第7話 能と狂言

 日本芸能の舞台に、

「能と狂言」

 というものがある。

 能というと、

「舞台が組まれていて、そこで、一つのストーリーが展開される中で、能面と呼ばれるものをかぶった役者が踊りでストーリーが展開される」

 面をかぶっていることから、喜怒哀楽などの表情は、ストリー展開からは分からない。

 能面というと、その言葉を聞いて今の人は、

「ポーカーフェイス」

 などと呼ばれるであろう。

 そんな無表情ではあるが、能面にも種類があり、まるで、

「鬼の形相」

 のようなものもあれば、女性のような、本当に感情がないかのような表情を表している面もあるのだった。

 能に近いものとして歌舞伎があるが、歌舞伎というものは、

「能が、室町時代に普及したものに対し、歌舞伎は、その能を元に作られた大衆演劇だ」

 と言われている。

 そして、能は面をつけるのが基本だが、歌舞伎では面をつけることなく、顔に隈取などの化粧を行い、演じるものだというところが大きく違っているだろう。

 そして、能はゆっくりとした動きで静を感じさせるが、歌舞伎はダイナミックな動きで、動を感じさせるものなのである。

 この事件に限らずであるが、何かの犯罪の裏に蠢いているものを考えた時、まるで能面のような気味悪さを感じることが、往々にしてあったりする。

 テレビドラマのサスペンスなどでは、殺人を犯す場面で、犯人が、誰かに見られても顔が分からないように、能面をかぶって殺人を行うことがあったりする。

 これは顔が分からないのは、当然であるが、表情も分からない。殺される方は相手が能面をつけてきていると、

「このまま、殺されるのではないか?」

 と、目の前の人との間に、怨恨関係が存在したとすれば、そこに生まれる恐怖は計り知れないものはある。

 殺害する方としても、それが狙いだったりすると、能面というものを着用することは、復讐を彩るには、大きな力が働くことになるであろう。

 さらに、これは松島刑事の個人的な考えであるが、

「能面をつけていると、犯人に勇気と冷静さがよみがえってくるのではないか?」

 と考えていた。

 いくら恨みがあるとはいえ、人を殺すというのは、本当の本当に最後の手段なのだろう。何をどうやっても、自分の保身や、誰かの復讐のために人殺しを行わなければならないということになったとしても、その勇気を持つまでには、

「自分が殺人から逃れられない」

 と思った時以上に、さらに次の段階である勇気を持つまでには、時間が掛かるということである。

 さらに、殺人の勇気を持つことができたとしても、それは、自分の気持ちを最高潮にまで高めることで達成できたものであることから、どうしても、精神的に高揚していて、冷静になれていないことが多いだろう。

 ただ相手を殺すだけであっても、冷静さを欠くということは、致命的だったりする。

 相手だって、殺されるとなれば、必死になるはずだ。こちらと同じように精神的に高ぶってしまっていれば、成功するものも成功しない可能性がある。特に目の前でナイフでの刺殺などであれば、格闘が想像できるからだ。

 しかし、冷静ささえ取り戻せば、動きながらでも、どうすれば、確実に相手を殺せるかだけを考えることができるから、殺害の可能性は高くなる。

 相手は、殺されるとなると、

「なんとしてでも助かりたい」

 ということだけを考えるであろう。

 そんな時に、邪念などが入っていれば、成功の確率は冷静にみれば低いに違いない。

 だが、実際には、冷静さを欠いていたとしても、目的は分かっている。そして、

「なぜ相手を殺そうと思ったのか?」

 という、保身にしても、復讐にしてもそのことが分かっていれば、成功する可能性は高いだろう。

 では、相手を殺そうとして、結局相手を殺すことができなかった確率はどれくらいあるのだろう?

 もちろん、いくつかのパターンがあるだろう。

 実際に殺害するつもりで行って、相手に襲い掛かったとして、逆に殺されたり、犯人が傷つけられたパターン。この場合は、もし、殺された時、犯人とすれば、

「相手が自分を殺そうとして、相手を殺してしまった」

 というわけだから、ある意味、正当防衛を主張するだろうが、その時は怖くなって逃げだすに違いない。

 その場で警察に通報し、自首すれば、無罪にはならなくとも、情状酌量が大きかったり、本当に正当防衛が認められる場合があるだろうが、逃げてしまうとそうもいかない。捕まって、裁判になると、正当防衛や情状酌量がどこまで裁判官が考えてくれるかということになるだろう。何しろ、自分を殺そうとしたとはいえ、相手が死んでいるのだからである。

 では、もう一つのパターンとして、自分が相手を傷つけるだけで、殺害にまで至らなあった場合である。

 その時は、

「相手を傷つけるところで終わったとしても、自分の恨みはこれで消える」

 と思うのか、

「相手が死んでもらわなければ意味がない」

 ということで、再度殺害計画を練るのか?

 あるいは、死んでもらわないと困ると思っても、

「人を殺す勇気なんて、何度も持てるものではない」

 ということで、人によっては、自殺を考えるだろう。

 たぶん、相手を殺すことが一番の方法であり、それが敵わないなら、

「自殺をするしかない」

 と思ったに違いないからだ。

 さて、もう一つは、本当に殺害に成功した場合である。

 殺害に成功したとしても、犯人はその後のことまで考えていただろうか?

「とにかく、相手を殺すこと。それに成功しなければ、その先はない」

 と思い、とにかく殺害することだけを考えていたとすれば、その目的が達成されれば、その後はどう考えるであろうか?

 もちろん、殺人に共犯者がいれば、共犯者の手前、絶対に捕まわらない方法を考えることになるか、あるいは、犯人が実はしたたかな性格だった亜場合、さらに保身を考えると、

「殺人が成功した暁には、共犯者というのは、邪魔者でしかない」

 と考えたとすれば、口封じのために、殺してしまうことも考えられなくもない。

 小説やドラマなどでは、共犯者が邪魔者として殺されることも、少なくないような気がするのだ。

 ただ、能面をかぶってしまうと、犯人の心の中で、

「自分であって、自分ではない」

 という気持ちになるのではないだろうか?

 どんなに冷静な犯人であっても、能面をかぶった相手にはかなわないと思うのではないだろうか?

 ある意味、犯人の中には、

「殺害を犯している時の自分は、本当の自分ではない」

 と思っている人や、逆に、

「殺人を犯している時の自分こそ、本当の自分だ」

 とまったく逆のことを考えているかも知れない。

 前者の方は、

「能面をつけることで、自分という人物を隠し、能面の力を借りて、殺人をしている。だから、能面をつけているのは、本当の自分ではない」

 という思いから、殺害への勇気を持つのであり、逆に後者の場合は、

「能面をつけることで、自分の奥にある、本当の自分を、本性として出してくることで、目的が何であるかという気持ちから、勇気が醸し出される。すべてにおいて、能面は、自分の潜在能力を引き出すには十分な道具なのだ」

 と考えるのだろう。

 まったく正反対の考えではあるが、その気持ちがいかに犯行を成し遂げるために大切なことかということを思えば、能面をつけるということは、

「勇気百倍になる」

 といってもいいだろう。

 能面をつけることは、自分を隠すためではなく、

「覚醒させるためだ」

 と考えただけで、勇気が出てくるだろう。

 松島刑事は、今度の事件を、こんな、

「能面をつけた犯人が、殺人を行っている」

 という思いを抱いていた。

 もちろん、勝手な思い込みでしかないのだが、能面というのは、

「気持ちを覆い隠す」

 という意味で、殺人を行っているのは自分ではないと思うこと。

 あるいは、

「覚醒させる」

 という意味で、本当の自分を引き出すという気持ちであるとしても、殺人というものが、どんなにその人にとって必要だとしても、世の中では正当化されるものではない。

 特に、復讐というのは、法的には認められていない。江戸時代であれば、仇討は、認められれば決闘という形で、公式な果し合いが行われたが、今では公式には認められず、あくまでも、私恨による殺害は、殺人罪でしかない。

 情状酌量があるかないか。それが裁判の争点ではあろうが、同情はされても、罪は罪なのだ。

 犯人だって、そんなことは分かっている。

「殺しても殺したりない」

 という気持ちになっているくせに、殺害には、どうしても二の足を踏む。

 それは、殺人ということが、悪であるということを意識するからなのか、それとも、人を殺すことで、自分も相手と同じ穴のムジナになってしまうということを考えるからなのか。

「復讐の連鎖は、終わらない」

 などと、よく言われたりする。

 自分は、例えば大切な人を殺されたことで、その復讐に、殺した人を殺めるとすれば、殺した相手にも家族がいたり、その人を大切の思う人がいるだろう。復讐を果たそうとする人間には、そんなことを考える余裕はない。

 実際に殺してしまうと、今度は自分が復讐の対象になってしまうことを考えたりはしないだろう。

 その考えが、なかなかうまく働かず、復讐の連鎖は収まることはない。こういうのを、

「負のスパイラル」

 というのではないだろうか?

 負のスパイラルというものを考えた時、絶対的に必要なものは何かであるが、

「それは力ではないか?」

 と考えるのであった。

 その力をいうのが、本当の腕力であったり、金銭的なものであったり、さらには、権力のような目には見えない相手を恫喝するものであったりするだろう。

 どれが一番強いのかは分からないが、少なくとも、人を殺すということになると、腕力だけではどうにもならないのではないかと思える。

 確実に相手を仕留めることが目的であれば、腕力だけでは物足りない。そうなると、共犯者を得たり、さらには、情報収集、自分の優位性を保ち、相手を追い詰める、などのいろいろな方法が考えられる。そのために、金銭的な力、権力などが必要になるということになるのだ。

 そんなことを考えると、

「殺人というのも、実に大変なことで、一世一代と言ってもいいだろう」

 と思うのだった。

 そういえば、戦前の探偵小説を読んだ中で、

「俺は、この復讐に人生を掛けているんだ」

 と言って、

「生まれた時から、復讐という運命を背負っている」

 などと言って、自分の親の仇を取ろうとしている事件が多くあった。

 しかも、その復讐の相手というのが、実際に手を下した相手ではなく、その息子や息子だったりする。

 親がまさか、稀代の殺人犯だったなどということをまったく知らない、子供たちである。

 本来であれば、

「どうして、親の恨みを自分たちが受けないといけないのか?」

 という理不尽なことになるのかということは、今の時代で考えれば分からないことだが、当時であれば、それが当たり前のことだったのか、それとも、当時であっても、そんな理不尽なことは許されるべきことではなかったのか、何とも言えない問題である。

 だが、今から読むと、自分の知らない時代がどのようなものであったのかということを想像するという意味で、当時の小説を読むのは、実に興味深かったりする。

「今では絶対にありえない」

 というわけではないだろうが、なかなかないであろう。

 特に親の仇を打つなどという発想は、今の時代でどこかであるだろう?

 親どころか、自分が生きていくうえでそれだけで大変だからである。

 だが、逆に子供が殺された場合などは大いにあるかも知れない。

 特に最近では、理不尽な殺人も多かったりする。子供を標的にした猟奇殺人。

「死刑になりたいと思って」

 という、相手は誰でもよかったということで、通学路に車を突っ込ませたり、都会のど真ん中で、ナイフを振り回したりする犯罪が増えてきている。

 そんな時に被害にあった人の家族はどう思うだろう? それこそ、

「殺しても殺したりない相手」

 だと、犯人のことを恨み倒すに違いない。

 それを思うと、

「能面でもつけて、犯行を行わないと、俺自身が、ただの殺人鬼になってしまう」

 と考えてのことか、

「相手を殺すところを、あの世にいる子供(被害者)には見せたくない」

 という思いから能面をつけるのか。

 復讐を犯す人を想像する時、その時、どんな表情をしているのか、想像もつかないことで、その場面を思い浮かべると、どうしても、犯人が能面をつけている姿が思い浮かぶ。それは、目出し帽であったり、覆面のようなものではなく、あくまでも、能面なのである。

 人を殺すというのは、本当に本心からではあっても、実際のその場面では、

「本人ではない誰かの力が必ず働いているのだろう」

 と考える、松島刑事であった。

 能というものが、悲劇的で、文学性に富んでいることに対し、同じ猿楽から発展したものの中に、

「狂言」

 と呼ばれるものがある。

 狂言というと、喜劇的で、滑稽なイメージであるが、人間性に富んでいて、その内容は、朗らかなものもあれば、社会風刺のようなものもある。能と比較すると、

「能が、ゆっくりとした楽曲からの舞台であることに対して、狂言はある程度スピードを持つことで、滑稽さを引き立てる」

 というイメージもある。

 この時、能を思い浮かべた松島刑事は、同時に狂言というものも一緒に思い浮かべたというのは、ある意味ヒットであった。

 ひょっとすると、犯人もそれくらいまでは、思いつくだろうと思っていたかも知れないが、まさか、その思い付きを能楽から考えてくるとは思ってもいなかったかも知れない。

 松島刑事は、これを一種の閃きのようなものだと感じていたようだ。

 今回の事件において、事件を整理してみると、4つが絡み合っているように思えた。時系列に嵌っていないかも知れないが、列記してみよう。

 まずは、誘拐未遂事件があった。

「誘拐するぞ」

 と言って脅迫しておいて、あたかも誘拐したかのような芝居をしたうえで、実は、誘拐などされていなかった、というものである。

 これこそ、狂言誘拐に近いものがあった。

 ただ、狂言誘拐というのは、能楽から発展した能の対比語のような狂言とは意味が違っている。

「演目」

「つくりもの」

「台本」

 などと言った意味が狂言にはあり、つまり、

「つくりものの犯罪」

 要するに、

「でっちあげの犯罪」

 と言えるのが、狂言犯罪である。

 今回の誘拐事件も、狂言ではあるが、一般的な狂言誘拐とは少し違う。

 何が一般的なのかと言われると厳密には分からないが、テレビドラマなどであるのは、そこには必ず共犯者がいて、誘拐したことにするのだが、重要なことは、誘拐の計画者の中に、被害者が含まれているということだ。被害者が主犯であることも少なくはない。

 よく言われることとすれば、結婚したい相手がいて、駆け落ちをするのだが、先立つものがないということで、狂言誘拐をでっちあげ、お金をせしめるというやり方や、親に心配をかけることで、狂言と分かっても、

「子供が殺されることを思えば」

 ということで、泣く泣く結婚を許すという、そういう作戦を取る輩もいる。

 しかし、褒められたことではない。

 いくら、親に反対されているからと言って、誘拐をでっち上げ、まわりの人間に心配をかけ、自分たちの要求をのませようというのは、いくら親子でも、

「してはいけないこと」

 に違いない。

 ドラマなどでは、狂言誘拐だということで、ほのぼのと終わらせようとして意図もあるが、考えてみれば、とんでもないことである。

 いくら親でも、困らせてやろうなどという考えは、あまりにも自己中心的で、

「もし、親がショックで、心臓麻痺でも起こしてしまい、帰らぬ人になってしまったら、どうしよう」

 などと思いもしないのだろうか?

 少なくとも、何かの計画を立てる時は、最悪のことまで計算して計画を練ることが大切ではないだろうか。

 それを思うと、いくら、親子の間でも、

「やっていいことと、悪いことがある」

 という当然以前のモラルを、ドラマでは、肯定していることになるのだ。

 確かに、視聴者に子供や若者が多く、子供や若者をターゲットにしているドラマなので、視聴率稼ぎのためだと言えば理屈は通るが、そんなものを放送して、放送倫理に則っとっているといえるのだろうか?

 それを、狂言という言葉で使われたとするならば、狂言という言葉があまりにも気の毒ではないだろうか。

 モラルを犯してまで、ターゲットとなる年齢層の視聴率を稼ごうというのは、実にあさましいものと言えるのではないか?

 親の中には、放送局にクレームを入れるものもいるかも知れないが、それ以上に、親の方も、狂言誘拐の何が悪いのかということを理解できないほどなのかも知れない。

 親というものは、親になった時、自分が子供だった時のことを棚に上げて。子供を叱るので、

「自分が子供だった頃のことを忘れてしまったのではないか?」

 と感じるのではないだろうか?

 なのに、狂言誘拐などをテレビドラマとして見た時、不思議と自分が子供だった頃のことを思い出し、

「あの子の気持ち分かるわ」

 と思うのだろう。

 なぜなら、大体の大人が子供の頃には、一度くらいは、親のことを困らせてやろうと感じ、狂言誘拐くらい企んでみたことはあったに違いない。

 もちろん、実行はしなかっただろうが、その時のことが頭にあるから、そっちを先に思い出す。

 だが、親になって、子供が狂言誘拐を企んでいようがどうしようが、実際に行動に移らないのだから、まったく意識することもないのだ。

 だから、狂言誘拐は、親を懲らしめるという意味での計画としてはある意味成功するのかも知れない。

 さすがに子供にそんな企みをされることで、親としてはビビる方が先であろう。

「自分が子供の頃にはしなかったのに」

 と思うと、子供がよほどの覚悟を持ってしたことだと思いのか、あるいは、

「子供に比べて、自分がどれほど根性なしだったのか」

 ということを思い知らされることになる。

 そうなると、子供に逆らうのが怖くなる。何をされるか分からず、自分の生活が脅かされると思うからだ。

 親と言っても、結局は自分のことが中心だ。狂言誘拐をされて、それをいさめることができない親というのも、実に情けないものなのだろう。

 さて、狂言ということであれば、この事件の最初には、もう一つあったではないか。指紋が結びつけたとはいえ、どこでどのように結びついてくるか分からないこととして、

「自殺の名所による自殺事件」

 である。

 あの事件は、死体も当然上がらなかったことで、遺書はあったが、誰が誰に対してのものだったのかということも分からない。

 ただ、一つ考えられることとして、

「これも、狂言自殺なのではないか?」

 ということである。

 死体も上がらないのだから、自殺をしたとしても、誰なのか分からなければ、家族に確認することもできない。

 ただ、指紋は残っていた。もし自殺があったとすれば、

「どうせ死ぬんだから、指紋があってもなくても関係ない」

 ということになるのだろう。

 ただ、この自殺事件には、続編のような話があった。

「私の彼が飛び込んだかも知れない」

 という女性が現れたのだ。

 その男は、橋立という男で、彼女がいうには、自分に遺書が届いたという。そして、その遺書の文言が、崖の上にあった内容と同じものだったという。そして指紋も同じだったことから、遺書を書いて飛び込んだと思われる男が分かったのだ。

 ただ、彼女は実に不思議なことを言っていたという。

「私は、スナックで働いているホステスなんですけど。橋立さんとは、そんなに仲がいいというわけではないんです。私が一番最近、一緒にいるのは確かに橋立さんなんですが、肉体関係になっているとかそういうこともないんです。アフターや、同伴はよくしてくれますが、私にとっては、お得意の客というだけで、そこまでの人ではないんです。彼もそのことは分かっているはずなのに、どうして、私に遺書を送り付けてくるのか、冗談だと思っていたんです。だから、まったく意識をしていなかったんですが、この間の、工場での作業員が刺された事件があったでしょう? その被害者のことを、やけに嫌っていたんですよね」

 というではないか。

「じゃあ、橋立と、あの時の作業員とは、馴染みがあった?」

「というわけではないようで、表向きは普通だったんだけど、何かよく分からないけど、橋立さんはやたらと文句を言っていたんです。私はどんな人だか分からないけど、客が愚痴をこぼすのを聞くのも仕事ですからね」

 と彼女はいうのだった。

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