第10話

 「モモちゃん・・・」


 帰ろうとして立ち上がったモモは一瞬、聞き間違えかと思った。

 振り返って、部屋にいるのが2人だけなのを改めて確認した。


 「もう少しだけ、いてくれる?」

 

 初めて聞く小さな声。甚平じんぺいから発せられたのに間違いなかった。


 「じんくん、しゃべれるの?」

 ローテーブルのすみっこに座った甚平を見下ろしながら聞く。


 「しゃべれるよ。誰にも言わないで」

 さっきより声が大きくなる。


 401号室で半年ほど過ごしてきた中で、初めて交わした甚平との会話。

 これまで話しかけても返事をせず、人差し指で唇をおさえる動作を繰り返すだけで、いつ号室も眠そうに外の景色を眺めていた。


 今日の甚平は見た目からして様子が違った。

 モモはランドセルを畳に置き、テーブルをはさんで正面から甚平を見た。


 甚平の顔は悲惨だった。

 右側の頬がぶくりと腫れ、膨らんだまぶたで瞳が隠れていた。左目の周りは紫色に変色し、眼球は赤く充血している。鼻の周囲は何度も拭った、血の跡がこびりついていた。


 「じんくん、顔こわい」


 「あ、ごめん」

 甚平は背中を向けた。


 「顔 …… どうしたの?」


 甚平は変形した顔を少しだけこちらに向けた。

「ヘマをしたんだ。それで …… 親父に …… 」


 甚平は両ひざを固く抱え、体を前後に揺らした。

 蛍光灯の明かりで甚平の影が揺れた。部屋の中は明るかったが、世界は真っ黒なまゆに覆われていくようだった。

 気が付くとモモの目には、こぼれそうなくらい涙が溜まっていた。


 「泣いてるの?」

 甚平の言葉で瞬きをすると、あふれた涙がほほを流れた。


 「ぼくのために泣いてるの?」


 「判んない …… 」


 モモは自分の心情を理解できなかった。悲しいのかも判らなかったが、ふとした時に涙があふれてくることがたびたびあった。


 「 —— モモちゃん、いっしょに外に出よう」


 不意に甚平が言った。

 立ち上がった甚平は、モモを誘うように手を差し伸べた。

 どうしていいか判らず、差し伸べられた甚平の手をじっと見つめる。


 「ねえ、行こうよ」

 再度、誘われ、断りきれずにランドセルを拾い上げる。

 音を立てないように玄関の扉を開けると、暗くなった夜の空に薄い雲と月が見えた。


 しゃがんだ姿勢で廊下に出ると、手すり壁よりも姿勢を低くして、階段に向かう。背中のランドセルを擦りながら、壁づたいに1階まで降り切り、出口とは逆側に向かって手すり壁を進む。 —— 甚平は監視されていることを知っていた。


 駐輪場の屋根に紛れて手すり壁を乗り越え、建物の裏側に向かって進む。裏側に続く道は真っ暗で、モモは不安になってきた。


 「ねえ、もう帰ろうよ」

 思わずつぶやくと、前を歩く甚平がふり返る。


 「もうちょっとだけ、いっしょに来て」

 そう言うとモモの手をつかんで歩き始めた。 


 前方のゆるい丘を下り、道路に出ると公園とは反対の方向に向かって進む。

 団地が見えない場所で立ち止まった甚平は手を放した。


 「この先に秘密の場所があるんだ。一緒にくる?」

 

 「 …… 行かない」

 下を向いたモモは小さな声で答えた。

 

 「だれもいないよ。僕らだけだよ」


 「もう帰んなきゃ」

 不安な気持ちで進んできた暗い道を見つめる。


 「いま帰ったらきっとひどい目にあうよ」


 「えっ?」


 「だってここまで逃げたんだもん」


 「そんな …… 」

 モモは顔を上げると泣き出しそうになった。


 「僕が助けてあげる。一緒にくる?」


 「 …… 」

 不安が胸いっぱいに広がったモモは、一人で団地に戻る勇気がなかった。


 「行こう!」


 再びモモの手をつかんだ甚平は、戸寄町の方角に向かって駆け出した。

 下り道を懸命に走るじんくんは、まるで別人のようだ。

 隣町の小さなコンビニエンスストアまで、手を引かれて走る間、モモは恐怖で何も考えられなかった。


 初めて入る店内  —— いったいどこまで来たんだろう?


 「好きなものを買ってあげる」


 そう言われたが、自分で何かを決めたことのないモモは何一つ選べなかった。

 甚平は買い物かごにチョコレートやスナック菓子を次々と放り込んでいった。二人で食べきれる量ではない。

 さらに『プレゼント』だといって、レジスターセットのおもちゃを買ってくれた。 大好きなピンク色のレジスターで、プラスチックのお金も付いていた。


 再び来た道を戻りながら、モモはレジスターセットを胸に抱いて走った。

 知らない道を〝 遅れまい 〟と必死について走った。

 やがて側道脇の暗い野原に立った時、二人の髪の毛からは汗のしずくが流れていた。


 広い空き地に背丈ほどの雑草が生い茂り、雑草からしみ出るように投棄された粗大ごみがあふれていた。

 扉のない冷蔵庫や錆びに覆われた石油ストーブ、中身の飛び出したマットレス、ひび割れた窓ガラス。周囲から切り離され、ここだけ別世界のよう。

 ずっと離れた先に家の灯りが2,3軒だけ見える。遠くの方でトラックが走る音。 虫の鳴き声が恐ろしいほど鳴り響く。漂ってくる臭気と虫の声が、モモには怖くてたまらなかった。


 「大丈夫だからおいで」

 そう言って廃棄物の中に分け入っていく甚平の背中を、モモはあわてて追いかけた。


 雑草をかき分け、洗濯機を乗り越えると自動車のタイヤが積み上げられている場所に出た。ゴムが焼けるような臭いに、鼻をつまんで進むとその先に、錆びに覆われた自動車が数台横たわっていた。

 中の一台、パンクした軽トラックに近づいた甚平は、荷台に張ったブルーシートをめくり、中へと入っていく。

 ゴソゴソと何かを探がすような音がした後、中で明かりが灯った。

 外に立ちすくむモモに、シートから顔を出した甚平が「おいで」と手招きした。


 中に入ると蒸し暑く不快だったが、少しすると慣れてきた。

 荷台の上には集められたべニア板が敷かれ、壁はプラスチックの波板をいく重にも重ねて補強してあった。

 荷台スペースの中央には丸い木のちゃぶ台があり、屋根替わりのブルーシートに吊るされた懐中電灯が揺れると二人の影も揺れた。


 「すごい! これ、じんくんが作ったの?」

 モモは心底、驚いて尋ねた。


 「うん」


 「ここに住んでるの?」


 「ちがうよ。秘密基地だよ」


 「だれも来ないの?」


 「うん、来ないよ」


 2人は並んで座り、先ほど買ったお菓子を食べた。

 青い空間で見る甚平の顔は本物のおばけのように見えたが、不思議なことに怖いとは思わなくなっていた。


 モモはレジスターをちゃぶ台の上に置き、中にお札やコインを入れていった。甚平がスナック菓子や飴玉を渡すとハンドスキャナーを押し当てた。全てのお菓子を読み込み終えると、また最初からくり返した。ハンドスキャナーを押し当てるたびに電子音が鳴り先端が赤く光った。


 「モモちゃん、楽しい?」

 甚平の言葉が聞こえていないのか返事はなかった。


 夢中でプラスチックのお金を数えていると、ふと甚平がいないのに気付いた。


 「じんくん?」

 返事がない。急に不安になり、少し大きな声で呼んだ。

 

 「じんくん、いないの?」

 シートがサッと開き、甚平の変形した顔が見えたので、ため息をついた。


 「ごめん。トイレに行ってたんだ。トイレ、行きたい?」


 「・・・うん」


 外の一角、べニアで囲った中に、便器を置いた場所があった。


 「ごめん、紙がないけど」


 「むこうを見てて」

 モモは便器に座ると用を足した。足元に尿が流れてきたので踏まないようにした。


 再びシートの中に入ると眠くなってきた。

 じんくんは自分が渡した封筒のお金で、菓子やおもちゃを買った。

 取り返しのつかないことをしたに違いない。


 —— 今はどうでもいい。 味わったことのない解放感に酔いしれたモモは、そのまま眠りに落ちていった。


 翌朝、目をさますと甚平は姿を消していた。

 部屋には2人分のランドセルがあったが、お金の入った封筒は無くなっていた。


 外に出て周囲を探してみたがどこにもいない。

 どうしていいのか判らず、しばらくシートの中でじっと過ごす。

 朝日が昇りきったブルーシートの中は、サウナのように蒸し暑くなった。


 仕方なく外に出て、通りをぶらぶらと歩いた。

 しばらく歩くと見覚えのある交差点に行き着いた。

 —— ここからだったら帰れる!


 モモは一目散に駆け出した。

 ゆるい丘を登り、団地を超えて釜ノ川を渡り、見慣れた瓦屋根の家が見えたところで急に足が止まった。


 『いま帰ったらひどい目にあうよ』


 甚平の言葉が晴れた空のようにくっきりと浮かび上がってきた。

 家はすぐ目の前だ。

 しかし、モモはそこから先、進むことができなくなった。

 来た道を泣きながら戻る途中、遠くから小学校のチャイムが聞こえてきた。


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