」

「別に」

 器を洗い終えた水緒は部屋の隅にあった小さな長持ちから古い着物を引っ張り出した。


「流ちゃんの着物、破れちゃってるから、起きられるようになったら、これ着て。古いし粗末なものだけど」

 そう言って流の脇に膝を進めた。

「身体、傷だらけだね」

 水緒はそっと古い傷に触れた。

「痛かったよね」

 母親以外の誰かがそんな優しいことを言ってくれたのは初めてかもしれない。

「大したことない」

 そう答えてから改めて家の中を見回した。

 掃除はしているようだが痛んだ部分は自分では直せないからか、そこら中に雨漏あまもりのみがある。


「一人で住んでるのか?」

「うん。お母さん、ずっと前に……死んじゃったから。流ちゃんは? おうち、遠いの?」

「俺も一人だ」

「そっか。一緒だね」

 水緒はそう言って微笑わらった。

 もう夕方だったらしく、すぐに辺りは暗くなった。


「灯りがなくてごめんね」

「いらない」

 流はそう言うと床に寝転がった。

 流は暗闇でも物がはっきり見えるから元々灯りは必要ない。

 その言葉に水緒も流の隣に横になった。

「お休み、流ちゃん」

 水緒はすぐに寝息を立てて眠ってしまった。

 流は出て行くか迷った。

 自分がいたら水緒はいつまでも満足に食事も出来ない。


 でも……。


 何故か去りがたかった。


 ……ま、飯なら兎でも捕ってくればいいか。


 まだ身体も治りきってない。

 流は言い訳するように自分にそう言い聞かせるとそのまま眠った。


 翌朝、目を覚ますと水緒が朝餉あさげを作っていた。

 他人がいるのに熟睡したのは初めてかもしれない。

 いつも何かの気配を感じる度に目を覚まして身を隠し息を潜めていた。


「おはよう、流ちゃん。はい、朝餉」

 流が受け取って中を見ると粥に緑色の物が沢山混ざっている。

 量を増すために草を摘んできて入れたようだ。

 それでも食事はすぐに終わった。

 水緒は桶で器を洗うと、

「流ちゃんはゆっくりしてて。私は仕事があるから」

 そう言って出掛けていった。


 流は起き出すと水緒が出してくれた古びた着物を着て戸口に立った。

 周りは山に囲まれた小さな村だ。

 戸口から見ていると水緒は子供達の面倒を見ながら各家の掃除や朝餉の後片付けなどをして回っていた。

 小さい村だといっても全部の家を回るのだとしたら一日掛かるだろう。

 水緒が夕辺横になってすぐに眠ってしまったのも無理はない。

 子供の面倒を見ながら家事をして回るのは相当疲れるだろう。


 流は食い物をりに出掛けることにした。


       二


「流ちゃん、ただいま」

 水緒が障子を開けて入ってきた。

「ああ」

「お腹減ったでしょ。今、夕餉ゆうげの支度するね」

 そう言って竈の方へ向かおうとした水緒にきじを差し出した。

「これ……」

 水緒は雉を見て言葉を失ったようだ。

「夕餉のしにしてくれ」

「うん、ありがと」

 水緒は微笑んだ。

「どうお料理すればいいか分からないから、おばさんに聞いてくるね」

 水緒は雉を受け取ると外へ出ていった。

 そうか……。

 流はいつもそのまま喰っていたから料理の仕方までは気が回らなかった。

 何気なく戸口でその後ろ姿を見ていた。

 村の中で襲われるようなことはないだろうが、もう逢魔おうまときだ。

 もっとも、この村は何故か化け物の気配を感じなかった。

 結界が張ってあるのだろうか……。

 だが張ってあったら自分はここに入れないはずだ。

 水緒は近くの家の障子を開けて雉を見せた。

 近くと言っても結構離れているのだが流の耳には水緒達のやりとりが聞こえた。

「おばさん、これ、どうやって料理すれば……」

「雉かい。気がくじゃないか。貰っとくよ」

「えっ!? あの、それは……」

 おろおろしているうちに障子は閉まり水緒は外に取り残された。

 水緒はその場に突っ立って閉まった障子を見ている。

 呆然としているようだ。

 流の方も呆気に取られていた。

 まさか横取りされてしまうとは思わなかった。

 しばらくして水緒は肩を落として戻ってきた。

「流ちゃん、ごめんなさい。あの雉……」

「見てた。気にするな」

 明日は魚をってこよう。

 魚なら焼くだけのはずだ。

「あのね、今朝よりも沢山、草摘んできたの。ヨモギもあったんだよ」

 水緒はそう言ってかご一杯の草を見せた。

「今から夕餉作るから、ちょっと待っててね」


 前日の反省から流は川で魚を二匹獲ってきた。

「すごい! 大きなお魚だね! これなら焼けばいいだけだよね。今から夕餉作るね」

 水緒はそう言って竈の前に立った。


 流と水緒は向かい合って座っていた。

 二人の間の床に、草でかさを増やした粥と大きな葉に載せた二匹の焼き魚が置かれている。

 皿が無かったので魚が載るくらい大きな葉を取ってきたのだ。

「すごいね。おかず付きのご飯なんて初めて」

 水緒は無邪気に喜んでいる。

 こんな風に喜んでくれるなら魚を獲ってきた甲斐があった。

 自分がしたことで誰かが嬉しそうな表情をしているのを見たのは大分前だ。

 流が木の実やキノコなどを採って持っていくと母がこんな風に喜んでくれていた気がする。

 あれは一体どれだけ昔のことなのだろうか。


 流はいつしか水緒との生活に馴染なじんでいた。

 水緒はまだ子供なのに流を気遣い、思いやりのある言葉を掛けてくれる。

 流に向けてくれる優しい笑顔を見るだけで心が安まった。

 まだ幼い頃、母と一緒に暮らしていたときはこんな感じだったのかもしれない。

 鬼に襲われることもなく屋根の下で安心して眠れる、そんな生活を母と一緒の時はしていたような気がする。

 いつから、何故、自分は一人になったのか、流は覚えてない。

 あるのは母との思い出の断片だけだ。

 今までは常に山の中で襲われないように警戒し、鬼と戦いながら生きてきた。

 再びこんな穏やかな暮らしが出来るとは思わなかった。

 ずっとこんな風に二人で静かに生きていけたらいいのに……。

 流は鬼を襲う気はない。

 向こうから仕掛けてこなければ戦う必要などないのだ。


 そんな時、その男は来た。

 いつものように川で魚を獲っていると、

「流様!」

 男が駆け寄ってきた。

 こいつ鬼だ!

 小綺麗な着物を着て烏帽子を被っているが間違いなく鬼だった。

「覚えておいでですか? あなたの父上につかえております、保科です」

「俺の……父?」

 父親の記憶などない。

 勿論この鬼のことも。

「流様はお小さかったのですから無理はございません。私はあなたの父上に仕える者です」

「…………」

「これからは私がお守りします。どうかご安心下さい」

 そうは言われても簡単に信じるわけにはいかない。

 水緒は人間だから絶対に危害を加えられる心配はない。

 そもそも水緒は誰かを傷付けるなんて考えたこともないだろうが。

 だが、こいつは大人の鬼だ。

 自分より大きく強い。

 のこのこいていって襲われたらシャレにならない。

 だが断ったら?

 村が襲われるかもしれない。

 他の人間はどうでもいいが水緒を殺させるわけにはいかない。

「分かった。でも明日まで待ってくれ」

 黙って出てきてしまったら水緒は食事をしないで流の帰りを待ってしまうだろう。

 疲れ切っている水緒にそんなことはさせられない。

かしこまりました」

 そう答えた保科を置いて村に向かった。


 その日の夕餉時、

「水緒」

 流は水緒に声を掛けた。

 食べている最中の水緒は顔を上げて、何? と言うように小首をかしげた。

「明日、出ていく」

 水緒が驚いたように目を見張った。

「知り合いが迎えに来たんだ」

 何か言わなくてはいけないような気がして、そう付け加えた。

「そう。残念だけど、仕方ないね。流ちゃんと一緒にいられて楽しかった」

 水緒は引き留めようとはしなかった。

 悲しそうではあったが諦めるのに慣れた表情で微笑んだ。

 その顔を見て胸が痛んだ。

 しかし、いつまでもるわけにはいかない。

 たとえあの鬼――保科が敵でなくて襲ってきたりしないとしても他の鬼が襲ってくる。

 村にいるときに襲われたら水緒も巻き添えを食ってしまう。

 だから鬼が襲ってくる前に出て行かなければならないのだ。

 仕方ない……。

 流も諦めるしかないのだ。


 夜中、水緒が目を覚ます前に村を出た。

 保科が村の前で待っていた。

「流様、お待ちしておりました。狭いですが家を見付けてあります。そこへ行きましょう」

 保科にいて歩き出した時、不意に水緒が見ているような気がして振り返った。

 しかし水緒の姿は見えない。

 しばらく水緒を探して視線を彷徨さまよわせたが、

「流様?」

 保科の声に、流は村に背を向けると歩き出した。


 保科に連れて行かれた家は水緒の家より広かった。

「狭いですが、ここにいるのは少しの間だけですのでご辛抱下さい。必ずお父上のところへお連れします」

 別に行きたいとは思わなかったが会ったことのない父親というのがどういう鬼なのかは気になった。

 自分を襲ってこない保科という鬼のことも知りたい。

 襲ってこない鬼に会ったのは初めてだ。

 流は部屋の隅に行くと横になった。

 ここは村からそれほど離れていない。

 川で魚を捕って水緒の元に届けようと思えば出来る。

 魚を初めて獲っていったとき、水緒はおかず付きなんて初めてだと言っていた。

 つまり水緒はいつも朝晩にお椀一杯の粥しか食べてなかったのだ。

 だが水緒がいないときに置いてきたとしても誰がやったかはすぐに分かるだろうし、そんなことをしたら水緒はいつまでも自分を忘れられないだろう。

 それは腹をかせているより残酷なのではないだろうか。

 そんなことを考えているうちに眠ってしまった。


       三


 朝、起きると保科がうさぎを数羽獲ってきていた。

 二人でそれを食った。

 生のまま丸囓まるかじりである。

「なぁ、俺の父親って偉いのか?」

 食事を終えると疑問に思っていたことを訊ねた。

 家来がいるならそれなりの立場のはずだ。

「あなたのお父上、相模さがみ様は最可さいか族の長であらせられます」

「最可族って鬼だよな」

「鬼ではなく最可族です。鬼というのは人間が使っている呼び名です」

 どうやら『鬼』というのは鬼にとっては蔑称らしい。

「じゃあ、鬼の事を最可族って言うのか?」

「全てが最可族というわけではありません。それぞれ一族の名があります。まぁ最可族以外は鬼と一纏ひとまとめにしてもいいでしょう。一々名前など覚えていられませんから」

 何気にひどいこと言うな。

「なんでお前は俺を襲わないんだ? 鬼はみんな襲ってくるものだと思ってたが」

「あなたを襲っているのは一部の最可族です。勿論、最可族以外の鬼もいますが」

 最可族も含めて鬼ってのは互いに襲いあうものなのか?

「最可族の者が襲ってくるのはあなたがみぎわ様の子だからです」

 汀?

 父親が相模で汀の子と言うことは母さんの名前か。

 流は「母さん」と呼んでいた。

 誰かが母を名前で呼んでいたことがあったかもしれないが覚えてない。

「母さんが何かしたのか?」

「汀様は最可族ではないのです」

 最可族の今の長、相模には三人の妻がいる。

 三人とも最可族だ。

 汀は狩りに行った先で出会った成斥せいせき族だったらしい。

 らしいというのは、その狩りに出たとき相模は姿を消した。

 相模を捜していた保科達と再会したとき汀は連れていなかったので、まさか女と暮らしていたとは思ってもみなかったのだ。

 しかし五年ほど前、相模が汀の子――流を自分の跡継ぎにすると言い出して他にも子供がいることが分かった。


 相模がおさでなければ問題にならなかった。

 だが相模は長で、跡継ぎは次の長だ。

 それで相模の妻やその子供達が長になるのに邪魔な流を殺すために手先を送り込んでくるようになったのだ。

「なら、他の息子が長になれば襲われなくなるのか?」

 流は跡継ぎになりたいなどとは望んでない。

 襲われなくなるなら喜んで断る。

 父がすると言ったところでやらなければ済むだろう。

「他のご子息が長になられたとしても、やはり襲われるでしょう」

「どうして?」

「その方に何かあったとき、流様が次の長に選ばれる可能性があるからです。あなたが殺されたとしても、あなたにご子息がいればその子も」

「聞くまでもないが俺が長になっても襲われるんだよな」

「さすがご聡明であられる」

 あられるも何も、他の息子が長になっても襲われるなら流自身がなったって狙われるに決まってるではないか。

 どうやら流だけではなく、相模の子供はみんな互いに殺そうと相手の命を狙い合ってるらしい。

 つまり生きてる限り命を狙われ続けるのか……。

「最可族と対立している鬼が襲ってくるのも俺が相模と汀の子だからなのか?」

「相模様の子ではなくても対立している一族の鬼には襲われます。鬼どもは野蛮ですから」

〝鬼ども〟などと言っているが最可族だって同類だろうに。

 もう、水緒とは会えないのか……。

 死ぬまで襲われ続けるなら下手に近付いて危険に巻き込む訳にはいかない。

 水緒を守りたいなら離れているしかないのだ。

 他にも聞きたいことがあったような気がしたがどうでも良くなったのでその場に寝転んだ。


 食料は保科が獲ってくると言ったが流は自分で行くことにした。

 最初、自分で獲りに行ったら魚を水緒に届けたくなってしまうかもしれない、と心配した。

 だが、それは川に近付かないことで解決した。

 兎や雉なら水緒は料理の仕方を知らないから持っていこうとは思わない。

 とにかく一日中狭い家の中にもっていてもすることがなくて退屈なのだ。

 何もしないでいると、ますます水緒のことを思い出してしまう。

 水緒は朝から晩まで働いていたから一緒にいた時間は長くはない。

 魚を獲るのも大して時間がかかったわけではないから一人で何もしないでいる時間の方が長かった。

 ほとんど一日中水緒を待って過ごしていた。

 それでも退屈だとか暇だとか思ったことはない。

 水緒と知り合う前はしょっちゅう鬼に襲われていて常に警戒して気を張り詰めていたから退屈などと考えるどころではなかった。

 だが保科との生活は違う。

 鬼――最可族か――に襲われないのは同じだが一緒にいて楽しいとか嬉しいとは思わない。

 だから食料は自分で獲りに行くことにしたのだ。


 そんなある日、流は雉を狙って息を殺して草むらにいた。

 あと少しで捕まえられる、という時に足音がして雉が逃げてしまった。

 ったく、誰だよ……。

 流が振り返ると、水緒が初老の男と歩いてくるところだった。

 水緒!

 一瞬、心臓が止まりそうになった。

 いつもなら村で子供の面倒を見ながら仕事をしている時間なのに、なんでこんなところに……。

 水緒はいつも着ている粗末な着物ではなく小綺麗な格好をしていた。

 一緒にいる初老の男は白い着物に赤い袴をはいている。

 こんな獣と鬼しかいない山奥に何の用があるんだ?

 それもあんなに、めかし込んで。

 けようか?

 流は逡巡したが、やめておいた。

 もしかしたら鬼が襲ってくるかもしれないし、戦いになったらたとえ勝てたとしても人の姿はたもっていられないだろう。

 水緒に鬼になった姿を見られたくない。

 鬼は人間に嫌われている。

 本当の姿を見られて嫌われたくない。

 水緒に気付かれないようにそっとその場を離れた。


 雉を追って随分上まで来てしまった。

 獲った雉を食おうとした時、

「っ!」

 短い悲鳴のような声が聞こえた。

 水緒……!

 流は雉を放り出して声のした方へ駆け出した。

 斜面を駆け下り、丈の高いやぶを抜けると、そこには小さなほこらがあった。

 その前で大きな赤い鬼が水緒を掴んでいる。

 人間の大人の倍以上はあろうかという巨躯きょくで腕も足も太く、赤茶色の体毛も長かった。

 太く長い牙が口から覗いている。

 その口も大きく、水緒など丸呑まるのみに出来そうだった。

 水緒は足を縛られている。

 両手首にも紐が結ばれてぶら下がっていた。

 どうやら手をどこかに縛り付けられていたのを、鬼が喰うために引き寄せるとき切ったようだ。

「水緒!」

「流ちゃん! 来ちゃ駄目!」

「水緒を離せ!」

 水緒を掴んでいる鬼に駆け寄ろうとした時、

「流ちゃん!」

 水緒が流を止めるように叫んだ。

「いいの、私に構わないで。流ちゃんはこの鬼が私に気を取られてる間に逃げて」

「お前、自分の状況分かってるのか! 鬼に喰われそうになってるんだぞ!」

「分かってる。でも私が生贄いけにえにならないと村が襲われるの。だから……」

 これか!

 水緒の聞き分けが良かった理由。

 何もかも諦めた表情。

 いずれ生贄にされると知っていたからだ。

 おそらく母親の死因も……。

「そいつがいなけりゃいいんだろ」

 鬼に襲われないための生贄なら居なくなれば必要なくなる。

「え?」

 流は水緒を掴んでいる鬼の腕に飛び付いた。

 鬼が腕を振り回す。

「きゃ!」

 水緒が地面に落とされ、流は近くの大木に叩き付けられる。

 骨が折れる音が聞こえた。

 肋骨が何本か折れたようだ。

 それでも流は鬼に向かっていった。

 この程度なら大したことはない。

 今までの鬼との戦いはもっと深い傷を負った。

 流が再び鬼の腕に飛び付く。

 鬼の腕は恐ろしく太く、長かった。

 今度は地面に叩き付けられる。

「流ちゃん!」

 自分がまりのように跳ねたのが分かった。

 また何本か骨が折れたようだ。

 だが、そんなことに構ってはいられなかった。

「流ちゃん、やめて!」

 流が立ち上がろうとしたとき鬼が振り回した腕に吹っ飛ばされる。

 地面に叩き付けられ転がった。

「流ちゃん!」

 水緒が泣きながら必死になって足に結ばれた紐をほどこうとしている。

 鬼は流に構わず水緒の元に行こうとしていた。

 流が足に飛び付く。

 鬼に蹴り上げられ足の爪が流の腹を引き裂いた。

 幸い内蔵までは届いてない。

 これくらいなら……。

 胸から下は血で真っ赤に染まっていた。

 それでも立ち上がると、鬼の腕をかいくぐって懐に飛び込み長い爪を腹に突き刺す。

 いつの間にか人の姿が保てなくなって鬼の姿になっていたようだ。

 だが戦うなら爪の長い鬼の姿の方がいい。

 水緒に嫌われてもいい。

 助けることが出来るのなら。

 嫌われれば諦めも付く。

 流の手が届くのは腹までだから、鬼の攻撃をかいくぐって腹と背を攻撃した。

「ーーーー……!」

 鬼が吠える。

 振り下ろされた腕をけ、何度目かの腹への攻撃を加えた時だ。

 爪を突き刺して横に裂くと鬼の腹から臓腑ぞうふあふれ出した。

「ーーー……!」

 鬼の声が弱々しくなった。

 腹を抱えてうずくまった鬼の首に爪を突き刺した。

「ぐっ!」

 うめき声を最後に鬼は倒れた。

 水緒は……。

 助かったのは分かっているが一目無事な姿を見たかった。

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