第4話

 夜中、知子は前触れもなく目を覚ました。

 物音がした気がしたので引き戸を開ける。玄関で母親の久美子が倒れていた。


 布団から起き上がり、目をこすりながキッチンに入ると、母親がハイヒールを脱ごうと床でもがいていた。


 「 …… おかあさん」

 母親の黒いスパンコールのキャミソールは腹の上までまくれ上がり、はだけたミニのスカートから太股ふとももがのぞいている。


 「くそったれ!、何時まで働かせんだよ!」

投げつけたハイヒールが玄関のドアにぶつかり、バンッと音をたてて地面に落ちた。

「延長金、絶対払わせてやる!」

がらがらになった怒声がキッチンに響き渡る。


 「おかあさん、夜中だから・・・」

  知子は抑えた声でつぶやいた。


 「はぁ? てめぇ、なんつった?」

 充血して血走った目の母親が睨んでくる。

 「おまえのせいで苦労してんだろぅが! くそチンコ!」



 「ごめんなさい …… 」

 —— 何を言ってもダメだ。

 知子は、そばに寄ると母親の上半身を支えて起こし、背後から抱えようと脇の下に手を差し入れた。汗でぬるりと滑って抱えられない。

 首筋からアルコールと汗と化粧品が混ざり合った匂いが沸き立ってくる。—— 無意識に息を吸って呼吸を止める。


 「てめぇ、臭せぇと思ったな?」


 「いえ、思ってない —— 」

 途中まで言いかけた時、平手が頬に飛んできた。

 床に倒れると母親が乗りかかってきた。 両手を振り回して背中や横っ腹を殴打してくる。


 「なんでおまえのために、くそチンコがっ!」

 泥酔してふらふらの母親から受ける殴打は、大して痛くはなかったが、理不尽な暴力は2ヵ月ぶりだった。


 背中や腹では飽き足らず、顔に手を伸ばしてきた。

 咄嗟に身をかわす知子。


 驚いた顔をする母親だったが一瞬後、吐き捨てるように言った。

 「物差し取ってこい。くそチンコ!」


 「お願い …… もう、やめて」


 「うるさい! 持って来いって言ってんだろぅが!」

 —— やめるつもりはなさそうだ。

 観念した知子は物差しを取ってくると正座をし、まくり上げた背中を母親に向けた。物差しを手にした母親は、知子の骨ばった背中を叩き始める。


 ピシン!、ピシン!、ピシン!

 部屋の中に肉を打つ音が響き渡る。両手を交差し自分の肩を抱いて耐えた。


 「おいっ、『わたしはくそチンコの知子です』ってつぶやけよ!」

 叩く手を止めずに背後で怒鳴る。


 「わたしはくそチンコの知子です。わたしはくそチンコの知子です。わたしはくそチンコの知子です …… 」

 反論すると朝まで続くので、呪文のようにつぶやいた。


 物差しで背中を叩かれるのは二年生の時から始まったので痛みには慣れていたが、再婚した後は1度も叩かれていなかった。もしかしたら2度と叩かれないのではないかと、抱いた希望は今夜消えた。


 —— 何ひとつ変わりはしないのだ。

 屈辱感が胸の中で広がっていく。

 少し開いたガラス戸の奥からモモがこちらを見つめていた。

 〝 見てこのありさまを! 〟表情のないモモの顔を睨みつけた。


 「 げほッ、げほッ、げほッ 」

 背後で母親の咳き込みが激しくなり、打ち下ろす手が止まる。


 「 ……オエッ …… うぇろヴぇろヴぇろっ 」

 背後で床に嘔吐していた。


 青ざめた顔になった母親は、物差しで知子の頭を叩きながら怒鳴った。

 「はよ …… 水もってこい、役立たず!」


 あわてて立ち上がり、プラスチックのコップに水を注ぐ。


 「だれが『くそチンコ』やめていいつった?」


 「わたしはくそチンコの知子です。わたしはくそチンコの知子です。わたしはくそソチンコの知子です ……」つぶやきながらコップを渡す。

 母親は口を水でゆすぐと、床にベッと吐き出した。

 コップを投げ付けた母親は、四つん這いで台所の出口までたどり着くと、そこで動かなくなった。


 しばらくは『くそチンコ …… 』を唱えていたが、やがていびきが聞こえてきたのでやめた。叩かれた背中がひりひりと痛みだしてくる。

 台所はアルコールと胃液の匂いに満ち満ちて息を吸うのも嫌だった。


 まったく最悪。—— 無力感に襲われる。

 余計なことは考えず、床に散乱した吐瀉物としゃぶつを雑巾で集めはじめる。雑巾でつかんで、すべてキッチンシンクに流した。その後、洗剤をかけて床を水拭きしたが匂いは消えなかった。


 深夜4時30分


 盛大ないびきをかいている母親を見て迷ったあげく、寝室にタオルケットを取りに行った。母親に掛けようとした手が止まる。

 —— 異臭がするので顔を近づけると、母親は失禁していた。開いた股からリビングに向けて尿が幾筋も流れている。


 頭がカッとなり目頭から涙があふれた。—— ちくしょう!

 怒りにまかせて雑巾で床をゴシゴシ拭いた。先ほどの胃液よりも、アンモニア臭は強烈だった。


 母親の下着を取り替え、キッチンで汚れた下着を洗っていると、お腹の底から怨念のようなものがこみあげてきた。

 あわてて便所に駆け込み、夜に食べた肉野菜をすべて吐いた。


 ごみ箱から拾ったワインオープナーを右手に持ち、母親を見下ろす。スクリューの先端と、母親の顔を交互に見つめていると、感情が爆発するようだった。

 

 —— もうどうでもいい。どうなったってかまうもんか!

 

 「 チコちゃん …… 」


 小さな声で我に返った。モモが引き戸を開けてこちらを見ていた。

 ワインオープナーを後ろ手に隠す。


 「もう寝よう」

 小声で言うとモモはうなずき、一緒に布団に寝そべった。

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