第17話

           水曜日 夜


 暗い幹線道路を歩く二人を街路灯が時々照らした。ゴミ投棄場を抜け出し、警察の駐在所に向かって夜道を急ぐ。


 証拠となるラムネは、それぞれが一袋ずつ手に持っていたが、人目が気になるのでズボンの後ろに押し込みシャツで隠した。モモはワンピースだったので、下着の後ろに隠した。


 開けた幹線道から団地が立ち並ぶ区画へと坂を登る。

 甚平の秘密基地はメクラ団地からさほど遠くない場所にあった。

 釜ノ川に掛かる橋を渡り、四つ辻通り沿いに出た。

 ここから小学へ向かう途中に駐在所がある。


 知子は初めて警察と関わるため緊張していた。

 —— 信用してくれるだろうか?


 「行かないの?」

 『釜辺駐在所』と書かれた立て札の前で、躊躇ちゅうちょしている知子にモモが言った。


 「今からいく!」


 覚悟を決め、駐在所の玄関口に踏み出す。

 ガラスドアの向こうでパソコンを操作している警察官の姿が見えた。

 二人に気づいた途端、驚いた表情で玄関口に出てきた。

 

 背が高くて体格のいい警察官だった。

 親切に所内に招かれ、パイプ椅子を勧められる。

 壁の掛け時計が夜の8時30分を指していた。


 「名前、言える? この辺の子かな?」

 警官はデスクに座ると、大学ノートにメモを取り始めた。


 「神崎知子。釜辺小学校の生徒です」


 「 …… ちょっと待って! 君、もしかして岩松さん家の子供?」

 警官はノートから顔を上げた。


 知子は胃袋がきゅっと縮むような気がした。


 「吾郎さんから探してくれと依頼があったんだよ。モモって子はどっち?」

 名前を呼ばれたモモは反射的に顔を上げる。


 「君だね?」

 全身を観察するように眺めてくる。


 「すぐ吾郎さんに連絡するね」

 胸ポケットから携帯を取り出し、番号を押しはじめた。


 「ちょっと待って下さい!」

 知子は思わず立ち上がる。

 「私たち …… その、逃げているんです」


 携帯から目を離した警官は、怪訝な顔でこちらを見てきた。

 「 逃げてるって、誰から?」


 「五郎や彼の仲間たちから」


 「どうして逃げる必要があると思うの?」


 「それは …… 」

 何を話すべきか一瞬迷った。

 「私の母は今朝、殺されました。家に帰れば死んだ母がベッドにいます」


 携帯電話からお留守番サービスの案内が聞こえた。警察官は近づいてくると、目の前でしゃがみ込んだ。


 「おかあさんの死体を見たの?」

 「 …… はい」


 「ほかに何か見なかった?」

 「ほかに ?」


 「そう、たとえば …… 外国人とか」

 「いえ …… 見た ……… かも」


 警察官は息がかかりそうなくらい顔を近付けてくる。


 「吾郎さんから何か預かってない?」

 「何を …… ですか?」


 「食べちゃいけないお菓子とか」

 「持って …… ません」


 警察官の目の奥から、カミソリのように容赦のない色が浮かび上がってきた。

 —— だめだ、隠しきれない。


 「立ちなさい!」

 感情の消えた声に、弾かれたように立ち上がる2人。


 「悪いけど、ボディーチェックするよ」


 分厚い手の平に両肩をガチッと掴まれた。肩から沿うように二の腕、脇、腹を入念にチェックされる。手が腰骨のラインに触れる —— 知子は固く目を閉じた。


 〝 ドン!、ドン!、ドン! 〟


 玄関口のドアを叩く音。

 目を開けると、レジ袋を抱えた中年のおばさんが肘でドアを叩いていた。


 〝 チッ 〟 舌打ちをした警察官が立ち上がる。

 ドアを開けると、おばさんは慌てて所内に駆け込んできた。


 「よかった~、ケイくんいて。いつ来ても不在なんだから」

 おばさんはレジ袋を受付台の上に置き、ハンカチで汗を拭きはじめる。


 「釜辺町も物騒になったわね。昔はこんなんじゃなかったのに」

 金ぶちの眼鏡の曇り拭きながら、よく通る声で話し始めた。


 「どうしましたか?」

 警察官は知子たちと受付の間に立った。


 「夕食買って帰ろうとしたら、アパートの入り口に不審者がいたの。気味が悪くて帰れないのよ」


 警察官は大学ノートを取り出した。

 「アパートは …… ヒトミ荘でしたね? それで、不審者はどんな様子ですか?」


 「そうねぇ、たぶん外国人だと思うわ。変な言葉で話してるし、顔もなんだか私たちと違う感じよ」


 「何人いるんですか?」


 「暗くてよく見えなかったけど、3~4人くらいいたんじゃないかしら。ねぇ、ケイくん注意しに来てよ」


 「分かりました。後ほど伺いますよ」

 警察官は大学ノートを閉じようとした。


 「だめよ!、今すぐ来てくれなきゃ」

 「すいません、今は取り込み中なので …… 」


 「すぐそこじゃないの。一緒に来て、ちょっと注意するだけでいいんだから」

 身を乗り出してきたおばさんは、知子たちの存在に気づいた。


 「おや、その子たちは?」

 「いや、その …… 迷子なんですよ」


 「まあ、可愛そうに。お嬢さんたち、お家はわかるの?」


 1歩前に踏み出そうとした知子を、警察官が腕で制した。

 「わかりました。直ぐにヒトミ荘まで行きましょう」


 「あらそう、何だか悪いわねぇ。女性ひとりだと本当に怖くて」


 懐中電灯と制帽をつかみ玄関口に向かう。出て行く直前、警察官が振り返る。


 「すぐ戻るから、ここでじっとしてなさい」

 外から玄関口を施錠し出て行った。

 

 取り残された駐在所は急に静かになった。エアコンの音だけが耳につく。


 「モモ、逃げるよ」

 返事を待たずに所内を見回した。


 部屋の奥にアルミの扉があった。ノブを回すと開いたので中を覗く。

 照明が消えていて暗いが、匂いや雰囲気からキッチンに違いない。 


 「行くよ」 

 上履きを脱ぎ、手探てさぐりで進んだ。テーブルの足につまずき、転びそうになったモモを右手で支える。

 台所の奥に勝手口が見えた。そこまで進むと、かがんで上履きを履こうとする。


 「だぁーれだぃい?」


 暗闇から突然の声。2人は飛び上がった。

 声が聞こえた方に振り向いたが姿は見えない。

 暗闇の中、椅子から立ち上がる音。

 ずるずると足を引きずるような音を伴い、何かが近づいてくる。恐怖で動けない。


 「にげるんかえーぃぃ?」

 

 ドアの窓から差し込む街灯の光で浮かび上がったのは、骸骨がいこつのように痩せ細った人間だった。―― 化け物!

 ピンクのネグリジェから突き出た手足はしわだらけで、警察帽を深くかぶり、猫背の姿勢で目の前まで迫る。


 「にげらぁれやぁしないよぅ」

 そう言うとモモの腕を掴んだ。


 「いやあぁぁぁ——!」

 モモが泣き叫んだ。


 知子は履きかけだった上履きを、その化け物目がけて投げつけた。

 警察帽が飛んで落ち、禿げ上がった頭頂部と、サイドから垂れ下がる白髪が露わになった。

 顔は頭蓋骨が透けて見えるほど痩せこけ、突き出た前歯と開いた目玉のせいでマネキンのように見えた。

 —— 女性 ?


 「ちぎしょうめぁぁぁ!」


 奇声を上げ、枯れ枝のような腕で知子の首を掴むと、台所の壁に押し付ける。

 もがいて抵抗するが逃れることができない。細い腕からは信じがたい腕力だ。

 しばらくすると視界の周りが白くぼやけてくると共に、眼球を内側から押しだされる圧迫感で、気が遠くなるのを感じた。

 ぼやける視界の中、手を伸ばし化け物の顔を引っ掻く。何度も顔を掻きむしる。

 指先に〝ぬめっ〟とした感触。


 「ぎいぁあぁぁぁ——!」


 化け物は両手で顔を覆いしゃがみ込んだ。

 重ねた指の間から鮮血があふれ、床に血だまりをつくった。


 知子は床に両手をつきゴホゴホッと激しく咳き込んだ。

 —— 逃げなきゃ!


 モモの手を掴むと勝手口に這い進む。

 鍵を解錠しドアを開ける。

 その時、背後から化け物が突進してきた。

 両目から流れる血で、ネグリジェの胸元が真っ赤だ。


 両手で突き飛ばされ、二人は勝手口から外に弾き出された。

 地面に叩き付けられ、痛みですぐには起き上がれない。

 倒れた二人に飛びかかろうと、化け物が飛び出してきた。


 次の瞬間、体がもんどり打ち後ろに倒れ込んだ。

 ジャラジャランと金属が擦れ合う音。化け物は鎖の付いたハーネスを付けられていた。鎖は台所の奥の方につながれ、裏口から外には出られない長さに調節されている。


 「だっだっッ旦那に言いつけてっやるぅぅ。死刑だッだッだ——!」

 狂ったように吠えまくる。


 知子は弾かれたように逃げ出した。

 一体、あれは何?

 現実感のない中、裸足で暗い道を走った。遅れてモモが付いてくるのを意識した。


 —— どこに逃げたらいいの?

 警察官が戻ったらすぐに追いつかれてしまう。


 走る前方に見慣れた釜辺小学校が見えてきた。

 ある横道を通り過ぎたとき、知子の頭に突然、ある人物の顔が浮かんだ。

 急に足を止めた知子の背中に〝 ドン 〟とモモがぶつかる。


 「いい考えがあるの。ついてきて」

 そう言うと、今きた道を戻り始めた。

 ある横道を左に曲がり、交差点を2本過ぎた場所に目的の家があった。


 2階建てのこじんまりとした新興住宅。

 知子は表札の前で深呼吸をした。

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