第11話

      水曜日 朝


 知子は小走りで学校に向かっていた。


 登校時間にクラスメイトとすれ違うのは嫌だったが、家に居たくなかった。

 昨晩から始まった母親と吾郎の口論が、今朝になっても続いていたからだ。


 「 —— あいつが行きそうな場所、思いつかねぇのかよ?」

 

 「ゴウちゃんの子でしょ? 何であんたが知らねーんだよ!」

 

 二人が喧嘩するのは初めてではなかったが、いつもとは何か様子が違う。

 口論を続けながら二人が寝室から出てきたので、知子はあわてて朝食を作りはじめた。


 「おぃ、ちょっと近所を探して来いよ!」


 「なんで私が行かなきゃいけないわけ?」

 

 2人に背中を向け、食パンにマーガリンを塗る。手が震えそうだった。


 「あいつはまだ三年生だぞ。迷子になってるかもしれねえだろうが?」


 「ふんッ、腹減ったら戻ってくるでしょ」


 「まじめに聞けよ! くそアマ!」

 吾郎が力まかせにテーブルを叩いた。


 知子の背中がビクリとなる。目立たないように食パンをテーブルにそっと置いた。


 —— 吾郎は何かに怯えている。モモが戻らないから? でもなぜ?

 何か恐ろしいことが起こりつつある予感が、知子の胸中に広がっていく。


 「おいチコ、今からモモを探しに行ってこい!」

 突然、声をかけられ思わず悲鳴が漏れそうになる。


 「そうよ、おまえはどうせ学校行ってもしょうがねーし」

 二人に詰め寄られ咄嗟とっさに言葉がでない。


 その時、吾郎の携帯が鳴る。

 着信を見てため息をついた後、電話に出た。


 「ヒロか? ここでは話せねえ。ちょと待ってろ」

 吾郎は奥の寝室へと入っていった。


 「ったく何だよ! いい年した男が子供くらいで!」

 母親はメンソールのタバコに火をつけると、携帯をいじりはじめた。


 —— チャンスは今しかない!

 知子はリビングに駆け込むとランドセルをつかんだ。


 「・・・行ってきます」

 言うと同時に玄関ドアを開け外へ飛び出した。


 後ろは振り返らず学校へ向かう。幸い追いかけてくる様子はなかった。


 登校を終えて教室に入り、自分の席に座る。

 誰かの視線を感じながら机の落書き『わたしはクソでできたチンコです』をぼんやりと目で追った。


 「おい、くそチンコ!」


 栄太が大人の香水を漂わせて、席の前に立った。

 「妹が行方ゆくえ、知ってんだろ?」


 —— なんで栄太が探してる?


 「どこいるか知ってんだろ。教えろよ、くそチンコ!」


 「 …… 知らない」 


 「うそつけ!」

  頭を平手でひっぱたかれた。


 「本当に知らない」

 栄太の目を睨みながら小声で答える。

 

 「くそッ、見つけたらすぐ連れて来いよ! 逃げたら殺すぞ!」

 栄太は携帯で誰かと話しながら教室を出て行った。


 ひとつはっきりした。

 栄太の父親は吾郎と同じ組織のメンバーだ。

 数日前、吾郎が携帯で呼び合っていた名前 「 —— 廣口、岡本、帰郷ききょう …… 」

 帰郷ききょうは栄太の名字だ。吾郎が話していたのは栄太の父親に違いない。モモの存在を知り、いち早くクラスに暴露した酒井愉子は栄太の彼女だ。


 —— 吾郎や栄太が必死でモモを探す理由は何だろう?

 自分がモモを見つけた場合どうする? 栄太のところには連れていかないだろう。

 考えがまとまらないまま、一限目は過ぎていった。


 いつものように日直の号令と同時に教室を飛び出した。

 廊下を進み、階段を降りようとして足が止まる。

 階段の端にモモがいた。


 「 ………… 」

 見つめあったまま言葉が継げない。


 背後からクラスメイトたちの雑談が近づいてくる。

 知子はモモの手をつかむと素早く階段を降りた。2階の廊下を進み、モモの教室の前を通ろうとして再度、足が止まる。

 教室の入り口に愉子が立っていた。


 —— 見張っている!


 向きを変え廊下を引き返す。3年生の男女であふれかえる廊下を進む。

 心臓がバクバクと脈打ち、つないだ手が汗でじとっりとしてくる。

 —— 誰かに気づかれるに違いない!


 階段の降り口には生徒が溢れていたが、知子は無視して一階まで一気に降りた。

 一階の廊下を北側の職員室に向かって進む。

 職員室に近い女子便所に入った。中に誰もいないことを確認し、一番奥の個室に二人で入ると鍵を閉めた。

 幾筋もの汗が首筋を流れ、シャツの襟首が濡れて気持ち悪い。


 「チコちゃん……」

 言いかけたモモの口を人差し指で静止する。


 「学校ここを出るまで話しちゃだめ」

 モモは「わかった」と目で返事を返した。


 早く始業のチャイムが鳴ってくるように祈っていると、ようやく鳴り始めた。

 廊下をバタバタと走る音が続き、チャイムが鳴り終わる頃には静かになった。


 静まった廊下に出ると、左右を確認する。

 生徒も先生もいない。

 教室と反対方向にある職員室の前を、急ぎ足で通り過ぎる。

 突き当りの角を曲がり、連絡通路を抜け、体育館に向かう。

 体育館の裏に回ると、校舎から見えない場所でへいを乗り越えて外に出た。


 学校の周囲を走り、わき道に入たところで後ろを振り返った。

 —— 大丈夫だ。 校舎や運動場はいつものように静まり返っている。


 「くつ …… 」

 モモは自分の上履きを見つめていた。


 学校を抜け出すのは今日が初めてではなかったが、家に戻る以外には特に思いつかなかった。 —— 栄太に渡すよりはましだ。


 「家に帰るよ」


 「 …… チコちゃんもいっしょに?」


 「そう。どうするかはそれから決めよう」


 二人は家向かって歩いた。

 念のために通学路は避け、人気のない住宅街の路地をジグザグに進んだ。

 今頃は栄太や愉子も気付いているかもしれない。

 遠回りになるが仕方がない。

 午前中の強い日差しは、二人の体力を少しずつ削り取っていった。


 見慣れた路地からようやく家屋が見えた。

 前庭に黒いバンが停まっている。吾郎の車ではない。

 —— 仲間連中が来ているのか? 


 玄関で鍵を出そうとした知子の手が止まる。

 ドアはバールのようなものでこじ開けたようにフレームが曲がり、ところどころ木肌が露出している。

 —— 無理矢理にこじ開けられている!

 息を止めてノブを引っ張るとドアは開いた。


 家の中は厄介なことになっていた。

 キッチンとダイニング床には、部屋中のものが壊され散乱していた。

 食器棚は倒され、中の皿やコップが割れて危険な状態だった。

 リビングのテレビ、ガラステーブルは破壊され、ソファーは切り裂かれて中綿がまき散らかされている。


 —— 泥棒 …… ?

 知子は深呼吸をして自分に言い聞かせた。落ち着け! 


 玄関口から中の様子を注意深く観察する —— 金縁のバッグや皮のサイフが中身をひっくり返され、お札が散らばった状態で床に捨てられている。

 切り刻まれた衣類—— 今朝、母親が身に着けていたジャージだ。

 胸の奥がぞわぞわとざわめき立つ。


 「ここで待ってて」

 モモに告げると、上履きを履いたまま部屋に上がる。

 奥へと続く廊下にも母親の靴や化粧品、ネックレスから落ちた真珠がコロコロと転がっている。


 寝室のドアが開けっぱなしになっていた。

 再び深呼吸をすると静かに寝室に入る。

 パイプベットの上で母親が死んでいた。


 うつ伏せの状態で黒いキャミソール越しに、背中を何ヵ所も刺されているように見えた。マットレスの血だまりの中で横たわる母親の下半身はむき出しだった。


 知子は足が震え立ってられず、尻もちをついた。

 —— これは夢?


 うつ伏せの母親の顔は見えなかったが、金髪に染めた頭部はボコボコと変形し、裂けた頭皮からピンク色の頭骨が見えた。床に引き抜かれた頭髪の束が転がっていたので、咄嗟に足で向こうへと遠ざけた。


 放心状態の知子の背後で〝 ヒュー 〟と小さな息を吐くような音が聞こえた。

 茫然と振り返ると、入り口でモモが怯えていた。


 —— 何で?

 知子は立ち上がるとモモの視界をさえぎった。


 「見てはだめ!」


 「 …… 死んでるの?」


 「玄関で待てって言ったでしょう!」

 乱暴にモモの手を引っ張ると寝室を出た。


 その時、外から聞きなれない外国語で話す声が聞こえてきた。

 話し声は前庭を横切り玄関の方へと回り込んでくる。


 —— 逃げなきゃ!

 知子はとっさにひらめいた考えに行動をゆだねた。


 モモの手を引っ張ったまま、急いで寝室へと引き返し、裏の勝手口ドアを目指す。

 玄関のドアが開くのとほぼ同時に、勝手口から外へと出た。

 家に入ってくる足音が背後から聞こえた。

 勝手口のドアを閉める余裕はなく、隣家の庭に駆け込みブロック塀に身を隠した。

 右手でモモの口を塞ぎ、寝転ぶように姿勢を低くして息を止める。


 「嘿!、有人开了后门!!!」


 —— 中国語 ? 確信はない。でも怒っているのは間違いない。

 数人が勝手口から飛び出してくる音。身を伏せたブロック塀のすぐ脇を歩き回っている。

 震えるくらい心臓が脈打った。頭の中では、母親の引き抜かれた頭髪がぐるぐると弧を描いていた。 


 「你是个笨蛋! 早点找到!!!」


 男の怒鳴り声。数人の足音が庭から道路の方角へと消えた。

 勝手口のドアが乱暴に閉められる音がした。

 

 息をするのを忘れていた知子は、あわてて空気を貪った。

 モモの口を塞いでいた手を緩めると、吐き出された息で手のひらが湿った。

 起こった事が多すぎて考えがまとまらない。どうすればいいの? 


 「…… 逃げよう」

 小さな声で耳元にささやくと、モモはこくりとうなずいた。


 隣家の犬走りを奥に向かって、ほふく前進で進む。

 裏庭に達したところで中腰の姿勢になり塀の上に顔を出す。

 右側は道路に面しているが、男たちがいるかもしれない。

 左側は同じく道路に面しているが、道路を渡った先は土手のような斜面になって下っている。


 慎重に周りを確認した知子は、モモの手を握ると全力で左側の道路を横断し、土手の斜面に飛び込んだ。

 制服のスカートが擦れるのを感じながら、土手の斜面を滑り降りた。斜面の下は小川だったが、今の季節は水が枯れて川底が剥き出しになっている。


 ここから遠くへ逃げなければ! ――― そう思ってはみたが、どこに向かうのか、何の心当たりもなかった。


 「お父さん、どこに行ったと思う?」

 行き詰まってモモに尋ねる。


 「 …… 」

 知らないのか、モモは返事をしなかった。


 —— 母親が殺される時、吾郎はその場にいなかったのか?

 知子はふと考えた時、急に気分が悪くなり、立ちくらみがした。


 そうだ! 母親は死んだのだ。

 長年の夢だった、母親のもとから逃げ出す計画がようやく現実になる。


 —— 喜んでいい。喜んでいい。喜んでいい。

 知子は何度も自分に言い聞かせたが、やがて地面に座り込むと声を殺して泣いた。


 モモが心配そうに見つめていた。

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