第9話


           火曜日、朝


 普段よりも早い時間に登校を済ませた知子は、職員室前の廊下を行ったり来たりした。窓から聞こえるセミの鳴く声が、朝の暑さを助長する。


 職員室の階段側の扉が開き、竹彦先生が教科書を抱えて出てきた。知子は素早く周囲を見回すと、クラスメイトがいないことを確認する。

 先生の背後に近寄るにつれて心臓がドキドキしたが、チャンスを逃すまいと覚悟を決めた。


 「先生 …… 」


 急な声に驚いた先生が振り返った。


 「知子ちゃん。平気なの?」


 体をかがめて、心配そうに顔をのぞき込んでくる。

 知子は顔が熱く火照るのと同時に、背後から生徒たちの話し声が近づいてくるのを感じた。


「あの …… 昨日はありがとうございました」


 それだけ言うと素早く紙袋を手渡し、走りだしていた。1度も振り返らず、廊下の角を曲がったところで息をつく。

 脈動する血液で顔が赤く火照っているのが、自分でも自覚できた。

 安堵と不安とが半々。でも渡せてよかったと思った。


 突然、紙袋を渡された竹彦先生は戸惑いながら中身を確認した。

 綺麗に洗って畳まれたハンカチと、酒饅頭の包みが入っていた。ノートを破って書かれた小さな手紙も入っていた。

 手紙には保健室まで付き添ってくれたお礼と、今度、相談したいことがあるむねが綴られていた。

 竹彦先生は手紙を畳むと胸ポケットにしまった。


 3限目に算数の授業があったが、先生はいつもと変わらない様子で振舞っていた。

教室から出ていく一瞬、目配せをされたような気がした。

 —— 気のせいだろうか?


 クラスメイトは休み時間になると、妹をネタに侮辱してきたが、なぜか昨日ほど腹が立たない。こんなに気分が安定している日は久しぶりだったので、6限目の授業が終わる頃、この後の付き添いを思い出し、億劫な気持ちになった。


 付き添いはモモと知子が、同じ6時間授業の日と決まている。

 各クラスでは『帰りの会』があるが、火曜日は玉本先生が手芸サークルに通う曜日なので、6年2組はどこよりも早く会が終わる。この日も開始から3分程で終了となり、短い挨拶の後、先生は教室から出て行った。


 知子は一目散に教室を後にすると、昇降口で靴に履き替え、北口の校門を飛び出した。道路を横切り、東に少し進んだ駐車場に停めてあるトラックの影に身を潜める。

 授業を終えた低学年の児童が、道路の向かい側をぞろぞろと通り過ぎていく。車の影から生徒を確認する。

 (クラスメイトには絶対に気づかれたくない)


 やがて集団下校中の児童の中にモモの姿を見つける。集団からこぼれたように、最後尾をひとり遅れて歩いていた。


 知子は少し距離を取って後ろを歩いた。

 商店街との交差点を横切り、住宅街を歩く 。 下校途中の児童は1人、2人と数が減っていったが、モモに声をかける児童はいなかった。釜ノ川に差し掛かった時には、他の児童の姿はなくなっていた。


 仮に誰かがモモに話しかけたり、連れていこうとした場合は、慌てずに他人としてその場を離れる。同時にその人物の特徴をできるだけ記憶する。それが吾郎からの指示だった。


 メクラ団地見えてきたころには、歩いているのは2人だけだった。

 低層の古い団地は黒い染みとひび割れが壁中に広がっており、この場所だけ奇妙な静けさに包まれている。

 目的の団地に着いた時には、モモが401号室の玄関扉を開けて入って行くところだった。


 今朝、吾郎に言われた通り、団地横の公園に行く。

 遊具やベンチ周辺をくまなく見廻し、この前の変質者がいないことを確認するとブランコに腰を下ろした。

 5分ほど経つと反対の方角から男の子が来るのが見えた。

 算数の教科書を覗き込むふりをして、横目で男の子を盗み見る。帽子をかぶっているので顔は見えなかったが、階段を上がるとモモと同じ部屋に鍵を使って入っていく。


 401号室に明かりが灯った。

 外はまだ明るかったが、空は夕方のような色味で空気が蒸し暑い。風もなく、遠くで鉄を打つ音が流れてくる。

 1時間ほどで辺りは薄暗くなってきた。何も起こる気配はない。

 最後にもう1度、401号室の明かりを確認し帰路についた。


 —— 今日も変質者と会うのだろうか? 無理やりにでも連れ帰るべきだろうか? 


 歩きながらモモのことを考えていることに気づき、あわてて他のことを考えようとするが、特に何も思いつかなかった。


 家に着くとダイニングルームで吾郎が待っていた。 —— 夕方の時間、家にいることはほとんどないのに。

 ダイニングはタバコの煙が立ち込め、灰皿には吸い殻が溢れていた。


 「どんな様子だった?」

 挨拶もなく質問してくる。


 「別に …… 」


 「別にとは何だ ?」

 いつも以上にイライラしているように見えた。


 「いつもと同じ」


 睨まれているのを察知し、目を合わせずダイニングルームを通り過ぎようとする。


 —— 吾郎が素早く立ち上がり、髪をわしづかみにされた。

 「それが俺に対する態度か ?」


 「やめて、痛い!」

 五郎の腕を両手でつかんで抵抗する。


 「後悔させてやる!」

 吾郎が上から覗き込むように顔を近づけくると接吻してきた。

 一瞬の出来事 —— 知子は抗う間もなかった。押さえ込むように知子のくちびるをむさぼりはじめる。

 全身を怒りがかけめぐった。吾郎の顔を両手で突き上げ、唇を引き剥がす。


 「ふざけんな!」

 涙声が震えていた。


 吾郎はひるむことなく腕をねじ上げると、首筋に唇を這わせてきた。


 「ふ・ざけ・んなぁぁ …… 」

 あふれる涙にむせながら、抵抗しようと身をよじる。


 「しょっぱい体しやがって!」

 吾郎は暴れる知子の体を抱え込み、寝室へと向かった。


 ベットの上に放り投げられ、こめかみをヘッドパイプにぶつける。衝撃で頭がくらくらしているところを、上から押さえ込まれ身動きが取れなくなった。


 「大人の味を教えてやる」

 両腕を片手で押さえつけられ、別の手がTシャツの中に突っ込まれる。


 「やめてっ、やめっ …… 」

 体をよじり逃れようとする。


 「逆らうならこの場で殴り殺すぞ!」

 吾郎の固くなった一物が内ももに触れた時、恐怖はピークに達し抵抗する気力が失われた。吾郎は知子のズボンを脱がせにかかった。

 天井を見上げた知子の顔は涙に濡れ、開いた口は金魚のようにぱくぱくと動いた。


「ゴウちゃん、いるの?」

 廊下から母親の声がした。


「チッ!」

 吾郎は舌打ちすると、ひざまで下げたズボンから手を離した。


 ドアが開きビールパックを抱えた母親が部屋に入ってきた。


 「めずらしいじゃん、この時間にいるなんて」

 母親は知子を一瞥いちべつしたが気にした様子はない。


 ベットに座りビール缶を開けると、喉を鳴らして半分を飲み干した。

 「ハァーうまい。ゴウちゃんも飲む?」


 吾郎はビール缶を受け取ると飲み始めた。

 母親は吾郎の太ももをさすりながら甘えた声を出した。


 「ねぇー、時間あるなら今からヤッて」


 「今からか?」


 「今から。都合でも悪い?」


 「いや悪くない。来いよ」

 吾郎はビール缶を飲み干すとサイドテーブルに置いた。


 母親は吾郎の膝の上にまたがるとキャミソールを脱ぎ始めた。衣類を脱ぎながら、2人は音を立てて猛烈にキスを始めた。

 知子は涙を拭うとズボンをたくし上げ、ベットの奥で上体を起こす。横では母親と吾郎が性交を始めている。

 2人を避けてベットから降りると出口に向かった。部屋を出る時には吾郎の上で母親の背中が、地面をのたうつ蛇のようにうねっていた。


 キッチンに戻り蛇口に直接口をつけて、水を含んでは吐き出した。何度ゆすいでも不快感が消えず、できることなら吾郎が触れた部分を切り取ってしまいたかった。

 奥の寝室から2匹の獣が、互いを傷つけあっているような声が聞こえてくる。

 知子は家を飛び出すと、真っ暗な川沿いの遊歩道をあてもなく歩いていった。


         *


 ——「ねぇ、ラムネちょうだい」

 ベットで仰向けになった久美子はメンソールの煙を天井に向けて吐き出した。


 「今はねえよ。モモが戻ったら分けてやるよ」

 ベットに座った吾郎はビール缶をもうひとつ開けた。


 2人の裸体は乾きかけの汗でべたべたし、布団からは濃厚な体臭が匂い立った。


 「さっき、あいつを犯そうとしてた ?」


 「別に …… あいつは反抗的だからしつけてただけだ」


 久美子は吾郎のビール缶を取り上げると一口飲んだ。

 「ってもいいよ」


 「は?」


 「あいつ、客を取る気ないから」

 久美子は吾郎の耳たぶを口に含みながらペニスをしごきはじめた。


 「躾けだったら、犯ってもかまわないよ」


 吾郎の一物はふたたびいきり立っていた。

 「そういうことなら、躾けてやらんとな …… 」


 吾郎はふたたび久美子の上に体を重ねた。

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