第8話

 「あんたは昔、飼ってた犬に似てるの。フフッ」


 —— 静江しずえはいつも半分眠っているような表情で吾郎を見つめた。


 戸寄町とよりちょうの端っこの小さな町。木造2階建てアパートに住む静江は、小さな会社で経理の仕事をしている。 年齢は25才。吾郎よりも4つ年上。

 週末に通っていたパチンコ屋で、スタッフとして働いていた吾郎と知り合い、気が付けば彼が自分のアパートに住み始めていた。パチンコ屋の仕事も辞めたようだった。

 腕にタトゥーが彫ってあり、顔に数ヵ所、穴のように凹んだ傷がある。傷は時々痛むようで、ひどい時には1日中、動けないこともあった。


 体格に似合わず気の弱いなまけもの —— 静江の吾郎に対する印象だった。

 仕事をせず1日の大半をアパートの部屋にこもって過ごし、酒を飲み、常に何かに怯えている。夜中にうなされて起きだすこともしばしばだった。それでも静江は文句を言ったりはしなかった。


 静江には何かが足りてなかった。本人にも”何か”は判っていなかったが、長い間、誰からも交流を求められることがなかった。


 毎朝八時、静江はアパートを出るとスクーターで職場へと向かう。

 しばらくすると吾郎が起き出す。

 静江が用意した朝食を食べ、朝から酒を飲み、ゲームをして時間をつぶした。

 昼になると近くの定食屋で日替わり定食を食べた。夕方になると静江のメモを持ってスーパーで買い物をし、部屋に戻ると簡単に掃除を済ませた。

 夜7時頃、静江が仕事から戻ると、彼女が二人分の夕食を作り一緒に食べた。

 テレビを見て、シャワーを浴びて、セックスをした。そのままベットで朝まで眠った。

 会話は少なく、気持ちが通じ合っているような安心感はなかった。


 —— 半年が過ぎた寒さの厳しい冬、静江が妊娠を告げた。

妊娠中も2人の生活に変化はなく、静江も変わることを望んではいないようだった。

 ある日、静江が毛布にくるまれた赤ちゃんを抱えて帰宅した。未熟児で生まれた赤ちゃんの名前は『モモ』—— 昔飼っていた犬の名前だと言った。


 静江はモモを甘やかした。おもちゃをたくさん買い与えて一日中遊ばせたが、外に連れ出そうとはしなかった。遊ぶのはいつも家の中だけである。


 産休の期間が終わると静江はまた働き始めた。

 吾郎はモモの世話を頼まれるようになる。粉ミルクを飲ませ、おしめを取替え、膝に抱いてあやした。いつまで待っても自分の子供だという愛情は沸いてこなかった。


 ある夏の午前中。 モモは朝から一時間近く泣き通しだった。

 ミルクはまったく飲まない。オムツも取り替えた。


 —— 泣く理由なんてないだろう!


 上半身はだかの吾郎は、朝からウイスキーを飲み過ぎだった。暑い部屋に閉じこもり、泣き声をかき消そうとゲーム機の音量を上げる。


 〝 ドンドン! 〟 隣りの部屋から壁を叩く音。


 (くそっ! ふざけやがって!)


 赤ん坊の両足をつかみ、逆さの状態で浴室まで運ぶ。空のバスタブの底に赤ん坊を置くとフタをした。浴室のドアを閉めると外に漏れる泣き声は小さくなった。


 —— 俺を甘くみるとどうなるか教えてやる!


 ウイスキーをあおり再びゲームを再開する。

 ジャングルでの戦闘を五回戦った後、氷を追加するためにゲームを中断した。

 浴室に行くと、バスタブの中で赤ん坊はまだ泣いていた。ねちねちとまとわりついてくる泣き声 —— 頭の中を熱が巡り、目の前がチカチカした。かつてのサディスティックな欲望が全身を貫く。


 衝動的に『ふろ自動』ぼたんを押す。

 バスタブにお湯が流れはじめる —— 赤ん坊の泣き声はヒステリックな金切り声に変わる。フタが閉まっていてもリビングまで聞こえるほどの声。ビリビリと震える

悲痛な泣き声 。


 —— もうちょっと。もうちょっと。吾郎お湯を出し続けた。


 赤ん坊がぱちゃぱちゃと手足をバタつかせる音、泣き声が不規則に途切れはじめる。 ゴボッ、ゴボッ……、ゴホ……、 突然、泣き声が聞こえなくなる。

ジョボ、ジョボ、ジョボ・・・・ お湯がたまる音だけが響く。


 ——だめだ!  期待した我が子への情愛は沸いてこない。


 フタを開けて中を覗き込む。

 10センチほどたまった湯の中で、目と口を開いた赤ん坊が沈んでいた。

 片手で拾い上げ風呂マットの上に置く。 人間とは違う別な生き物に見える。

 泣き声を上げないので、うつ伏せにして背中を叩くと、ゲホッ…とお湯を吐いた。

 その直後、手がつけられないほどの絶叫!。小さな体から発せられた悲鳴は、浴室の壁を破壊し、アパートを飲み込むのではないかとさえ思われた。

 抱きかかえると、ビクビクと体を痙攣けいれんさせた後、途切れ途切れの泣き声に変わった。


 (—— 静江に怒られなくてすみそうだ)

 吾郎の頭に浮かんだ最初の考えだった。


 夜。静江があやしても赤ん坊は泣き止まなかった。抱こうする度に、思い出したように泣きはじめた。『 わたしに触るな! 』とでも言っているようだ。


「ねえ、今日、モモの調子悪かった?」


「 …… 別に」


 その日を境にモモは吾郎がそばに来るだけで泣きだすようになった。


 モモの成長は他の児童よりも遅れていた。

 静江も吾郎も人付き合いをしなかったため、モモは他の児童や大人と接する機会がなく、気難しい性格へと成長した。

 静江はなつかない娘の世話が面倒になり、吾朗に押し付けるようになった。吾朗も面倒を見る気はなく、2人の間でモモは荷物のように行き来した。


 やがてモモは自分だけの世界に閉じこもるようになる。 それはとてもせまくて静寂な世界だった。


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