第3話

放課の時間。

知子は他の生徒と下校時間が被らないように校舎から出た。校庭を横切り、北側の校門を出た後、通りを右に折れて黙々と歩く。

 昼の暑さが薄い青空に吸い込まれ和らいでゆく時刻。

 一直線に伸びた道路は見通しがよく、クラスメイトを追い越さないように、また追いつかれないように、前後に警戒しながら歩く。

  百メートルほど過ぎると道幅はせまくなった。アスファルトの横断歩道はひび割れ、消えかかっている。盛り上がった歩道には亀裂が入り、雑草が出てこようとしている。

 数十メートルおきにある電信柱には、交通安全を訴えた木製の看板が針金でぶら下げられ、根本にはゴミ袋や酒瓶が散乱していた。

 民家のへいの前に置かれたごみ袋にカラスが群がり、果物の皮、魚の骨、ビニール片、ちり紙などを歩道までまき散らしてる。そばを通ってもカラスはゴミ袋に首を突っこんだまま飛び去る様子もない。


 人口五千人程度の釜辺町かまのべちょうは南北に伸びた形状をしている。特別な産業はなく、何も生まず、何も変わらない小さな町。無職の住人が多く、住み良い町にしようといった住民意識は低い。上昇志向のある者は早々に町を出ていく。残った住人は地元民ばかりだが、底辺を彷徨さまよう一種の心地よさのようなものに取りつかれ、釜辺かまのべの色に染まっていく。


 隣町の戸寄町とよりちょうには巨大なごみ処理所があり、『資源循環センター』などと洗練された名称で呼ばれていた。近隣の市から毎日ゴミ収集車がやってくるので、釜辺町からも見える煙突からは、白い燃焼ガスが絶えず排出されている。

 釜辺町には不法投棄場が数ヵ所あり、戸寄町よりも格安でごみを処理できるという噂が流布していた。町の北端にある治黒山じぐろざんのふもとには、町最大の投棄場(通称ジグロ)があり、小学校の校庭ほどの窪地に、ありとあらゆるごみが投棄されていた。周辺には街路灯もなく、夜な夜な地元のチンピラ連中が他所のごみを捨てにくる。

  町中に子供たちの遊び場所は少なかった。公園は不良中学生や独り身の老人に奪われ、多くの家庭内にも子供の居場所はなかった。


 商店街の交差点を通り過ぎ、1本先の川に突き当たる道を右折した。

 川と平行したコンクリートブロックの遊歩道は陰気な雰囲気で、夕刻の時間帯に歩く人は少ない。

 町内を流れる小さなかまがわは、黒く濁り悪臭を放ちながら停滞している。

 遊歩道から川に投げ捨てられた一斗缶や自動車のタイヤが、半分浸かった状態で何年も同じ場所に滞留している。川面には緑に変色した発砲スチロール、ペットボトルの大群が、行き場もなく漂っている。

 遊歩道沿いに並んだ鉄工所や看板工場からは、夕方になっても鉄板を打ったり、溶接を行うパチパチという音が響いてくる。


 途中にかかる橋の下に学生服姿の中学生たちがたむろして、タバコをやシンナーを吸っていた。橋を足早に渡り、遊歩道の途中を右に曲がり、再び西に向かって通りを何本か横切った。

 凸凹でこぼことした道路に面して、平屋住宅が並ぶ区画に着く。知子は用心深く周囲を見渡し、鍵を使って一番奥の平屋に入った。


 玄関を上がるとすぐにダイニングキッチンがある。通販で購入したテーブルや食器棚が狭い空間に詰め込まれ、鍋や皿は洗われないままシンクに放り込まれていた。

 キッチンの奥、くもりガラスの引き戸を開けるとリビングが現れる。くたびれたソファーとガラステーブル、TVボードの上には20インチの液晶テレビ。掃き出し窓にはサイズの足りていない、いちご模様のカーテンが吊られている。

 床には脱ぎ捨てられた衣類が散らかり、隅っこでモモが本を読んでいた。


「モモ」

 声をかけると、モモは背を向けて本に視線を集中した。

「ふんっ」—— 可愛くないやつ。


 時計を見ると六時十五分前。急いで洗濯袋を手にかけると、床に散らばった衣類を放り込んでいく。女性物のブラウスやストッキング、キャミソールやペラペラなジャージ。最近はそれに加えて、男性物のタンクトップやダボダボのジーパンなどが混ざるようになった。


「洗濯物があったら持っといで」

 モモは小さな靴下を一組だけ持ってきた。

「そのワンピースもいい加減に洗ったらどう?」

 モモは同じワンピースをり切れるくらい着続けている。


返事をしないモモを無視して、一番奥にある母親の寝室に入る。 酒とタバコの匂いが鼻にさす。

 灰皿からあふれたメンソールの吸いさしが、サイドテーブルや絨毯の上に落ちている。ビールの空き缶がテーブルや床に何本も転がり、飲みかけのワインボトルが倒れて絨毯に染みを作っている。

 知子は部屋の中央に立ち、何から手を付けるかを逡巡した。

 脱ぎ捨てられたブラジャーや寝巻き、裏返った靴下などを急いでかき集める。パイプベットの掛け布団をめくると、赤いレースのパンティと丸めたティッシュのかたまりが出てきた。下着を洗濯袋に投げ入れる。


 家中の洗濯物を集め終わると、今度はごみ袋を引きずり、ごみを投げ入れていく。メイクを拭いたウェットテッシュ、チューハイの空き缶、汚れたタオル、請求書、空のマニキュアボトル、お菓子の袋 —— なぜごみ箱に捨てられない?

 キッチンのごみ箱の中に固いものが入っていた。拾い上げるとワインオープナーだった。ひとまずズボンの後ろポケットに突っこむ。


 満杯になったごみ袋を外にある共同ごみ置き場に投げ入れた。

 空は夕焼けだった。同じ造りの平屋住宅が並んだ区画には、まだ明かりの灯った家はなく、これから夜が静かに始まる。

 再び家に戻り、すばやく掃除を済ませた。知子は大人よりも手際がよかった。


 七時五分前。—— 急がなければ。食器棚の引き出しから千円札を抜き取り、洗濯袋を抱えると家から飛び出した。

 釜ノ川とは反対の方角に歩き、銭湯のとなりにあるコインランドリーに入る。店内に誰もいないことを確認すると、渦巻き洗濯機に洗剤と洗濯物を入れ、二百円を投入し『スタート』を押した。


 さらに南へ10分ほど歩くと、地元スーパー『モンタン』に着いた。

 入り口のファサード看板に群がる羽虫を払いながら、店内に入る。陳列棚が3列の小規模な売り場。少ない蛍光灯のせいで、店内は薄暗く閑散としている。車を持っている人は隣町の『TOYORIショッピングセンター』で買い物をするので、モンタン来るのは年寄りばかりだった。


 知子は買い物かごを抱え店内を素早く回った。

 キャベツ、モヤシ、豚肉、枝豆。品定めもせずかごに投げ入れる。特売の食パンとパック米も投げ入れる。3個パックの酒饅頭を手に持ってレジに並んだ。300円は大きな出費だったが気にしなかった。レジ袋を下げてスーパーと出ると日が暮れていた。

 夜なのにじめじめと蒸し暑く、肌はじっとりと汗ばんでいる。この先、南に伸びる1本道には、数軒の民家が見えるだけで人の気配がない。


 —— このまま消えてしまおうか。

 いつか釜辺町を後にして、知らない土地で生活をはじめるのが夢だった。そのために貯めていたわずかなお金が、母親に見つかり没収された。最近になって妹までが降りかかってきた。

 夢が逃げていってしまいそうで、自分はこのまま狂ってしまうのだと思った。早く狂ってしまえばいいのにと思ったが、なかなか狂えない。知子にとって世間は冷たく容赦のないものだった。


 洗濯袋を抱えて家に戻ると食事の支度にとりかかった。

 豚バラ肉を適当に切り、キャベツを一口大にちぎるとフライパンに油をひき、肉とキャベツを同時に炒める。途中でモヤシと枝豆を加え、塩とテーブルコショウをふりかける。

 菜箸さいばしで炒めながら肉やキャベツを次々と口に放り込んだ。半焼けと焼け焦げが口の中でごたまぜとなったが気にしなかった。料理を作りながら同時に食事も済ませるのが習慣になっていた。

 肉野菜炒めが出来上がるとパック米を電子レンジに放り込む。以前は炊飯器で米を炊いていたが、母親から「お前の炊いた米よりもパック米の方がうまい」と言われてからは炊かなくなった。今日はお金が足りなかったので、自分のパック米はない。


「モモ、ごはんだよ」

 ガラス戸で仕切られたリビングに声をかけると、うつむいたモモが出てきた。

 テーブルに肉野菜炒めとパックのごはんを置いてやると無言で食べ始める。こちらを見ようともせず、ごはんを口に放り込んでいく。


 —— 姉妹になって2ヵ月。2人の距離は1ミリも縮まっていない。


 モモの膝に本が乗っていたので素早く取り上げる。

「あっ!」

 短く声を上げたが、それ以上の反応はない。

 モモの顔を覗き込みながら本を開いた。

「おやゆび姫? これあんたの本?」

「 …… 」

「図書室から盗んだんでしょ?」

 本の背表紙に『釜辺小学校』の管理シールが貼ってある。

「モモの本だもん!」

 知子はそれ以上追及するのをやめて本を返した。

「はやく食べ終わりな」

 モモは本を膝に抱えると、急いでご飯をかきこんだ。


 食後、洗濯袋の中身をリビングの床にぶちまけた。

「あんたも手伝いなよ」

 隅で本を読んでいるモモの方に、洗濯物のかたまりを放り投げた。男性物のパンツやジャージが近くに落ちたが、モモは本から目を上げようとしなかった。


〝 はぁー 〟

 溜息をついて立ち上がった知子は、彼女の正面に立った。

「少しは役に立ってよ!」

 握り拳で頭頂部をゴツンと叩いた。

〝くっ〟という音が漏れた。

「この家では私が絶対なの! あんたは黙って言うことを聞くの! わかった?」

 顔を近づけて睨みつける。

 唇をへの字に曲げて耐えていた、モモの目から涙がこぼれた。

 やがて泣きながら洗濯物をたたみ始めた。

 人を殴った不快感が手に残ったが、それよりも人を従わせた満足感が上回った。


 9時半。疲れていたが知子は宿題に取り掛かった。

 6年生になってからは国語、漢字、英語と、宿題が増えたが、算数以外はすべて無視した。算数だけは遅れまいとして、隙間の時間でも勉強した。


 夜10時を過ぎても母親は戻らなかった。仕事が長引いているのか、夜遊びをしているのか —— どっちにしてもロクなことにはならない。


「先に寝てよっか?」

 リビングの床に布団を敷きながら声をかける。モモは体操服に着替えると、布団に寝そべった。知子は食器類を洗った後、寝巻に着替えてモモの横に寝ころんだ。

 以前は自分一人の布団だったが、モモが割り込んできたのでせまくて寝苦しい。子供の側は何て暑苦しいんだろうと思ったが、目を閉じると疲れで急に眠くなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る