第5話


         火曜日 朝


 「いいかげん起きろや!」


 野太い男の声にびっくりして知子は飛び起きた。


 朝 6時半

 キッチンテーブルの先に義父の岩松吾郎いわまつごろうの姿が見えた。

 朦朧もうろうとする意識の中で、昨夜の出来事は夢ではないか? と一瞬考えたが、床に落ちた物差しを拾い上げながら淡い考えを振り払う。

 五郎がにやけ顔でこちらを眺めている。

 急いで布団を畳み、洗面所に向かう。キッチンに戻ると吾郎と目が合ったので、思わず顔をそらせた。吾郎の顔には丸い銃創のような傷跡があり、一度見たら強く印象に残る。


 「あの …… おかあさんは?」

 

 「久美子なら俺がベットまで運んどいた。心配すんな」


 白いノースリーブのシャツから覗く、吾郎の二の腕から前腕にかけては、タトゥーでびっしりと覆われている。ナイフなのか花なのか、知子には何の絵柄か想像もつかなかった。


「話があるけん座れ」

 有無を言わせない口調。一番遠い椅子に腰を下ろした。


「コーヒー、お前も飲むか?」

 席を立った吾郎の腰のキーリングが、じゃらじゃらと鳴る。


「いらない」


 彼の体から漂うココナッツクリームの匂いを嗅ぐと食欲がなくなる。この人はモモの実父なのだ。筋肉質でどう猛な雰囲気は、知子の想像する父親像とはかけ離れている。


 —— この人を父親と思える日なんて来るだろうか?


 「今日、学校終わったらガキが〝より道〟するから —— ってやれ」

 ガキとはもちろんモモのことだ。

 穏やかな口調だが、マグカップ越しに睨んだ目は反論を認めていない。


「・・・・わかった」


 付き添いを命じられるのはこれで三度目だ。

 特別、難しくはない。下校前に校門でモモを待ち伏せし、少し後ろをついて歩く。釜ノ川を渡って東に一キロほど進むと、低い丘の上に団地群が見えてくる。築年数の古いメクラ団地だ。


 2号棟の一室にモモが入るのを見届け、自分は家に帰ってくる。ただそれだけ。


 「ただし …… 」

 1呼吸置いて吾郎は続けた。


 「 —— 今日は部屋に入ってからも、しばらく見張っとけ」


 「 …… どのくらい ? 」


 「そうだな、1時間だ。何もなければ帰ってこい」


 「1時間も …… 」


 「隣の公園で待機してろ。部屋から目を離すなよ」


 知子は少し考えた。


 「あの公園には変質者がいるって噂があるけど …… 」


 「だから何だよ。おまえは関係ないだろう」

  知子の体に視線を這わせた吾郎は、狡猾そうに笑った。


 モモが団地の一室に〝より道〟をして何をしているのは知らない。しかし何か悪いことをしてそうな気がする。

 知子は五郎の弱みをつかんでやろうと考え、先週、隠れて成り行きを確かめていた。


              *


 —— メクラ団地につくと2号棟4階の角部屋にモモが入っていった。

 少し経つと、黒いランドセルを背負った男の子が同じ部屋に入っていった。二時間が過ぎ、空が薄暗くなってきた頃、男の子が部屋から出てくると、来た道を帰っていった。

 遅れること十分、モモが玄関に現われた。首に下げた鍵で部屋を施錠すると、階段を降りてきた。

 慌てて二号棟の影に身を隠した。モモが通り過ぎたのを見計らって、後を追った。不思議なことに、家に帰る道中にモモの姿はなかった。

 団地に戻ってみたが姿はなく諦めかけた時、視界の隅でうごめく影に体がゾクッとなる。

 団地から歩道までの区間に街灯のない公園があり、そこのベンチに人が座っている。目が慣れてくると、色褪せたワンピース姿のモモだとわかった。隣には灰色の作業服を来た猫背の中年男が、モモに体を擦りつけるように座っていた。

 

 知子の心臓はバクバクと打ちはじめ、本能的にその場から逃げ去った。

 —— バカなやつ。どうなったって知らないから。

 

 歩道に出て後ろを振り返ると、先ほどよりも二人の姿がはっきりと確認できた。

知子はなぜかそのまま帰ることはせず、ベンチのそばに来ていた。


 「モモ、帰る時間だよ」


 震えを隠すような大きな声だった。ベンチにいた2人は、驚いて顔を上げた。知子の姿を見たモモは驚きを隠さず、顔をこわばらせた。男は猫背の背中をいっそう丸めて横を向くと、禿げかけの頭をがりがりと掻きむしりはじめた。男の頭頂には直径五センチほどの窪んだ場所があった。


 動く様子を見せないモモに苛立った知子は、先ほどよりも声を荒げて言った。


 「もうすぐパパが帰ってくるからおいで!」


 声が震えているのが自分でもわかった。モモは仕方なさそうにランドセルを背負うと立ち上がった。男はモモをチラッと一瞬見ただけで、足を抱えて背中を向けた。


 「 …… バイバイ」

 

 小さな声でモモが言うと、男は膝を抱えた指を少しだけ開いて振った。

 知子はモモの手首をつかむと、大股で街灯のある歩道に向かって歩いた。


 「痛い !」

 歩道に差し掛かったところでモモが手を振り払った。モモの細い手首は白くまだら模様に染まっていた。


 「あの男は狂ってんのよ。あんたわかってる ?」

 体から汗が流れ出すのを感じながら怒鳴った。


 モモは急に足元に視線を落とすと、それきり沈黙した。もう何を聞いても返事は返ってこなかった。


 —— 本当に腹が立つ! この子は嫌なことに遭遇そうぐうすると、貝のように閉じてしまう。閉じると何を聞いても返事はない。


 仕方ないので家に向かって歩き出した。知子の後ろをとぼとぼとついて歩くモモは、今にも消えてしまいそうなほど弱々しい存在だった。

 家が見えてきた時、知子は努めて穏やかな口調で話しかけてみた。


 「ねえ、さっきの人は友達なの?」


 「 …… 」


 「誰にも言わないから教えてくれる ?」


 「 …… 」

 辛抱強く返事を待った。


 「 …… パパに言わない ?」

 聞き取れないほどの声。


 「うん、誓う」


 「いつも公園にいる、ぎんちゃん」

 足元を見つめたままつぶやいた。


 「ぎんちゃん? 毎日会うの?」


 「より道した時だけ」


 「あの人に何かされるの?」


 「手を握ったり、頭をなでてくれる」


 知子は頭に怒りが上ってくるのを感じて額の汗をぬぐった。

 「何でそんなことをさせるの?」


 「モモの話を聞いてくれるからよ」

 照れたような微笑を浮かべて顔を上げた。


 「よく聞いて。もう二度とあの人に会っちゃだめ! 二度と。わかった?」


 詰め寄るような口調になり、モモはまた視線を足元に戻していた。

 それ以来、この話をしたことはない。


 —— 別にどうでもいい。

 あの子が変質者に襲われようと自分には関係のないことだ。

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