第32話
—— 二人を乗せたスクーターは暗い街道を疾走した。
道の両側や空は真っ暗で、ヘッドライトに照らされたセンターラインだけを頼りに走った。
ゆるやかな坂を上り、やがて峠へと向かう山道へと入る。民家も対向車もなく、真っ暗な道がどこまでも続く。
背後からは過去の出来事が追いかけてきた。十二年間分の記憶の凝縮。
両親から愛された記憶。それはとても短くて小さなもの。
両親の喧嘩、物を投げ合い罵り合う。そして互いを傷付け合う。
父親は出て行く時、私を一目も見ようとしなかった。
いつも不機嫌で、夜は仕事に出かけていく母親。
二人きりになってからは毎日のようにぶたれた。
母は何日間も家に戻らないことがあり、一人で過ごした死ぬほど不安だった日々 ……。
記憶が走馬灯のように駆け巡る。
後ろのモモが眠りに落ちそうな状態なのに気づいた。
スクーターを一旦止め、山道の脇に分け入り、生えてるツタを引っこ抜く。
モモの両手と体を自分に括りつけ、再び出発した。
良い思い出もあった。
小学校に入学した時は嬉しくて、ランドセルを背負って家中を駆け回った。母親は二度とぶたないと約束してくれた。
数日後、酔っぱらって帰宅した母親に抱きつくと、物差しで朝までぶたれた。
算数のテストで満点を取った時の誇らしい気持ち。
初めての友達と過ごす、素敵な時間。
教科書やノートを捨てられた悲しい出来事。
クラスメイトから無視され続けた日々。
家事、雑用に全ての時間を支配されたこと。
母親から完全に嫌悪されていると自覚した日。
誰からも愛されることのない自分。
知子は過去の出来事を、全てここで払い落としていくつもりだった。
嫌なことだけでなく良かった思い出すら、この先に持っていくつもりはない。
今日までの自分をリセットし、空っぽの自分になるのだ。
峠に近づくと、空が濃い青色になりはじめた。黒と青の間の色。
夜空には星が怖いくらい密集している。
自分の知らない、こんな景色があったのか。
長い登り道が終焉となり、峠に着いた。無人の休憩所があったが、休む気など毛頭なかった。
下りはスピードが出すぎて、何度かガードレールにぶつかりそうになる。ブレーキをずっと握っていると、手がパンパンに張ってきたが気にしなかった。
空がゆっくりと明るみ始める。
急なカーブが増え、標高がぐんぐんと下がっていく感覚があった。
ぽつぽつと家が現れ、頼りない街灯が路面のでこぼこを照らした。
ビニールハウスの並びを超え、支え合うように密集した木造民家を通りすぎる。
生臭い魚の匂いが空気に混ざりはじめる。
人の姿は見えないが、朝の支度をしている気配が家々からこぼれている。
もうすぐ夜があける。
—— なんて静かで清らか。
このままずっと、夜明け前の余韻を味わっていたいとさえ思った。
夜が明けた直後、眼前に海が見えた。
「海だよ!、見えたよ!」
知子は思わず叫んでいた。
びっくりしたモモが背後で飛び起きる。
墓地を抜け、松の暴風林を超えると、唐突に海岸道に到着した。
目の前に水平線と空が重なった景色が広がる。
スクーターを止め、堤防を乗り越えて砂浜に降り立った。
海辺のしめった空気を、肺いっぱいに吸い込む。
打ち寄せる潮騒は、どこまでも耳に優しい。
モモは色のついた石を拾い集めはじめた。
知子は浜辺に打ち上げられた海藻や錆びた空き缶を眺めた。
遠くの海原には数隻の小さな漁船。離れているのにはっきり聞こえるエンジン音。
その先には大きな砂船がゆったりと砂を運搬している。
「海を見るの初めて ?」
「うん」
あくびをしながら答えるモモ。
「あたしも初めて」
こんなにきれいな朝があるなんて。目に入るもの全てが愛おしかった。
とてつもなく離れ難い場所だったが、二人は海辺を後にした。
釜底少女 塩木 らんまい @imabob
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