第2話

 授業中の廊下は、くぐもった教師の声が遠くから聞こえるだけで静まっていた。

 鼻をつまみながら一人で保健室へと向かう。

 階段を降り切ったところで算数の南部なんぶ竹彦たけひこ先生に出くわした。


「—— 知子ちゃん、どうしたの?」

 竹彦先生は様子を見るなり心配そうに声を掛けてきた。


「大丈夫です。なんでもありません」

 恥ずかしくて顔をそむける。


「ちょっと顔を上げてごらん」

 覗き込んできた先生はハンカチを取り出すと、優しく鼻に押し当ててきた。


「鼻血が止まらない時は上を向いたほうがいいよ」

 右手を首の後ろに添わせ、顔をぐいっと天井に向けられる。流れ出た血はハンカチをまだらに染めた。


 —— 先生のハンカチはアイロンの香りがするのだろうか?

 じんじんと痛む鼻は、香りなど感じるはずはなかったが、そんなことを考えた。


 「この姿勢で保健室まで歩ける?」

 先生はハンカチを押さえたまま、保健室まで付き添ってくれるようだ。


 —— 知子は学校が嫌いだった。担任が嫌いだった。男子生徒も女子生徒も、何もかもが嫌いだった。竹彦先生だけが好きだった。いつも灰色のスラックスをはいた先生を「イモい」と笑う生徒も多かったが、知子は好きだった。やせ気味でひ弱そうなところも好きだった。


 保健室の前まで来ると、ドアをノックしながら先生が顔を近づけてきた。

 「相談があればいつでも聞くから遠慮しないで。担任にも内緒にするから」

 先生の方に振り返ろうとした時、保健室の中から女性の声が響いた。

 「どうぞ・・・」


             *


 養護教諭の長谷川はせがわ先生は、知子を見ると少しの間、思案する素振りを見せたがすぐに言った。

「またあんた? …… よく転ぶわね」


 やれやれといった態度でノートとボールペンを押し付けてきた。いつものように名前、クラス、怪我けがの様子、原因を自分でノートに書き込んだ。


「そこの棚にティシュ箱があるでしょ。何枚か抜いて使いなさい」

 ノートを受け取りながら網棚の方を指さした。

 長谷川先生はカウンセラーではない。生徒の怪我や病気の救急処置は行うが、不登校や生徒のいじめに関わる気はなかった。


「鼻をつまんで、しばらく下を向いてなさい」

 ベット脇にある椅子に腰を下ろし、鼻を押さえながら知子は上を向いた。鼻血が咽頭いんとうを伝い落ちて気持ち悪かった。


 ベニヤ板の天井にできた雨染みを見つめながら、先ほど竹彦先生が言った言葉を思い返した。

 —— 自分の身に起きていることを話してしまおうか?

 先生なら真面目に受け止めてくれるだろう。しかし …… 。思いとどまらせる理由があった。竹彦先生は同じクラスの美穂の父親だったからである。いじめの主犯格が自分の娘だと知ったら、先生はどんなに悲しむだろうか?


 先生は時々、家族の話をした。美穂と下の妹、妻の四人暮らし。

 『ダイニングがせまくてね。四人がテーブルに着くと食事が終わるまで通れないんだ』

 『冷蔵庫は半分しか開けられないから、必要なものは手さぐりで取るんだよ』

 冗談なのか判断のつかない内容だったが、知子は話を聞く時間が好きだった。先生の話す南部家は仲睦なかむつましい。こういうのを家族団らんというのだろうか? 

 ただ一つの違和感 ——

 美穂と竹彦先生が仲良く食卓を囲む風景がどうしても思い描けない。2人が学校で話をしている姿も見たことがない。

 一度だけ美穂のことを尋ねたことがあった。

「甘やかしたからね。わがままに育ってしまったんだ。僕の責任だけどね …… 」

 寂しそうに地面を見つめた先生に知子は、「先生が悪いことなんて万に一つもない。悪いのはぜんぶ美穂あいつなんです」と言ってやりたかった。


「あのねー、下を向けって言ったでしょう。馬鹿なの?」

 突然、声をかけられて我に返った。怪訝な顔で長谷川先生が睨んでいた。

 鼻血は三十分程で止まったが、教室に戻りたくなかったので、痛いフリをした。

「ったく、マヌケが!」

 今度はうつむいた姿勢で床のビニールタイルを見つめた。安っぽい木目は、家のキッチンの床と同じように見えた。

 妹のことがクラスに知られたからには、しばらくは嫌がらせが続くだろう。


 —— 知子は2ヵ月前の出来事を思い返した。

 何の前触れもなく母親が再婚した。相手の男には7才になる娘がいた。ある日突然、せまい借家に男と娘が転がり込んできた。そして自分の寝床を奪われた。

 これら一連の出来事が経過する間、母親と交わした会話は合わせて5分にも満たなかった。

 思い出すと返すと怒りが蜃気楼のように立ちのぼってきたが、ちょうど終鈴のチャイムが鳴った。


 仕方なく保健室を後にした。

 休み時間は教室に留まらない。クラスメイトを避けるにはそれが最善だ。

 知子は低学年の教室が並ぶ廊下をあてもなく歩くことが多かった。ひと気のないトイレにこもってやり過ごすこともある。

 校内をあてもなく彷徨さまよい、授業が始まる直前に教室のドアをくぐった。

 クラスメイトがクモの子を散らすように自分の机から離れた。

 —— 自分の席に誰かが座っている?


 「モモ!」

 声をかけると小さな体がビクリと反応し振り向いた。

 涙でぐしゃぐしゃの顔は、助けを求める必死さがにじんでいる。


 「チコちゃん …… 」 聞き取れないほどの弱い声。

 6年生に取り囲まれた小さな体は、今にも崩れてしまいそうだった。


 「ここで何してるの?」 責め立てるような口調になってしまう。

 モモは一瞬、驚いたような表情を見せたが、すぐに下を向いて黙ってしまった。


 「あんたの教室は3年3組でしょ!」

 モモはうつむいて座ったまま、動く様子がない。 


 「きゃははっ、おねぇちゃんこわぁーい」

 愉子が大げさに叫んだ。


 あせた紅色のワンピースのすそをつかみモモは震えている。

 —— 今日、何度目の怒りだろう? わたしは何に怒っているのだろう?


 その時、予鈴のチャイムが鳴った。

 「はやくどいて!」

 乱暴にモモの手をつかみ立たせると、教室の前扉まで引っ張って行った。無言で廊下に突き飛ばし、扉を閉めてきびすを返した。

 背中を押されたモモは一度転んだが、直ぐに起き上がると廊下の先に向かって、とぼとぼと歩き出した。


 —— 妹のことはどこから知れたんだろうか? 母親は学校とは接点がない。だとすれば義父から? 義父のことはほとんど何も知らなかった。


 廊下を歩いてきた玉本先生は、すれ違うモモを一瞬睨みつけたが、直ぐに視線を前方に戻した。

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