釜底少女
塩木 らんまい
第1話
月曜日 朝
「
朝の教室に勢いよく飛び込んできた
登校を終えたばかりの、汗ばんだ生徒たち全員に聞こえる甲高い声だった。
廊下に近い席に座っていた知子は、思わず体を固くする。
築六十年、
「なにそれ。意味わかんないんだけど?」
ブルーのカラコンをつけた
6年2組はここ最近、変化に乏しく、みんなも退屈しきっていた。
同類の
「ちゃおっす!」—— 2人は手を合わせると、知子の席へとやってきた。
知子の目の前に立った美穂のTシャツ —— プリントされた金色のブランドロゴが、うきうきしたように上下に動く。
朝の会が始まるまでの退屈な時間。クラスメイトたちは、何か面白いことが起こるのではと期待した。
「あんたのママってさぁー、フーゾクじゃん」
美穂は手にした携帯をいじりながら、底意地の悪い目を向けてくる。
「きゃははっ ウケるw、フーゾク男とデキ婚?」
知子の顔を覗き込む、愉子の顔に笑みが広がる。
—— どこから漏れたのだろうか? いやなことが起こりそうな予感。
知子はこの場から離れようとして立ち上がった。
「逃げてんじゃねーよ、くそチンコがッ!」
突然、背後から両肩をつかまれ、力づくで椅子に押し戻された。
背中越しにクセの強い香水のにおい。オールバックの髪、耳たぶにスナップピアスを着けた
栄太のごつい指に、
心臓が早鐘のように打ち、目の奥がじわじわと熱くなってくる。
「質問には秒で返すこと!」
ショートパンツ姿の美穂が、むき出しのひざ小僧を知子の脇腹に押し付ける。
「どうして妹ができたの? 答えろよ、くそ知子、く・そ・チ・ン・コ」
美穂は派手な服装と残酷な性格で、いじめっ子グループの上位カーストに君臨している。何年も前から執拗に嫌がらせをしてくる。
—— なぜ 私にばっかり ?
知子は怯えて泣き出しそうな自分を無表情でガードし、美穂を睨み返した。
10秒ほど沈黙が続く。
「まじムカつく! お仕置き決定!」
美穂は窓際の男子生徒を手招きした。
「さっとん、こいつガチ有罪」
体重百キロ、脂肪でぱんぱんに膨らんだお仕置き人、
彼の周囲は気温が2、3度高いのではと感じるくらい、いつも全身が火照っている。
「ふぅ~、またやるの? …… 」
体格に似合わない高い声で聡が言った。
「しょうがなくねェ? …… お仕置きだもんねェ …… やるっきゃないっしょ 」
教室のあちこちから冷やかしが飛んでくる。—— いつものパターン。
「しょうがないなぁ~」
汗で濡れた前髪を手で払いながら、上から知子を覗きこんでくる。
彼の分厚い脂肪の谷間にある瞳は、のっぺりとしてどす黒い。
知子はショートヘアをつかまれ、背もたれの後ろに引っ張っぱられた。
「ふっッ!」
短いうめき声が漏れ、知子はあごを天井に向けてのけ反った。
頭皮を針で刺したような痛みに、目を固く閉じて顔をしかめる。
ぶよぶよとした手のひらが、知子の胸を揉みしだいた。
「痛い!」
一瞬で怒りが頭のてっぺんまで突き抜けた。
両手で聡の手を押し返したが、2倍はありそうな彼の腕は動かせそうにない。
「おおーっ、負けんなよ! さっとん」
思わぬ展開に興奮したクラスメイトが集まり、野次が飛ぶ。
膨らみはじめたばかりの知子の胸は、体が揺れただけでも痛んだので、手荒な扱いは激痛だった。
額から汗を流した聡が〝 はぁはぁ~ 〟と湿った息をかけてくる。
目を閉じ歯を食いしばっていたが、不快感に耐えきれず思わず呻き声を漏らした。
「やらしい~この子。ほんとは感じてんじゃねェ?」
興奮した美穂は、知子の閉じたまぶたを親指と人差し指で無理やりこじ開けると、震える眼球に
「やめぇぇぇッッッ!」
知子は両手で机を押さえ、左足のかかとで、当てずっぽうに床を踏み鳴らした。何度目かでゴムを踏みつけるような感触 —— 聡のつま先を踏みつぶした。
自分を押さえつけていた腕が緩む。聡は小さく
知子は素早く椅子からすり抜け、教室の後方に向かって走り出す。
突然、体がつんのめり、地面が急激に迫ってくるのを感じた。
〝 ごちっ 〟
手で受け身を取ろうとしたが、傷だらけの床面に顔面を打ちつけた。
教室内が一瞬、しんと静まり返る。
「だせェ~」
美穂がうつ伏せの知子を指さすと、多くの生徒がどっと笑った。
鼻スジがじんじんと痛み、ぬるい液体が鼻腔からあふれ出すのを感じて、あわてて手を添える。あふれた鼻血は知子のTシャツやパンツにたくさんの斑点を作り、ヘリンボーンの床材にも、ぽたぽたとこぼれ落ちた。
「チコちゃん汚ない。ちゃんと拭いてね」
近くにいた女子生徒が小さな声でつぶやき、まわりの女子がクスクスと笑った。
知子は声の主を睨みつける。クラスでも目立たない女子グループだ。
「いぇーぃ!」
美穂からハイタッチを求められた声の主は、照れた様子で応じる。
「きゃははっ、やるじゃん、こひつじ女子」
愉子からおだてられ、照れ笑をする女子グループたち。
—— もうダメ!
知子はこらえきれず涙があふれてくるのを察した。
ちょうどその時、予鈴のチャイムが鳴り、担任の
群れていた生徒たちは残念そうに席に戻った。知子は血をたらしながら慌てて席に戻ろうとした。
血を見た玉本先生は額に手を当てると「はぁぁ~」とため息をついた。
「
6年2組の担任になってから、知子の惨状を幾度も目にした玉本先生はうんざりした様子で聞いた。
「ひとりで勝手に転んだんだよ」
美穂がスラスラと言う。
「きゃははっ、ウケるw」
愉子がはやし立てると笑い声が起こり教室が騒がしくなる。
「静かに! 朝から問題ばっかり起こさないでちょうだい。先生はね、ストレスが1番きらいなのよ!」
右手の爪で左手の甲をかきむしりながら、キンキン響く声でどなった。
「先生、知子が床を汚しました~」
美穂が面白半分に反論する。
「汚いんで触りたくないですぅ」
「ばい菌に触るのは私もやですぅ」
他の生徒も話に加わってくる。
「先生、本人に掃除するよう指導してね~」
「ぎゃはははははっ!」教室内で笑いが大きく膨らんだ。
玉本先生は左手の甲を無意識に掻きむしった。ミミズ腫れのような皮膚炎症を起こしていたが、止められない。教師生活二十二年、独身ベテラン主任の玉本先生は、真剣な面持ちで知子の方に向いた。
「神崎さん、汚した床は後で拭いてきれいにすること。謹厳実直! 保健室に行きたいなら今すぐ行きなさい。迅速果断! これ以上、私の授業を妨害することは許しませんからね!」
一息で言い終わると、口をすぼめて細長い息を吐いた。
知子は席を立ち、1人で教室を出ていった。涙は流れなかった。
授業に入ってからも玉本先生は生徒に聞こえない声で、先ほどのセリフを何度もつぶやきながら、左手の甲をかきむしっていた。
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