第6話
ここは、東海道五十三次の藤澤である。
ここの遊行寺で僧侶をしている開口僧侶は、うだつが上がらない僧侶だった。仏門で、立身出世を測ろうとして、ここの藤澤へやってきた。
元々、伊豆の国では、農家の息子だった。
しかし、開口は、頭が良くても、力仕事は出来ず、親兄弟から苛められていた。
そして、到頭、15の春に、伊豆から相模国の藤澤へやってきた。
時々、開口は、町の子供に、手習いを教える。
ーいろはにほへと
と言って文字を教えたり
ー算数
と言っては、足し算引き算を教えていた。
ただ、寺小屋で、読み書き算盤を教えても、例えば、遊行寺までやって来て、お経を読む子供なんておらず、彼ら彼女らは、そのまま、街へ出て、職人になり、お酒を飲み、色恋に耽る。
そして、開口は、生徒たちに
「先生も、たまには、お酒を飲んだらどうかね」
とか「先生も、あそこの娘と遊んだらどうか」
と言われていた。
遊行寺でも、出世は出来ない上に、「開口は、開口一番駄目な坊主じゃ」と言われて、僧侶の先輩から相手にされない。
開口は、「こんな遊行寺のような立派な寺へ来て、どうして、こんな低次元な人間ばかりか」と思っていた。寺では、相手にされないし、また、街の寺小屋の生徒たちは、「遊べ」と言う。
この間は、「在家信者で良いから嫁をもらえ」なんて故郷の親から手紙があった。その親も文盲で字を書くことができない。
開口は、腹が立った。
そこのお地蔵さんを、グーで殴った。
殴った瞬間、ピカッと光が出て、空がゴロゴロなった。
そして、雲から、神様が出てきて、開口僧侶は、上に上がった。開口は、「罰が当たったのか」ともう、自分は、死ぬのかと思った。
気がついたら、何か、石造りの建物の中にいる。
見慣れぬ着物を着た「若者」らしきところにいる。
「開口先生」
「ん…?」
と思った。
「開口先生、チャイムが鳴りましたよ。もう、授業が終わりじゃん」
と言った。
開口僧侶は何を言っているのか、理解が出来なかなった。ただ、「先生」と言われて、「偉い人物」になっていると思った。
見たら
「東海道中膝栗毛」
なんて手にしている。
いや、『東海道中膝栗毛』ならば、十返舎一九と言って、自分も読んだことがあったが、これは、「低次元」な話だった。
「そなた」
「は、先生?」
「そなたじゃ」
目の前の茶髪の女子学生に言った。
その後、失笑もしていたかのようにも思った。
「先生、おかしくなったの?」
「何がじゃ?」
「だって、そなた、なんて時代劇みたいなことを言って」
開口僧侶は、「じだいげき」となっている。
しかし、目の前の女子学生は、「時代劇」と言っている。
「じだいげきって、何じゃ?」
不思議な顔を、女子学生はしている。
「時代劇って、お侍さんが、チャンバラをするんですよ」
チャンバラ?
「分からぬ」
「そして、こんな<東海道中膝栗毛>なんて下らない低次元の書物なんて読んで国元の親が泣くぞ」
「先生」
目の前の女子学生は、少し悲しそうな顔をした。
「何じゃ?」
そう言ってみたが、悲しそうな顔をしているこの女子学生は、やはり、自分を心配しているのだと、悟った。
「開口先生の専門ですよ」
「何が?」
「開口先生は、古典の先生ではないですか」
「は?」
「角川藤澤大学文学部国文学科の教授ですよ」
「かどかわふじさわだいがくぶんがくぶこくぶんがっか?」
全く理解が出来なかった。
ただ、開口僧侶は、復唱しているだけだった。
「そなた、名前は、何て言うのじゃ?」
「やだぁ。先生、そんな事を聞くの?」
「当たり前じゃ」
「吉岡たえ子と言います」
「よしおかたえこ…か」
「はい」
ただ、開口僧侶は、ここで「先生」と呼ばれている辺り、どうも、高等な場所と思ったのだが、自分は、どうも幼稚な世界にいるように感じた。
たえ子は、そもそも、最初は目つきが険しいと思ったが、そうではない。
「先生」
そう、先生と呼ばれるのには、慣れた。
だが、自分は、どうもちぐはぐな場所にいるとさっきから思っている。
「先生、一緒に歩きませんか?」
そして、何やら、自分は、ちぐはぐな格好をして、しかし、よく見たら、美人だと言えるたえ子と二人で歩いている。
「そうだ」
「はい」
「先生、疲れていそうだから、ジュースを飲みませんか?」
とたえ子は、開口僧侶に言った。
そして、たえ子は、カバンから、ペットボトルのオレンジジュースを取り出した。「いや、何かね、これは?」
「オレンジジュースですよ」
「実は、私、前から、先生が、好きだったんです」
いや、困った。仏門では、色恋は駄目だが、ここは、浮世ではない。
「オレンジジュースって、何だ?」
「いやだぁ~、先生、そんなのも分からない?」
「うん」
「オレンジって、ミカンですよ」
「蜜柑かね」
「そう、ミカン」
「分かった」
「これ、私の飲みさしですけど、どうぞ」
たえ子は、飲みさしのオレンジジュースを、差し出した。間接キスだ。そして、ぐっと飲みこんだ瞬間に
ー痛い
と思って、誰かとぶつかった。八百屋の店先だった。
「ごめんなさい」
と言った着物姿の娘がいた。さっきまで、たえ子に似た女性が、ミカンを籠に運んでいる。
「そなた」
「はい」
「そちらのミカン」
「はい」
「一箱くれんかね?」
「お宅が買うのは珍しいね、開口さん。いつも堅物なのに」
「そなた、名前は?」
「たえ、と申します」
それ以来、開口は、たえの蜜柑を買ったらしい。
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