第10話 ドアをたたく「なみだ指」

 さて、なみだ指が、コツコツとドアを叩いていたと知ったホルツは、袋を壁にある、いびつな穴の中に戻そうとしました。すると、こんな夜中なのに、ドアの外に、誰かが来たらしく、足音に続いて、ひどく慌てた声が聞こえます。

「もし、宿の者。私のご主人さまが、昨日、この宿の小さな部屋に泊まられたが、あまり寝心地がよいので、すっかりと旅の疲れが出てしまい、持参したお金を忘れてしまった。私は、ご主人さまから、言いつけられて、お金を取りに来たのだ。早く開けてくれ」

 せっかくの眠りを邪魔にされ、使いの者の横柄な口のききかたに、宿の主人は、いささか、むっとしたようです。しかし、お金のことと聞いては、そのままには、しておけません。

 宿の扉を開ける音がして、足音が、聞こえます。

「昨日、泊まられた村のお金持ちのお使いの方でございますね。どうか、お静かにお願いします。お泊りの皆さんは、もう疲れて眠りこけていますので」

 宿の主人の言葉に、使いの者は、少し声をひそめました。

 一方、宿の主人は、使いの者が、さがしに来た部屋が、ホルツが使っているあの小さな部屋だと知って、少し心配になりました。なぜなら、そこでは、若い木ぐつ師が真面目に仕事をしていますが、その若者が、一緒に泊まった者から自分のお金を盗まれて困っていたからです。

 宿の主人は、自分のそんな考えを打ち消すかのように、いや、あれほど腕のいい仕事熱心の木ぐつ師が、悪いことをするはずがないと思い返しました。

「その部屋は、今、木ぐつ師が、使っていますが、正直者で、木ぐつつくりの名人です。お金は、すぐに見つかるでしょう」

と宿の主人が言う声が聞こえました。宿の主人の正直者という声が、ホルツの胸をうちます。

 ドアの外には、宿の主人と使いの者の足音が近づいてきます。二人が、ドアの前に立つ気配がしました。

 すると、ホルツは、戻そうとしていた袋を、未だできあがっていない大きな木ぐつの中に隠したのです。それは、大足ハンスの木ぐつでした。 

 ハンスの足に合う木ぐつには、大きな木が必要でしたが、そんな木は、なかなか手に入りません。そこで、無理に型を取った大きな木をくり抜こうとしましたが、硬い上に節があり、さすがのホルツも半端だと思うほどのできにしかなりませんでした。

 その木ぐつのくりぬいた穴に袋を入れ、削りくずをつめ、にかわを注いで、ひと目見ただけでは、わからないようにしたのです。

 それまで、ホルツに、そのことは秘密にしていてやるよと、約束しているように声をひそめていたコオロギが、うたいはじめました。

「それは悪いことだ。それは悪いことだ」

と、うたっているかのように、聞こえます。

 お月様は、何も知らないよというように、だいぶ西に傾いています。  こつこつとドアを叩く音がしました。なみだ指が叩く音ではありません。その音に驚いたのか、どうかはわかりませんが、コオロギは、うたうのをやめました。

「ホルツさん、お仕事中、悪いが、昨日泊まった客が、忘れ物をしたので、取りに来たのさ。ちょっと、入らせてもらうよ」

 ろうそくをかかげて、宿の主人が入ってきました。ドアが、開かれても、ホルツは、仕事に一生懸命で、気が付かないふりをしていました。宿の主人は、消えかかったろうそくの火を見て、いやあ、この職人は、実に仕事熱心だなあと感心しました。

 ホルツのかたわらには、村のお百しょうさんたちから注文を受けた多くの木ぐつが、積み重ねられていました。宿の主人が貸したツチやノミと、おびただしい木くずも見えました。

 ただ、変わったことと言えば、いつの間にか、一匹のコオロギが、木くずと一緒に無造作に置かれた、あの大きな木ぐつの上に止まっていたことだけでした。

 人を恐れる様子もなく、なぜかコオロギの眼は、ホルツを見つめていました。壁にあるいびつな穴の中のマリアの像は、その目が煤と埃に覆われてこの世の真実を見きわめることができないようでした。

 使いの者は、部屋に入ったとき、ろうそくの灯りで、壁にコオロギの影が大きく浮かび上がっている様子をみて、何か、恐ろしいものに見られているような感じを受けました。それで、先程の威勢は、どこにいったのか、使いの者は、おずおずと、主人から教わったところを探しました。

 まず、最初に探したのは、壁にある、ふたの付いた、いびつな穴の中でした。しかし、そこには、袋どころか、一枚の金貨も見当たりません。

 次に、お金がありそうなところといっても、そう多くはありません。部屋にあるのはテーブル、椅子それにベッドとホルツの旅の支度が入った袋だけだったのです。

 宿の主人は、ホルツが隠したとはゆめ、思っていませんでしたから、ホルツへの疑いを晴らそうと探すのを手伝いはじめましたが、どうしても見つかりません。

 困った宿の主人は、ホルツに尋ねました。

「ホルツさん、この部屋に、お金が落ちていなかったかな」

 ホルツは、木ぐつ作りで夢中だったので、何のことかわからないと困ったように答えました。

 使いのものは、ご主人さまに合わせる顔がないと言って、道具と、材料を入れる箱、そしてホルツの着ているものまで調べましたが、どうしてもみつかりません。

 もちろん、木ぐつも一つひとつ改めましたが、見つけることが、できませんでした。ただ、宿の主人と使いのものが入ってきてから、一度も鳴かなかったあのコオロギが、お金を隠したあの木ぐつが調べられた時に鳴いたのです。

 その鳴き声をきいたとき、ホルツは呼吸が苦しくなり、心臓もドクドクと脈打って、その音が、宿の主人や使いの者に聞こえるのではと思ったほどでした。

 又、コツコツという音が聞こえてきました。あのなみだ指が、ドアを叩いているに違いありません。しかし、宿の主人と使いの者には、聞こえていないようです。

 宿の主人と使いの者も、互いに顔を見合わせ、どうしてよいかわからず、ホルツに向き合いました。

 その時、後から何度思い返してみても、不思議でしたが、ホルツは落ち着いた声で答えたのです。

「いくらでも、お好きなように、探してください。しかし、探してもないものはないのです」

 宿の主人は、ホルツに謝り、使いの者は、どう主人に申し開きをしたらよいかと頭がいっぱいになって、主人の元へ帰っていきました。

 使いのものが帰り、宿の主人も家族の部屋に戻ったことを確かめると、大きな息が、ほっとしてがつきました。

「悪いことをしてしまった。でも、どうしても、お母さんを楽にさせたかったんだ。盗んだお金は、一生、かかっても返すから、今は、見逃してください」

ホルツは、マリア様に、心の中でくりかえしくりかえし祈りました。

 さきほどまで、ホルツを見つめていると思われた、煤けた天じょう、火の消えた炉、テーブルの傷、壁のいびつな穴の中のマリア像、壁に映る自分の黒い影は、何もおこらなかったかのように静まり返っています。

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